嘘でもいいから(6)
倒けつ転びつこちらへやってきたサイラスに気づいて、真っ先にメイベルが声を上げた。「あら、今日もお散歩かしら……――どうかしたの?」
途中で彼女の声は不自然に裏返り、クラリッサも思わず視線を向ける。
昼前に言葉を交わしてから一時間ほどしか経っていないのに、サイラスは先刻会った時よりも酷く汚れて、ぼろぼろの格好をしていた。泥のようなものに塗れた顔と服、ズボンの膝は何かに擦った後のように破れかけている。その膝や同じように汚れた手のひらには血を滲ませており、何かよくない事態が起きたことを如実に示していた。
一体何が起こったのだろう。クラリッサは息を呑んだ。
そして異常を察して凍りつく三人に対し、サイラスは絶望に満ちた顔で叫んだ。
「シェリルが……シェリルが穴に落ちちゃったんだ!」
「……え!?」
「舟のロープを貸して!」
悲鳴のような声を少年は上げる。
直後、バートラムは弾かれたように立ち上がり、岸に泊めた舟へと駆け出した。確かに小舟にはロープが積んである。長さもそれなりにあったはずだ。
だがシェリルが落ちた穴がどれほどの深さかはわからない。洞窟を探していると、先程は言っていたが――クラリッサは背筋が寒くなるのを覚えた。あの時感じた懸念が現実になるとは思ってもみなかった。
「すぐに助けに行くわ、落ち着いて。場所はちゃんと覚えている?」
落ち着き払ったメイベルの問いかけに、サイラスは苦渋の表情で頷く。
「目印置いてきた。本当は引っ張り上げたかったけど、できなくて……」
全身の汚れも擦り傷もその時にできたものだろう。きょうだいを救う為に懸命になっていたことがそこからも読み取れた。
サイラスは更に懸命に訴えてくる。
「ここからじゃ父さんたち呼びに行くのも時間かかるし、だから……だからお願い!」
「大丈夫よ、わたくしたちが手を貸すわ。安心して」
切実な懇願を受け、メイベルは優しく告げた。それからクラリッサに向かって言った。
「今のうちにこの子の傷を、水で洗ってあげてちょうだい」
クラリッサもすぐさま指示に従った。お茶を入れる為に持ってきた水でサイラスの手のひらや膝の傷口を洗う。血が滲む擦り傷に水は染みるはずだが、サイラスは呻き声一つ上げなかった。
程なくしてロープを抱えたバートラムも戻ってきた。三人は手早く荷物をまとめると、サイラスの案内に従いシェリルが落ちた場所へと急いだ。
その穴は、洞窟と呼ぶにはやや小さかった。
大きな岩がひさしのように張り出したその下に、人が一人潜れるかどうかという程度の穴がぽっかり開いていた。岩の上部はぼうぼうに伸びた草花で覆われており、遠目からはただの小さな丘にしか見えないことだろう。だがその下に開いた穴は緩やかに下っており、真っ暗だ。屈んで覗いただけではどこまで続いているのかわからないほどだった。
洞穴の手前の地面には布を結んだ小枝が突き刺してあった。これがサイラスの言った目印に違いない。
「シェリル、大丈夫か!」
サイラスは洞穴に駆け寄ると奥へ向かって叫んだ。彼の甲高い声はわんとこだまして響いたが、それが止む前に返事があった。
「大丈夫。でも立てなくて、上に上がれない……」
泣いているのか、シェリルの声は震えていた。思ったより遠くないように聞こえる。さほど深い穴ではないのかもしれない。
ただクラリッサは、立てないという言葉が気にかかった。怪我をしているのだろうか。
「人を呼んできた! すぐ助けるから!」
洞穴に頭を突っ込むようにしてサイラスは叫んだ。だが覗き込む為に手をついた入り口の斜面には柔らかい土が積もっていて、呼びかける少年の小さな手がずるりと何度か滑りかけたのが見えた。崩れた土がその度にぱらぱらと音を立てて落下していく。
「危ない、下がっているんだ」
バートラムが言って、サイラスの身体を抱えるようにして退ける。サイラスは焦りに瞳を潤ませて訴える。
「頼むよ、シェリルを助けて! 足を挫いたみたいなんだ!」
「わかっている。だが……」
サイラスと、シェリルが落ちた洞穴を、バートラムは険しい目つきで見ている。ロープを手近な、頑丈そうな木に結びつけながらも難しい面持ちでいる。
「私が下りようにも、この幅ではいささか狭い。下りることはできるかもしれないが」
その言葉通り、洞穴は大人の男が入るにはぎりぎりというほどしか開いていなかった。長身のバートラムでは肩がつかえるのを免れたところで、一度下りたら這い上がるのも容易ではなさそうだ。その奥がどうなっているかわからないなら尚のことだ。
「ましてあのお嬢さんを抱えて出てくる余裕はなさそうだ。なぜこんなところへ入った?」
眼光鋭く睨まれて、サイラスは一瞬うっと詰まった。
悔しそうにしながらぼそぼそ答える。
