幽霊よりも怖いもの(1)
その日の昼下がり、クラリッサは小間使いベルと共に田舎道を歩いていた。三つ隣のデュベリー夫人からお茶に招かれ、訪ねていったのはほんの小一時間前のことだ。
結婚をしてからというもの、クラリッサはこの小さな農村での近所付き合いに追われていた。義母メイベルがそういった務めを少しずつ任せてくれるようになり、必然的に社交性を身に着けつつある。人前では慎み深いクラリッサにとって、口数少なく初々しい若夫人を演じることはそう難しくもなかった。
もっとも今日のお茶会は、空に不吉な黒雲が張り出してきたことでお開きとなった。
「雨に降られては大変です。お送りしたいのですが夫が留守で、馬車を出せる者がいなくて……」
都会生まれで洗練された振る舞いのデュベリー夫人は、クラリッサを案じて帰宅を勧めてきた。
「どうぞ、お気をつけてお帰りになって」
それでクラリッサとベルは暗雲の下、急ぎ足で帰途に就いた。
三つ隣とは言っても、農村のそれは都会の家並みとは違う。
例えばクラリッサたちの家の窓から、デュベリー夫妻の家を見ることはできない。薔薇の花が咲く自宅の庭を越えると隣家の邸宅があり、その奥には広大な牧草地と羊の厩舎が設けられている。またその隣には別の邸宅と畑があり、厩舎があり――というふうに、一軒一軒の間の距離が途方もなく広い。
その為、クラリッサとベルは家まで相応の距離を行かねばならなかった。
空はいよいよ暗く、吹きつける風もどこか湿り始めて、二人は自然と早足になる。
「家に着くまで持ってくれるとよいのですが」
「ええ、全くね」
ベルの不安げな言葉に頷きつつ、クラリッサも眉を顰めた。
都会とは違い、街灯もない田舎道は日が陰ると歩きにくい。普段なら昼下がりの時分に明かりは必要ないのだが、今はまるで宵の口のように薄暗かった。すると普段なら緑豊かな農村の景色もどこか寒々しく、陰気に見えてくるから奇妙だ。
「少し、不気味ですね……」
ベルがぼそりと呟いた時だった。
クラリッサの視界の端で、何かがぼんやりと光った。
それはすぐ前方に建つ猟師小屋の窓だ。
田舎道から分岐する道の脇にあり、更にその先には木々が生い茂る小さな山があった。その山には猪が棲みついていて、時々鼻息も荒く人里に下りてくる為、そうなる前に猟師が山へ分け入って狩りをする。つまりは彼らの為の休憩小屋だ。
しかし季節は秋、山には食べ物も豊富にある頃で、猪が下りてくる心配はない。猟師たちもこの時季に山に分け入ることはないはずだった。
にもかかわらず、猟師小屋の窓が明々と光っている。
「あれは……?」
クラリッサは興味を惹かれ、そちらに目を凝らした。
「どうなさいました、奥様」
同時にベルが様子に気づき、クラリッサの視線を追う。
小屋の薄汚れた窓越しに、小さな赤い炎が揺れていた。それはすぐにふっと消えたが、宙に浮いているようにも見えた。
「何、今の……誰かいるのかしら」
以前、長旅をした経験からだろうか。最近のクラリッサは好奇心が強く、昔ほど臆病ではなくなっていた。
今もちらりと見えた炎が気になって仕方がなく、小屋の窓へ近づいていこうとした。
「お、奥様! 危ないですって!」
ベルが大声で制止する。
するとその声が聞こえたのだろうか、小屋の中で何か物音がした。
と同時に、窓から覗く者があった。
まるで煙の中から現れたように、揺らめいて見える二つの目。
鋭い光を放つその目が、はっきりとこちらを捉えた。
「えっ!?」
「きゃあ!」
クラリッサとベルは揃って声を上げた。
そして我に返るのはベルの方が早かった。クラリッサの腕を掴むや否や、一目散に走り出す。
「奥様、お逃げください!」
「に、逃げるの?」
つんのめりそうになりながら慌ててついていくクラリッサに、小間使いは振り向かずに叫ぶ。
「あれは鬼火です、奥様!」
「鬼火ですって?」
「ええ、彷徨える死者の魂――それがわたくしたちを惑わそうとしているのです!」
恐怖に強張る声を聞きつつ、クラリッサは一度だけ後ろを振り返った。
煤けたように曇った窓越しには、炎も、先程の目も見えない。もしかすれば見間違いだったのでは、とさえ思うほどに。
――ここまでが、バートラムが帰宅した二人から聞いた事の次第だ。
「もう、もう、わたくしは大変恐ろしゅうございました!」
ベルは必死の形相で主に向かって訴える。
「何と言っても小屋の中で鬼火が漂い、幽霊がわたくしたちを睨んでいたのですから! 生きた心地がいたしませんでした!」
