永遠に続いてほしい夢の話(6)
三人が宿へ戻ったのは、もう日も暮れかけた頃だった。次から次へといろんな出来事が起きたせいだろう。メイベルはすっかり疲れきっていたようで、客室の長椅子にもたれかかったかと思うとあっという間に眠りに落ちてしまった。クラリッサは彼女に毛布をかけた後、自らは窓辺に立ち、暮れていく街並みを眺めていた。
結婚式の後、今度は街を挙げての大掃除が行われた。石畳に積もった花びらはきれいに掃き清められ、今では跡形もない。大通りの上にはためく三角の旗飾りだけが夢のような時間の面影を残しているようだ。夕暮れの光はゆっくりと古い街並みに染み込み、家々の屋根や壁、道に敷き詰められた石畳を同じ色合いに染め上げていく。
クラリッサもさすがにくたびれていた。今日一日で随分たくさんのことを考えたような気がするし、花婿たちには散々振り回されてしまった。しかし過ぎ去ってしまえば彼ら――ことアルフレッドへの怒りはもう掻き消えており、代わりに何とも言えぬ複雑な感情が頭をもたげつつあった。
窓辺で頬杖をついていると、背後からは声がする。
「クラリッサ、お茶でも入れようか」
聞き慣れた執事の声に、クラリッサはゆっくり振り向いた。
「奥様はお休みのようだから、我々だけでも一息つこう」
バートラムが卓上に茶器を並べ始めている。メイベルを起こさないよう、音を立てずに支度を始めているところだった。何をするにも優雅な手つきの彼は、そうして茶器を並べる姿すら様になっている。
しかしクラリッサは慌てて、
「あ、わたくしがやりましょう」
窓から離れようとしたが、バートラムは笑顔でかぶりを振った。
「君も今日は疲れているだろう。私に任せておくといい」
「ですが、あなただって……」
「私は平気だよ。それに、私の入れたお茶が美味しいことは君も知っているだろう」
彼はそう言うと意味ありげにクラリッサを見た。
バートラムが入れた茶を飲んだことは、過去に一度きりしかない。そしてそれはクラリッサの頭に、主に腹立たしい記憶として染みついていた。
思い出したクラリッサが反応に迷っていると、バートラムは愉快そうな光を瞳に宿らせる。
「さすがに今日はおかしなものを入れたりしない。私を信じてくれないか」
「信じたいのはやまやまですが、何しろ前回のことがございますから」
「しかし、これまでに私を信じて悔やんだことなどないだろう?」
彼が自信ありげに言い放ったので、クラリッサは反論を諦めた。それからおとなしく彼に茶を入れてもらうことにした。
夕日の色に似た茶が入ると、二人は窓辺まで椅子を引き、外の景色を眺めながら茶を飲んだ。
バートラムが入れてくれた茶の味は、今回はクラリッサが自分で入れたものとそう変わりなかった。茶葉から香りを引き出すやり方は熟知しているようで、とてもいい香りがしていた。
「今日は忙しい日でしたね」
一息ついたクラリッサが切り出すと、バートラムも深く頷く。
「目まぐるしい一日だった。あの坊やには最後まで振り回され通しだったな」
アルフレッドのことを考えると、クラリッサはやはり複雑な気分になる。
結果的にクラリッサ、そしてバートラムは彼の背を押し、そして花嫁との仲を取り持つこととなった。それは無論結婚式の成功にも繋がり、花婿と花嫁、そして彼らの親たちから感謝の言葉を貰うこともできた。
だがそれが正しい行動だったのか、胸の中には少しのわだかまりが残っている。
「あのお二人はこれから、幸せになれるでしょうか」
クラリッサはむしろ自問自答するように呟いた。
アルフレッドはおよそ頼りになるとは言いがたい男であり、ソフィアは世間知らずのクラリッサから見てもいささか幼い娘だ。二人は式の前に想いを確かめ合い、不安を分かち合うことを誓ったが、今のままではアルフレッドがまた新しいものに目移りしないとも限らない。ソフィアとてまた不安に囚われ、一人閉じこもって泣き暮れる日がやってくるかもしれない。
「さあ。先のことは誰にもわからない」
バートラムは肩を竦める。
「今は二人とも、同じ夢を見ていられることだろう。だが目が覚める日は必ずやってくる」
「そうでしょうか」
「いつまでも夢のまま過ごすことなどできはしないさ。その時に本当の夫婦愛が試されるのだろう」
彼はそこまで語ると相変わらず品よくカップを傾け、たっぷり時間を置いてから続けた。
「その日までにあの坊やとお嬢さんが大人になって、立派な夫婦になっていると思いたいがね」
「わたくしもそう思います」
クラリッサは顎を引く。
多少なりとも他人の人生に関わってしまった以上、彼らの幸福と平穏くらいは願っておきたい。もう関わりたくないという気持ちも確かにあったが、それでも彼らがいつまでも幸せでいてくれなければ寝覚めが悪いというものだ。
「しかしどちらにせよ、我々が彼らの先行きを見届けることはない」