「シェリルが明かりを点けて中を覗いたんだ。そしたら何かあるって言って……」
「何があったんだ」
「わ、わからないよ! シェリルが落ちたら明かりも消えちゃったし、それどころじゃなかった!」
少年の答えを聞き、バートラムは尚も逡巡するように眉を顰めた。
その後で、クラリッサを見た。
彼と目が合った瞬間、クラリッサは不思議と彼の迷いをおおよそ理解した。この洞穴は彼が下りるには狭いし、足を負傷したシェリルを抱えて登ってくるのは不可能に近いだろう。だがもっと小柄な人物であれば――自分にならできる。
無論、それは危険なことでもあるだろう。ここからでは洞穴の深さは測り知れない上、落ちてしまったシェリルは明かりの火を消してしまったようだ。まして洞穴の底には、シェリルが見つけたという『何か』が待ち受けているかもしれない。
だが彼女が怪我をしているなら、一刻も早く引き上げ、助けてなくてはならない。
クラリッサは少しだけ罪悪感を覚えていた。シェリルたちが『洞窟』と言い出した時、少し嫌な予感がしたのだ。あの時、強く制止しておくべきだったのかもしれない。大人として、子供の無茶は咎めるべきだったのかもしれない。今になって急に後悔の念が湧き起こる。
そして、バートラムが自分と同じ考えでいるのなら。
彼の考えは信頼できる。今までの経験で十分に実感している。
迷うことはない。
「わたくしが参りましょう」
彼が次に口を開くより早く、クラリッサは申し出た。
「……そうするしかなさそうだ。頼めるか、クラリッサ」
バートラムは驚かなかったが、メイベルも、そしてサイラスも酷く驚いてみせた。
「まあ、あなたが!?」
「お姉さんにそんなことさせられないよ。それなら俺がやる!」
サイラスが慌てて名乗りを上げたものの、バートラムは重々しくかぶりを振る。
「君では無理だ。手のひらを怪我しているから、お嬢さんを落とさないように抱えてはこられまい」
「でも! 女の人に任せるなんて……」
「だからこそ我々で精一杯支えるのだ」
きっぱりと言い切ったバートラムがクラリッサに向き直る。言葉をためらうような間は一呼吸だけ、その後すぐに口を開く。
「クラリッサ。私の策に乗ってくれるか?」
「ええ」
即答して、クラリッサは傍らのサイラスに目をやった。
年端も行かぬ少年の腕は針葉樹の枝のように細い。クラリッサも別段腕力に秀でているわけではないが、大人である分、確実に役目を果たせることだろう。
そうだ。これは、大人の務めだ。
「構いません。急ぎましょう」
促すように言うと、バートラムは頷き、サイラスは悲痛な溜息をついてからクラリッサを見上げる。
「お願いだよ……シェリルを助けてくれる?」
あどけない顔が不安に張り詰めているのを見ると、胸が痛くて堪らなくなる。あの時、昼前に会った時、生意気そうな顔を見かけていたから尚更だった。
そして一度だけ見たシェリルの微笑みも脳裏に浮かんで、いても立ってもいられなくなる。
クラリッサはあえて自信ありげに答えた。
「大丈夫です。お嬢さんは、必ず助け出してみせます」
実際に自信があるかと言えばそうではなかった。
こんな経験が今までにあったはずもない。高いところから飛び降りたことはあるが、あの時は足が竦んで、怖くて仕方がなかった。飛び降りてからもしばらく身体の震えが止まらなかったほどだ。そしてあの時は彼が受け止めてくれたから、自分は無傷でいられた。
今回は受け止めてくれる人がいるわけではない。見通せないような洞穴をたった一人で下りていかなければならない。
だが今はそれほど怖くない。バートラムがしっかりと、クラリッサの腰にロープを巻きつけているからだ。彼は縄を結ぶのもお手の物のようで、弛まぬようにしっかりと結わえてくれた。
結び目から伸びたロープをクラリッサの手に持たせると、バートラムはいつになく真剣な表情で言った。
「クラリッサ、よく聞いてくれ。君のすべきことはそう多くない」
「はい」
クラリッサはそれを一字一句聞き漏らさぬよう、耳を傾ける。
「ロープを掴んであの洞穴にゆっくりと下りていく。ゆっくりでいい、決して急ごうとするな。恐らくシェリルは底にいるから、足が着くまでひたすら下りるんだ」
恐らくは彼の言う通りだろう。シェリルは『立てない』と言っていた。怪我さえなければ立てるような安定した場所にはいるということに違いない。
「そして彼女を見つけたら、しっかり抱え上げてくれ。抱えるだけでいい。無理に登ってこようとしなくていい」
バートラムは説明しながら、青い目でじっとこちらを見つめてくる。
「後は私が君たちを引き上げる。時間はかかるかもしれないが、必ず二人とも引っ張り上げてみせる」
それから今一度、ロープの結び目を確かめた。彼はここまでの作業も非常に手早くやってのけたが、その間中、珍しく逡巡の色を隠さずにいた。
