永遠に続いてほしい夢の話(5)
アルフレッドは赤くなった頬を手で押さえ、立ち竦んでいる。口をあんぐりと開けているのは驚きのせいだろう。しかし一向に何も言い返してこないのは少々不気味だった。そのうち血相を変えて怒り出すのではないかと思うと、クラリッサも彼から目を逸らすことができない。本当なら一呼吸の間すら正視に堪えかねる憎々しい相手だが、仕方なく注意深く見守っていた。
彼の頬ははっきりとわかるほど赤みを帯びており、恐らくそれなりに痛かっただろうと推測できた。だがクラリッサも痛かった。手のひらに痺れるような痛みがまだ残っている。それにもちろん、全てを焼き尽くすような怒りの炎もまた治まらず、クラリッサの中でごうごうと音を立てている。
クラリッサはまだ恋を知らない。だが恋がどれほど貴く意味深いものであるかは知っている。レスターとメイベルを逃避行へと走らせ、結果として彼らに幸いに満ちた日々をもたらした唯一無二の感情――そういうものを、アルフレッドの振る舞いによって無残にも踏みにじられたような気がしていた。自身に縁がなかったからといってそれを軽んじる気もなければ、誰彼構わず愛するような真似をしようとも思わない。ましてや逃げる覚悟すらないまま縋りついてくる男に与えてやるものなど、平手と罵倒以外に何があるだろう。
だが頬を打ったところで、何を言ったところで彼に伝わるのかはわからない。
アルフレッドはまだ黙っている。呆然としている。口も利かずに突っ立っている彼を見ていると、クラリッサもふと空しさを覚えた。
思わず溜息をつく。
しかし気を緩める段階ではなかったようだ。まるで今の溜息を合図にしたかのように、二人のいる小部屋の扉が開いた。ノックもなしに勢いよく開け放たれ、クラリッサははっとして、アルフレッドは少し遅れてのろのろとそちらを向いた。
戸口に立っていたのはバートラムとメイベルだ。不安そうな顔のメイベルとは対照的に、どういうわけかバートラムは満面の笑みを浮かべている。青い目がクラリッサを一瞬捉えた後、すぐにアルフレッドへと向けられた。
そして、彼はひざまずいた。
「アルフレッド様。クラリッサの無礼をお許しください」
一見してごく丁寧な詫び方だったが、どこか芝居がかってもいた。
だがそれ以前に、無礼と言われてクラリッサは困惑した。まるで自分が何をしたのか知っているかのようだ。まさか――。
「しかしクラリッサもアルフレッド様とソフィア様を思ってこそ苦言を呈したのでございます。何卒ご容赦を」
バートラムはそう言うと、ひざまずいたままクラリッサへと流し目を送る。
間違いない。彼は自分がアルフレッドに何を言い放ったのか聞いているのだ。いや、もしかすると自分の怒鳴り声が廊下中に筒抜けになっていたということなのかもしれない。
クラリッサはついさっき言い放った自らの言葉を反芻した。何かまずいことは言わなかっただろうかと考えてみる。
考えている間にもバートラムは続ける。
「そして私もクラリッサと同じように思います。――ソフィア様の愛を欲するのであれば、決して逃げてはなりません」
クラリッサはそこで目を瞠った。
自分はそんなことを口にした覚えはない。アルフレッドも、彼女の愛が欲しいとは口にしていなかった。
しかしバートラムは押し通すような強い口調で尚も言った。
「この状況、そして極度の緊張からほんの一瞬、逃げたいという衝動が過ぎるのもやむを得ないことです。いかにアルフレッド様が誠実な方と言えど、その一瞬の迷いは人として当然のものであり、神様もお許しくださることでしょう」
神の手で綴られた物語を力づくで書き換えてやろうとするような、強引かつ傲慢な、自信に満ちた物言いだった。
「ですが、クラリッサも申し上げた通りです。逃げるという行動には覚悟が必要ですし、その覚悟はあなたには必要のないものです。あなたはソフィア様の愛を、そして現在のお立場を失ってはならない。となればなすべきことはおわかりですね?」
