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嘘でもいいから(7)

 日の光が届かない洞穴の底は、空気が冷たく澱んでいる。
 だがクラリッサの背中を駆け登った悪寒は、その空気のせいばかりではないだろう。
 黴の匂いが漂う暗闇は辺りを包み込んでおり、クラリッサに忘れかけていた恐怖を呼び起こそうとしていた。
「お……おじい様は、どちらに?」
 聞かない方がいいのではないか。そう思いながらも、クラリッサは恐る恐る尋ねた。
 シェリルがまた鼻を啜る。
「そこに……」
 小さな手を持ち上げ、指を差したようだ。闇に慣れ始めた目が、彼女の腕の動きを微かに捉えた。
 だがその先にいるものの姿は見えない。どんなに目を凝らしても、辺りにはひたすら闇の色をした壁があるだけだ。
 ましてや他の生き物の気配など何も感じなかった。
「さっきまでランタンの火が生きてて、はっきり見えてたの」
 クラリッサが黙ったからか、シェリルもしゃくり上げながら訴えてくる。
「確かにいたの。わかるの。おじいちゃんの服を着てたから……」
 彼女の表情は確かめようもなかったが、声は悲嘆に暮れていた。クラリッサはどう応じていいのかわからず、ひとまず彼女に近づこうと一歩踏み出した。
 靴の爪先が何かを蹴り上げ、からんと金属的な音を立てた。
「ひっ……!」
 思わず声を上げかけたが、それが恐ろしいものでないことはすぐにわかった。
 慎重に屈み込み、手探りで蹴り上げたばかりのそれを掴んで拾う。金属の持ち手がついた、すべすべしたガラス窓のランタンだった。中の火は当然ながら消えており、辺りを照らす役割は果たしてくれない。
 しかし幸か不幸か、クラリッサにはマッチの持ち合わせがあった。昼食の際、外で湯を沸かす為に使ったものだ。
 エプロンのポケットからマッチの箱を取り出すと、音が聞こえたのか、それともクラリッサがランタンを手にしているのが見えるのだろうか。シェリルが口を開いた。
「明かり、点けるの? 怖くない?」
 自分より十歳以上も若い少女に心配されて、クラリッサは思わず苦笑した。
 明かりが点れば見えないものも見えるようになることだろう。そこにあるものを目の当たりにして、自分は声を上げずにいられるだろうか。正直に言えば怖い。とても怖い。
「あなたは、平気?」
 クラリッサは逆に、シェリルに向かって尋ねた。
 少女の答えはすぐにあった。
「あたしは怖くない。おじいちゃんだから」
 泣きながらもきっぱりと、強い意思を窺わせる口調で言った。
 それでクラリッサは躊躇を捨て、マッチの箱を開けて一本取り出すと勢いよく擦った。たちまちマッチの先端に小さな、けれど眩い炎が灯る。クラリッサはまだ周囲を見ないようにしながらその炎をランタンに入れた。洞穴の底が揺れる温かい光に照らされた。
「クラリッサ! どうした?」
 その時、頭上でバートラムの声が響いた。明かりを点けたことに気がついたのだろう。
 弾かれたように顔を上げたが彼の姿はもちろん見えず、クラリッサは急いで叫び返す。
「明かりを点けました! ここにお嬢さん方のおじい様がいらっしゃるそうなのです!」
 バートラムはその言葉に返事を寄越さなかった。彼も驚いているのかもしれないし、もしくはある程度予感していたのかもしれない。
 クラリッサは深呼吸をして気を引き締め、足元で蹲るシェリルの様子を窺う。彼女は地面にぺたんと座り、頬を涙で濡らしていた。緑色の瞳がランタンの炎にちらちらと、まるで猫の目みたいに光って見えた。
「あ、あっちに……」
 シェリルが改めて指を差す。
 クラリッサもランタンを持ち上げ、彼女が指し示した方向を照らした。