「……ふむ、なるほど」
バートラムは彼女に合わせ、さも深刻そうに唸った。
もっとも内心では首を傾げている。その身の上ゆえに、バートラムはそういう類の話を一切信じていないからだ。
それでも、恐怖の中でクラリッサを引きずりながら逃げ帰ってきたベルの忠心は評価すべきだろう。
「クラリッサを守ってくれたこと、とても感謝しているよ」
そう告げると、ベルはようやく安堵したように口元をほころばせた。
「奥様のことは、誰よりも大事にしなくてはと思っております!」
しかしその顔もすぐまた強張り、彼女は尚も言い募る。
「ですが旦那様、あの小屋は何とかしなくてはなりません」
「幽霊か……」
バートラムはもう一度、深刻そうな表情を作った。
それから、ずっと黙りこくっている妻に視線を向ける。
恐怖に震えるベルとは対照的に、クラリッサは不思議と落ち着き払っていた。
もちろん帰宅直後こそ息も絶え絶え、小間使いと共に玄関へへたり込んでしまっていたが、今は静かなものだ。髪と同じく赤い睫毛を伏せたまま、何か考え込んでいるように見えた。
「クラリッサ、君は見たのか? 鬼火と幽霊を」
尋ねてみれば、彼女はわずかな沈黙の後で小首を傾げた。
「鬼火だと確証があるわけではないのです。わたくしはそういうものを見たことがありませんから……でも、炎であったのは確かです。猟師小屋の中で火が点っていました」
「大きさは?」
次のバートラムの問いには、クラリッサのみならずベルまでもが奇妙そうな顔をする。
しかし赤毛の妻は熟考の末、答えてくれた。
「……燐寸で点けたような小さなものです」
「出火していたということではないな?」
「はい。焚き火なんかよりもずっと、本当に小さな炎でした」
バートラムとて、鬼火なるものを見たことがあるわけではない。
だからこの話はもっと現実的な、人が引き起こしたものとして捉えるべきだと考えていた。
「では、君たちを見ていた目とは?」
続いて問いかけると、クラリッサはやはり首を捻る。
「あれは確かに目でした。誰のかはわかりませんが、ぎらりと光って見えました」
聞いただけなら不気味な話だが、目だけというのも奇妙なものだ。
「目があるなら、普通は鼻も、口も一緒にあるものだろう?」
「それが、窓が汚れていて。そこに誰かいたのか、人影すら見通せなかったのです」
どうやらクラリッサも、それが幽霊だと断定できているわけではないらしい。口調も表情もどことなく懐疑的だった。
「きっと目しかないんです! 幽霊ですもの!」
ベルの方は完全にそう信じ込んでいるようだが、さておき。
一方、話だけを聞く面々の反応もまた微妙だった。
「わたくしはここに移り住んで十年近くになるけど、幽霊なんて見たこともないわねえ」
怪訝そうなメイベルが、気遣うようにそう言った。
「小屋の鍵はいつも開いているから、猟師のどなたかが休憩でもなさっていたのではないかしら」
「その可能性もあります」
バートラムは母の意見を聞き入れつつも、肩を竦める。
「ですが猪狩りは秋の終わり頃からと決まっています。この時期に猟師が小屋にいるのを、私は見たことがありません」
「なら、お散歩中のどなたかというのは?」
「あの小屋は、休憩をするには少々粗末です」
「急に眩暈を起こして、少し休みたかったというのもないかしら」
「ないでしょう。道端に座り込む方がまだ落ち着きます」
メイベルが挙げた可能性を、バートラムは丁寧に否定した。
猟師小屋はこの農村の所有物であり、ご近所が持ち回りで掃除をする決まりだった。
バートラムも執事だった頃に何度か立ち寄ったが、猟銃をかけておく為の棚と寝袋を敷く簡易寝台がある程度で、さほど居心地のいい部屋ではない。失火を防ぐ為に暖炉もなく、あくまでも休憩所としての役割しか果たしていなかった。
村人が好きこのんで立ち寄りたい場所でもないはずだ。
「ではやっぱり、幽霊が……!」
ベルが再び身震いを始めると、行儀よく黙っていたセドリックが溜息をついた。
「幽霊なんて本気で信じる人の気が知れない。そんなもの、いるはずがない」
執事の言葉を挑発と受け取ったのか、たちまちベルはむっとしてみせる。
「セドリックさんは、どうしてそう言い切れるんですか!」
「見たことがないからな」
「私は見ました! 奥様と!」
「だが奥様は幽霊だと断言なさってはいない。結論を出すのは尚早だ」