きっぱりとバートラムは言い切り、クラリッサは驚きに瞠目した。
すると彼は少し笑って、
「忘れていたわけではないだろう? 結婚式を見届け、奥様にもご満足いただけた。我々がこの街に留まる理由はもうない」
「いえ……そうでした」
先のことは誰にもわからない。
それは自分自身の道行きだけではなく、他人の人生についてもまさにそうなのだろう。アルフレッドたちがこれからどんな道を歩もうと、どんな夫婦になろうと、それをクラリッサが知る機会はもうないのかもしれない。考えても仕方のないことを、いつまでも考える必要はない。
「奥様が喜んでくださった。そのことだけで十分だと思うことにいたします」
クラリッサがそう告げると、バートラムも満足そうにしてみせる。
「そうとも。我々もそろそろこれからのことを考えなくてはならない」
「ええ」
次の目的地はどこになるのだろう。メイベルはもう決めてしまっているに違いないが、それをバートラムは知っているのだろうか。
クラリッサはまだ知らない。どこへ行くのであってもメイベルについていくだけだと決めている。それだけだった。
「我々の素晴らしい夢も、どこかで終わらせなくてはなるまい」
バートラムが青い目を和ませ、クラリッサはその言葉に眉を顰めた。
「夢とは何のことでしょう」
「それも忘れてしまったのか? 我々が恋仲のふりをしていることだよ」
「ああ……。忘れていたわけでは断じてございませんが」
単に、夢と呼ばれるようなものだと思っていなかっただけだ。クラリッサからすれば、単に周囲を欺いているという感覚しかなかった。
「嘘とは思えぬほど慣れてしまったということなら、私も喜んで事実にしてしまうつもりだよ」
嬉しそうにバートラムが言い出したので、慌てて拒絶しておく。
「何を仰るのですか。わたくしは、奥様にこれ以上出任せをお話しするのは嫌です」
「出任せでなければいいのだろう。本当に恋仲になってしまえばいい」
冗談とも本気ともつかぬ、さらりとした物言いだった。
「またあなたはそういう軽薄なことを……少しは真面目に考えてください」
クラリッサはたしなめるつもりで言い返した。
だがバートラムは黙って窓辺にカップを置き、ふと椅子から立ち上がった。すぐ傍に座るクラリッサに歩み寄ると、その髪に触れようとするように屈み込み、手を伸ばしてくる。
当然のことながらクラリッサは仰け反るようにその手から逃れた。
「一体、何をなさる気です――」
「動かないで」
ぴしゃりとクラリッサを押し留めたバートラムの声は、いつになく低く尖っていた。表情も真剣そのもので、クラリッサは叱られた気分で椅子に座り直す。端整な顔から笑みが消えると、その凛々しさが少し怖いくらいに映った。
バートラムの大きな手が自分の髪に触れるのがわかった。その間、クラリッサも自然と息を止めていた。彼の手の感触は優しく、気遣うように控えめで、それがかえって居心地の悪さを増幅させた。アルフレッドに触れられた時のような嫌悪感がないのも奇妙に思えた。
やがて彼は細く息をつき、端整な顔に微笑を取り戻してクラリッサを見下ろす。
「ほら、見たまえ。これが君の髪についていた」
彼の大きな手のひらには、白い花びらが一片載せられていた。
「これ、結婚式の時についたのでしょうか」
詰めていた呼吸を解き放ったせいで、クラリッサの声は少し震えた。
「恐らくそうだろう。ここまで連れ帰ってきてしまったようだ」
花びらはさすがに萎れかかってはいたが真っ白なままで、窓からの風を受けて彼の手のひらの上でもころころ転がる。
バートラムはそれをじっくりとクラリッサに見せた後、自らのハンカチを取り出してその花びらを包み、更に懐へとしまった。満ち足りた顔つきで言う。
「結婚式のおこぼれに預かった気分だ」
「どういう……意味ですか?」
クラリッサが聞き返しても彼は答えない。ただ嬉しげにしている。
しばらくしてから椅子に戻ったバートラムは、透き通った青い目でクラリッサを見つめながら告げた。
「もう少しだけ私に時間をくれないか、クラリッサ」
その言葉の意味も、クラリッサにはよくわからなかった。
だから黙って瞬きをすると、彼は言い聞かせるように優しく続ける。
「私と、もう少しだけ恋仲でいてくれないか」
「なぜです」
すかさず聞き返せば彼は面食らったように笑い声を立てた。
「なぜと聞くのか。君とそうしているのが幸せだから、そういう言葉では不足かな」
「いえ、あの……」
真正面からの答えを聞き、とっさにクラリッサは口ごもる。
思えば、彼との関係において長らく疑問に思ってきたことがあった。
いや、初めのうちは疑問ですらなかった。クラリッサが勝手に思い込んできたことで、彼自身に確かめる機会はなかった。