 洞穴の底はそれほど広くはなく、普通の邸宅の一部屋分といった程度だ。ランタンの光が照らした壁面はぽろぽろと崩れやすそうな土でできており、植物の細い根がここまで伸びて、ところどころにぶら下がっているのが見えた。
 少女の手はその壁面の下、地面との境目の辺りを指差していた。そこに服を着て横たわる人のような姿を見つけた時、クラリッサの肩がびくりと震えた。
 ランタンの光は狭い洞穴の底をためらいもなく照らしてくれる。うつ伏せの姿勢のその人物は顔をこちらへ向けていたが、既に白骨化が始まっているのがわかった。クラリッサはその顔を直視できず、逃げるようにランタンの光をずらして見えないようにした。それでもぼろぼろになった着衣と、不自然に折れ曲がった足首の骨はどうしても見えてしまった。着衣には経年による劣化だけではなく、ちょうど背中の辺りを何か鋭いものに引き裂かれた跡が窺えた。
 彼の身に何があったのか、クラリッサにはわからない。何かに襲われてこの洞窟へ逃げ込んだのか、誤って転落してしまったのかも定かではないが、足を負傷した時点で自力で這い上がってくることは不可能だったのだろう。
 そして助けも呼べぬまま、こんなに黒く冷たい闇の底で、たった一人で――。
「おじいちゃん、おじいちゃん!」
 シェリルは光に照らされた祖父の遺体を前に、再び泣き崩れた。
「いなくなっただけかもしれないって……どこかに一人で行っちゃったのかもって、お父さんたちは言ってたのに……!」
 わあわあと上げる泣き声が洞穴に響き、鼓膜を打つ。
「嘘だってわかってたけど――これなら、嘘の方がよかった……!」
 感情の全てをぶつけるように泣く少女を、クラリッサはなす術もなく見守っていた。
 彼女にとって祖父は、とても大切な人だったのだろう。両親や他の大人たちが捜索を諦めてしまった後もサイラスと二人で捜し続けていたほどだ。両親が子供たちの為についた嘘に気づきながらも、当人たちもまた祖父の死を予感して捜索しながらも、心のどこかでは生存を願っていたのかもしれない。
 クラリッサも身近な、そしてとても大切な人の死に直面したことがある。レスターの死はクラリッサにとってすぐには受け入れられないほど大きな絶望となった。だからシェリルの涙も悲しみも、胸に突き刺さるほど感じ取ることができた。
 だから、目の前に倒れ伏したシェリルたちの祖父に、改めてランタンの光を手向けた。
 怖い、などとは言っていられない。言えるはずがない。
 この人はシェリルたちにとっての家族だ。彼女たちがどうしても見つけてあげたかった存在でもある。怖がるべき存在では決してない。
 こうして見つけられてよかったと、そう思うべきだろう。
 ランタンのガラス戸の中で炎が揺れ、洞穴の壁面にもゆらゆらと揺らめく影が映る。温かい光で照らしているうち、クラリッサの心からは不思議なくらいすんなりと恐怖や寒気が消えていった。この人もここから連れ出すことができたらいいのにとさえ思った。
 祈るようにしばし光を捧げてから、クラリッサはシェリルに告げた。
「参りましょう。あなたも怪我をしているはずです、まずは上へ戻って手当てをしなければ」
「……おじいちゃんも、後から助けられる?」
 シェリルが手の甲で涙を拭い、不安そうな顔を上げた。
 クラリッサは少し考えてから首肯した。
「わたくしたちからもホリスさん――あなたのお父様にお話をしてみます」
 実際、こんな狭い洞穴から遺体を運び出すのも容易なことではないだろう。だが見つかったとわかれば農場主もまた安堵はするだろうし、どうにかして遺体を引き上げようとするに違いない。大切な人だったのだから。
「さあ、一旦戻りましょう。わたくしに掴まって」