バートラムの見立てでは、この若い執事も一応はベルを気遣っているようだ。幽霊などいない、怖がらなくてもいいと普通に言えばいいのだが、その辺りはどうにも融通が利かないらしい。
結局、やり込められた格好のベルが唇を噛んだところで口を挟むことにした。
「こうなったら、確かめてきた方が早いな」
言うなり立ち上がったバートラムは、一斉にこちらを向いた皆に対して告げる。
「私が様子を見てこよう。何もなければそれでよし、何かいれば追い出すまでだ」
「そんな!」
途端にクラリッサは愕然と声を上げ、
「お一人では危険です、旦那様!」
「私がお供を。男手はいくらあっても余るものではございません」
ベルとセドリックも口々に進言してきた。
幽霊を端から信じていないバートラムは、皆の反応に苦笑するしかない。
「大仰ではないかな。私一人で十分だよ」
「いえ、いけません!」
しかしクラリッサは険しい口調で反論する。
「幽霊でないなら不審者かもしれません。それで何かあった時、一人では助けも呼べないでしょう。お願いですから誰か連れていってください!」
「心配性だな、君は」
口ではそう言いつつも、案じてもらえるのはやはり嬉しい。
バートラムは愛妻の言葉に従い、執事セドリックを伴うことにした。
留守番の婦人三人には念の為施錠をと言い置いた後、家を後にする。
外では小雨が降り始めていた。
バートラムとセドリックは猟師小屋まで急ぐと、まず外観を確かめた。
木造の小さな建物には扉が一つ、窓が二つ。窓は山に面したものと道に面したものがあり、クラリッサとベルは道側の方の窓に炎や目を見たのだろう。
窓は聞いていた通りに汚れていて、中はよく見えない。他にも覗こうとした者がいたのだろうか、指で一筋拭ったような跡がある。
バートラムもまずは様子を窺おうと、窓ガラスを拭おうとした。
しかし指に触れたのはつるつるとしたガラスだけだ。
「……汚れているのは中か?」
どうも窓は内側が薄汚く煤けているらしい。
「ここは村で定期的に掃除をしております。こんなに汚れているのは妙かと」
セドリックが警戒するように声を落とす。
それに頷きで応じると、バートラムは足音を忍ばせて扉に近づいた。
耳を澄ませてみても人の気配はない。今は無人のようだ。
思い切って扉に手をかけ、一気に引き開ける。
すると小屋の中はいやに煙く、空気もうっすら澱んでいた。
「何だ、この煙は」
バートラムは口を手巾で覆う。それでも独特の匂いが鼻についた。
もしや本当に火事かと疑ったがそうではなく、開いた戸口から煙は外へ逃げ出していく。そして煙が晴れれば猟師小屋の内部がよく見えた。
猟銃をかけておく為の棚と簡易寝台があるだけの、本当に小さな建物だ。中はそれほど汚れても、散らかってもおらず、煙さえなければ何の異常も見受けられない。
いや、もう一つ――窓の汚れは確かにある。
「……あの煙で汚れたのでしょうか」
セドリックが窓ガラスに目を凝らしていた。
拭ってみれば、こちら側には確かに煤が付着している。
「ここで何かを燃やしたのか?」
クラリッサとベルは窓越しに、炎と煙を見たと言っていた。
だが暖炉もない小屋で何を、何の為に燃やしたのだろう。
あるいは――。
「ここにいたのはどなたなのでしょうね」
執事のセドリックはやはり幽霊だと思っていないようだ。
もちろんバートラムも同じように考えている。あの二人が見た者は幽霊ではない。だが誰か、はわからない。
「この村の人間なら、直にわかることだろう」
バートラムは楽観的に言って、セドリックを驚かせた。
「旦那様、なぜそのように?」
「狭い村では人間関係も密なものだ。うちの妻と小間使いをあれほど驚かせ悲鳴を上げさせた以上、礼儀を心得ている者なら自ら詫びに来るさ」
何せあのクラリッサが社交に精を出しているほどだ。
ご近所に無礼を働いてもいいことはないと、田舎暮らしの人間はよく知っている。
「もし、どなたも詫びに来なかったら? 余所から来た人間が隠れているということですか?」
セドリックが重ねて尋ねてきた。
「その可能性もある」
それにバートラムは曖昧に笑んで答える。
「あるいは、ここにいたことを知られたくなかった村の人間、という可能性もある」
バートラムたちは乏しい情報を収穫として持ち帰り、妻と小間使いをある程度安堵させることができた。
そして数日間黙って待っていたのだが――。
案の定と言うべきか、詫びに来るものはいなかった。