だがアルフレッドから誘いを受け、更にそれをかわす為にバートラムの力を借り、そして全てが片づいた今――その疑問は急速に形となり、クラリッサの胸中に芽生えた。
「前から思っていたのですが、あなたのそういうお言葉は本気なのですか?」
クラリッサは芽生えた疑問を口にして、その直後少しばかり悔やんだ。
今でも、それを聞いてどうするのだろうという思いはあった。彼が肯定しようが否定しようが、自分の気持ちが変わるわけではない。
ただ、ずっと冗談や軽口の類だとばかり思っていたそれらの言葉が、もし本気だったというのなら――。
バートラムはクラリッサの疑問にうろたえることもなく、静かに答えた。
「本気だと答えたら、少しは私のことを気にかけてくれるのかな」
「そ、そういう仰りようはずるいです」
即座にクラリッサは噛みつき、バートラムもそれは素直に認めて破顔した。
「それは君の言う通りだ。では答えようか――無論、本気だよ」
聞いておきながら、クラリッサはその答えに動揺した。
何となく、ずっと、違うのだろうと思っていたのだ。
「あ、あの……それは……」
更に尋ねようとしたが言葉が出てこず、クラリッサは彼から目を逸らす。
途端にバートラムの押し殺したような笑い声が聞こえた。
「おや、君のそういう反応は新鮮だな。しかし恥じらう君も可愛らしくていい」
クラリッサは怒鳴りつけてやろうと思ったが、メイベルが寝入っているのを思い出してどうにか堪えた。
代わりにバートラムの満面の笑みを睨みつけ、
「やはりわたくしをからかっているのでしょう? その手には乗りません」
「からかいでも嘘でもないよ。私は君に対しては、なるべく正直でありたいと思っている」
バートラムはわずかなりとも余裕を崩さず、クラリッサの反応を楽しんでいる。
「だから、クラリッサ。私にもう少し時間と機会をくれないか」
「もう少し、わたくしと恋仲でありたいと仰るのですか」
「それもそうだが、是非今のうちに君と逢い引きをしておきたい」
混乱をきたした頭に、例の聞き慣れない単語が襲いかかってくる。クラリッサは危うく椅子から転げ落ちそうになった。
「あ、逢い引き……そんなことわたくしは存じませんし、無理です」
「心配しなくていい。君は私の傍にいてくれるだけでいいのだから」
彼がそう言った時、長椅子の上でメイベルが寝返りを打った。その拍子に彼女の身体から毛布が滑り落ち、バートラムとクラリッサはほぼ同時に席を立つ。
だが目が合うとクラリッサは動揺してしまい、バートラムが笑んで、先にメイベルへと駆け寄った。床に落ちた毛布をメイベルにかけ直しながら言った。
「君も知りたいとは思っているのだろう。私が君をどう思っているのか。なぜ私が君を日々口説き落とそうとしているのか。私とあの坊やの一体何が違うのか――逢い引きはそれを確かめるいい機会になる。確実にな」
彼の言葉は癪に障ったが、事実でもあった。
クラリッサはバートラムのことを何も知らない。軽薄に見えていた彼の真意さえ今日まで知らなかったほどだ――いや、知ったとはまだ到底言えないだろう。彼にはまだこちらに話していない何かがあるに違いない。そういうものを知ればまたうろたえることにもなりそうだが、知っておく必要もあると思う。
これ以上目を背けてはいられない。彼には助けてもらったことへの感謝もある。恩人である彼のその心を、単なる軽口として片づけるわけにもいかないだろう。
何よりクラリッサは、知りたいという思いを止められなかった。ほんのわずかに聞かされただけでは胸の内の疑問も解けず、かえって不思議に思うばかりだ。彼のことを知りたい。わからないことは全て解き明かしておきたい。そうでなければこの先、もやもやとした思いばかり抱えて共に旅をすることになってしまう。
「……逢い引きではなく、二人で場所を移して話をするということであればお受けします」
「私ならそれを逢い引きと呼ぶがね。まあ、君が乗り気になってくれただけで十分だよ」
バートラムはこちらに向かって、長身を折るようにお辞儀をする。
「では近いうちに。できればその時は、先程のように可愛い君を見せてもらいたいものだ」
「バートラムさん!」
クラリッサはつい声を上げてしまい、すかさずバートラムにかぶりを振られた。
慌てて唇を結ぶと、彼は穏やかな面持ちで語を継ぐ。
「どうせなら恋人を呼ぶように愛を込めて呼んでくれ。私はこの名を気に入っているのだ」
「はあ……。わたくしは恋人の呼び方など存じませんから」
「今にわかる。当面は君なりに考えておいてくれるだけでいい」
釈然としないクラリッサにそう言い聞かせた後、バートラムはしみじみ呟いた。
「我々の夢の時間はまだ続くようだ。――私としては、永遠でもいいのだが」
クラリッサは奇妙なくらい戸惑っている。
いつの間にか、自らの気持ちさえ揺り動かされつつあるような気がしてならない。