 クラリッサはシェリルを促し、首に手を回すように言って抱きかかえた。子供とは言えシェリルの身体は、クラリッサの細腕にはそれなりに重く、少しの間持ち上げているのがやっとだった。ランタンの火を消し、シェリルに預けた後、クラリッサは頭上に向かって呼びかける。
「お願いします、バートラムさん! わたくしたちを引き上げてください!」
「わかった!」
 彼が叫び返すのが聞こえた直後、クラリッサの腰に巻きつけられたロープが少しずつ引かれ、やがてぴんと弛みなく張られた。そこから徐々に上へと引っ張り上げられていくようだ。靴底が洞穴の地面から離れて浮き、二人はわずかずつではあるが底から離れていく。
「おじいちゃん、後でね……」
 クラリッサの首にしがみつくシェリルが、啜り泣きながら呟いた。
 その小さな背中を励ますように叩きながら、クラリッサは頭上に微かに差し込む日の光を見つめていた。
 明るいところへ戻っていくのだと思うと、やはりほっとした。

 普段は何でも器用にやってのけるバートラムだったが、さすがに今回は涼しい顔でこなすとまではいかなかったようだ。
 クラリッサとシェリルを長いロープ一本で引き上げるのは大変に力のいることで、彼一人での作業は随分と時間がかかった。それでも途中でロープを滑らせるなどしてクラリッサたちを落とすことなく、何の危険もなく引き上げたことは称賛に値するとクラリッサは思う。
 おかげでクラリッサも不安や恐怖を持つことなく、彼を信じて地上まで引き上げられるのを待っていることができた。
 それでも、いくらか登った後で太陽の光を目にした時は、安堵と眩しさで涙が出そうだった。
 額に汗を浮かべ、真っ赤な顔をしてロープを引くバートラムの姿を目にした時は、胸が締めつけられるような喜びと安心感を覚え、口元がつい綻んだ。
 程なくしてクラリッサはシェリルを抱えたまま洞穴の入り口まで引き上げられ、そこからは自力で這いずるように脱出した。今度は地上の明るさに目が慣れず、けれどここ数日で嗅ぎ慣れた森の匂いと湖から吹きつけてくる風の涼しさで、自分のいる場所がもう洞穴の中ではないことを実感した。
「クラリッサ!」
「シェリル!」
 メイベルとサイラスがほぼ同時に声を発した。
 クラリッサからようやく手を離し、シェリルが地面に転がりながら顔を上げると、堪らずというふうにサイラスが飛びついた。
「よかった! シェリルが無事で本当によかった!」
 サイラスに強く抱き締められ、シェリルはまた嗚咽を漏らす。
「うん……ごめんね、ありがとう……!」
 抱き合い無事を確かめ合うきょうだいをちらりと窺った後、メイベルが眉尻を下げてクラリッサへ告げた。
「あなたも無事戻ってきてくれて何よりよ、クラリッサ。待っている間、生きた心地がしなかったわ」
「ご心配をおかけしました、奥様」
 クラリッサは主の言葉を申し訳なく思いつつも、心配してもらっていたことに少しだけ照れた。
 それから地上の明るさを味わうのも後回しにして、座り込んでいるバートラムに駆け寄った。
 彼は肩で息をしていた。額には玉の汗が浮かび、黒い前髪が汗を吸って張りついている。苦しそうに息をする間、胸は忙しなく上下を続け、荒い呼吸が辺りに響き渡っていた。
「バートラムさん」
 クラリッサが傍らで声をかけると、青い目だけが動いてこちらを見る。
 労いと感謝の思いを込めて、クラリッサは彼に微笑みかけた。
「ありがとうございました。あなたのおかげで無事お嬢さんを助けることができました」
 バートラムは無言で頷き、荒い呼吸の中で口を開く。
「こちらこそ。君が信じてくれたおかげで、万事上手くいった」
 そして息を整えながら、わずかにためらうそぶりも見せながら続けた。