今もクラリッサへと向ける表情は硬い。
「君を危険には晒さない。ロープの強度は確認してあるし、刃物でも使わない限り裂けることはないだろう。だが、下りてからのことは私にもわからないし、見えない」
少しだけ、心苦しげな顔にも映った。
「一度では無理だと思ったら引き上げるから言ってくれ。決して無茶はしないように」
「はい」
クラリッサは顎を引く。本当は無理をしてでも急いでシェリルを助けたいところだが、それで自分まで怪我をしては元も子もない。
バートラムはそこでようやく微かに笑んだ。
「あとは……私を信じていてくれ」
「はい。信じております」
以前なら嘘でも言いはしなかった。だが今は心から言えた。
先程よりも深く頷くと、バートラムは更に表情を解いた。
そして一瞬だけクラリッサの肩を抱き締めると、すぐに離した。ほんの短い間ではあったが、彼の体温がクラリッサの気持ちを落ち着けてくれたようだ。
「お姉さん。シェリルを助けて!」
「くれぐれも気をつけてね、クラリッサ」
サイラスの懇願とメイベルの祈るような声援を聞きながら、クラリッサはロープを固く握り締め、そろそろと洞穴へ踏み出す。
狭い入り口に後ろ向きになって足を下ろすと、傾斜の緩い坂を一歩一歩、これ以上ないほど慎重に下りていく。日の当たらない場所だからか、靴底には柔らかく滑りやすい土の感触があった。ともすれば足を踏み外しそうになる。
顔を上げれば、まだ光差す入り口が見える。眩しい光を背負ったバートラムとサイラスの表情は見えない。二人分の黒い影が並んでいるだけだ。クラリッサは笑いかける余裕こそなかったが、彼らに向かって深く頷いてから尚も下りていく。
洞穴の傾斜は初めのうちこそ緩やかだったが、徐々に勾配がきつくなってきた。直に入り口は見えなくなり、そこから差し込む光もやがて途切れた。慣れない目では底までは見通せなかったが、そう深くはないようだ。シェリルのすすり泣く声がどんどん近づいてくるのがわかる。それと共に黴のような臭いが鼻を突く。
下りている間、少しだけ怖いと思った。
何度か靴底がつるりと滑って、悲鳴を上げそうになった。
だが唇を引き結んで上げかけた声を呑み込んだ。代わりに大きく息をついて恐怖を追い払う。ロープは硬すぎて握り締めると手のひらに痛かったが、クラリッサは弛まずに少しずつ降下を続けた。
どのくらい経った頃だろう。
「……サイラス?」
シェリルの涙声がそう言ったのが、クラリッサのすぐ足元で聞こえた。
クラリッサは慌てて答える。
「いいえ、わたくしです。助けに参りました」
「お……お姉さんが?」
ぐすっと鼻を啜るのがわかった。
声を聞く限り、まだ体力はあるようだ。怪我もそれほど酷いものではないのかもしれない。
安堵の息をつきながらクラリッサは洞穴を下り続け、しばらくするとようやく靴底が固く、平らな地面を捉えた。両足を着いて降り立ったことを確認してから、クラリッサは一旦ロープを放し、頭上に向かって呼びかけた。
「底まで着きました!」
頭上には入り口こそ見えないが、入り口から差し込む光の残滓が微かに天井を明るく照らしているのがわかった。その向こうまでクラリッサの呼びかけは響き、恐らく彼らにも届いたはずだ。
「よくやった、クラリッサ! 引き上げる時は言ってくれ!」
すぐに返ってきたバートラムの声も、心からほっとしているように聞こえた。クラリッサも何となく微笑んでしまう。
それにしても、まだ暗闇に目が慣れない。
洞穴の底はそう広くないようだが、辺りをどっしりとした闇に囲まれていると息苦しくて仕方がない。見回してもシェリルがどこにいるのか掴めないどころか、自分がどちらを向いているのかさえわからなくなる。クラリッサはロープを握り締めすぎて痛くなった手を擦りながら、足元に向かって呼びかける。
「お嬢さん、どちらですか?」
それほど大きな声を立てたつもりはなかったが、天井が高いせいか、その問いかけは妙に大きく響いた。
「……ここ」
シェリルの声も少し響いて、闇の中で人影が起き上がるのがかろうじて見える。
たちまちクラリッサは胸を撫で下ろし、
「よかった。さあ参りましょう、あとは上から引き上げてもらいますから」
闇に向かって手を差し伸べる。
はたして彼女には見えているのだろうか。クラリッサは不安に思ったが、シェリルは更に不安そうな声を上げた。
「お姉さん……」
「どうしました?」
「ここに、いたんです」
「いたって、誰が?」
予感はしたが、クラリッサは聞き返した。
途端にシェリルはしゃくり上げ始め、泣きながら言った。
「お……おじいちゃん。あたしたちの、おじいちゃんが……」
クラリッサの喉が、ごくりとひとりでに鳴った。