「だが、君は大丈夫なのか。いたのだろう? 彼らのおじい様が」
「ええ」
 クラリッサが答えると、メイベルが近づいてきて声を落とした。
「どういうことなの、クラリッサ。この洞穴に、他にもどなたかいらっしゃったと言うの?」
「仰る通りです、奥様。この洞穴の底にお嬢さん方のおじい様が倒れて――もう既に、永き眠りに就かれていたのです」
 まあ、とメイベルが目を見開く。
 バートラムは気遣うような顔つきで囁いてきた。
「見たのか?」
「ええ」
「その割に、君は落ち着き払っているな」
「お嬢さん方の大切な人だと、ご家族だと思えば、恐れる必要などございません」
 クラリッサはきっぱりと、彼に向かって囁き返した。
 驚いたようにバートラムはクラリッサを見つめ、それからまだ汗の引かない顔をいくらか和らげた。
「頼もしいことだ。君はいつの間に、そんなに強い女性になっていたのだろうな」
 そして大きな手で、クラリッサの頬に触れてきた。指の腹で拭うようなそぶりをしたのは、きっとクラリッサの顔が土埃に塗れていたからだろう。クラリッサはいささか恥じ入りながらも微笑んだ。
「あなたがここでロープを持っていてくださったからです」
 彼の名前はできる限り優しく、温かく、想いを込めて呼んでおく。
「バートラムさん。わたくしを明るいところへ引き上げてくださり、ありがとうございます」
 いつだったか彼に言われたような、恋人らしい呼び方など知っているはずもない。だが彼が自分を呼んでくれたように、クラリッサもその名を口にしてみた。
 バートラムは青い瞳でクラリッサを見つめた。深い湖のような青さは、今は疲労のせいか、それとも感情の乱れからか細波立っているように映った。だがしっかりと、真っ直ぐに見つめてきた。
 それから彼は大きく息をつき、立ち上がる。
「お嬢さんをお宅まで連れて行こう。怪我をしているなら手当ても必要だ」
「はい。それと、おじい様のことも伝えなくては」
「そうだな……」
 クラリッサの言葉にバートラムは、深遠へと続く洞穴の入り口に目を向ける。
 その横顔は思いのほか穏やかだった。
「大切な人の元へ帰ることができるなら、それが一番いいだろう」
 全くその通りだと、クラリッサも思う。

 一行はその後、洞穴から離れ、ホリスの家へと向かった。
 バートラムが怪我をしたシェリルを背負い、その後をやたら心配そうに、ちょこまかとサイラスがついていく。メイベルは少しくたびれた顔をしていたが、足取りはしっかりしていたし、何より深く安堵した様子だった。
 クラリッサは最後尾を歩きながら、森の小道に降り注ぐ木漏れ日を味わうように浴びていた。振り返ってみれば洞穴の中にそれほど長く留まっていたわけではないが、日の光も森の匂いも、新鮮な空気を運んできてくれる風も、今は何もかもがいとおしくて堪らない。
 誰だって暗く寂しい場所よりも、光溢れる明るいところにいる方がいいに決まっている。シェリルたちの祖父も明るいところへ帰ってこられるよう、願わずにはいられなかった。
 そして先頭を行く、シェリルを背負うバートラムの後ろ姿に目を向ける。
 自分を明るいところへ救い上げてくれるのは、いつも、いつでもあの人だ。
 今や全幅の信頼を込めて、クラリッサは彼を見つめていた。
 いつになく素直な気持ちでいるのは、きっと再び人の死に触れたからだろう。
 大切な人に、生あるうちに、本心を伝えておきたい。後悔はしたくない。何よりも自分はもう、意地を張った挙句感情に振り回されるだけの子供ではないはずだった。
 木漏れ日を浴びながら、クラリッサはそんなことを考え始めていた。
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