そこまで言うとバートラムはまだ立ち尽くしているアルフレッドに意味深長に笑いかけ、立ち上がった。
そして事の次第を窺うクラリッサに歩み寄ったかと思うと、ごく自然な動作で肩を抱き寄せた。ぐいと引き寄せられてクラリッサの身体は傾ぎ、頭から彼の胸に衝突した。だがそれすら好都合というように、バートラムはクラリッサを抱きかかえてまた口を開く。
「私と深く愛し合うクラリッサには、今のあなたが抱かれる不安も、あなたに今必要なお覚悟もよくわかっているのです。それは恋人を持つ者ならば当然の感情であるからです。我々もかつては不安に囚われ、迷うことすらありました。しかしそれらは長い年月の間に確かめ合った愛の力で、無事乗り越えることができましたが――」
どさくさに紛れてとんでもないことを言い出すものだ。クラリッサは唇を尖らせかけたが、戸口に立つメイベルがこちらへ真剣な眼差しを向けていたこと、そして彼女の背後にいつしかアルフレッドの父やソフィアの両親、その他大勢の人間が詰めかけていることに気づいて、慌てて澄ましたような表情を作った。
バートラムがこの場を切り抜けようとしてくれているのなら、彼に全て委ねた方がいい。
彼はこれまで何度となく自分を助けてくれたのだ。信じていい。
「そしてそれは、間違いなくあなたにもできることです。アルフレッド様」
バートラムの話を、アルフレッドはこの期に及んで気まずげな顔で聞いていた。いつの間にか大勢がここへ集まっていることも、自らの安易な逃避が拒絶され、失敗に終わったことも、恐らく酷く堪えたに違いない。
恐る恐る、青ざめた唇を動かす。
「私に……何ができると言うのです。私とて不安なのに。ソフィアにこれ以上拒絶されたら、どうしていいのかわからなくなる……」
「そのお気持ちをそのまま、ソフィア様に告げればよろしいのです」
たやすいことのようにバートラムは言った。
クラリッサが見上げる先で、彼は何もかも見通した微笑を浮かべている。それが真実なのか虚喝なのか、クラリッサには見通せない。どちらにしても結果に変わりはないこともわかっている。
「そんなことを言ったところで、ソフィアの気が変わるとでも?」
アルフレッドは絶望に囚われた面持ちで尋ねた。
それでも、バートラムは迷うことも臆することもなく答える。
「あなた自身が先程仰っていたはずです。『皆同じだ』と。それがソフィア様に告げるべきお言葉です」
「告げてどうする……。彼女は私を頼りない男だと思うでしょう」
今更だ。クラリッサは心中密かに呟く。
だが彼をこの場で、急に勇ましく頼りがいのある誠実な男に仕立てることなど誰にもできはしないだろう。それなら彼は彼のままで、この現実と向き合わなくてはならないのだ。
「その不安も、お二人で分け合えばよろしいのです」
バートラムはそんな彼に訴える。
「夫婦とは支え合うものでございます。アルフレッド様はソフィア様に、ソフィア様はアルフレッド様に、それぞれ互いの不安を委ね、代わりに相手の不安を支える。それこそが正しい夫婦のあり方というものでしょう」
まるで結婚をしたことがあるかのような語り口だ。
それとも彼もその青い目で見た、見届けた夫婦に理想を教わり、学んだのだろうか――レスターとメイベルの姿を執事として傍で見てきたからこその言葉なのかもしれないと、クラリッサはこの時思った。
「二人で……分け合う? 私とソフィアが?」
アルフレッドはそう呟くと、手に胸を当て、俯いた。
「できるだろうか。ソフィアはあれほど不安に囚われているのに。そして私は……」
その時、思い出したようにアルフレッドの父親が口を開いた。
「できるかどうかではない。やるんだ!」
皆が一斉に父親の方を振り返り、父親は一瞬眉を顰めた後、黙って肩を竦める。
バートラムもようやく唇を引き結んだ。言葉は尽くしたと、そう思っているのだろう。
あとはアルフレッド自身が決めることだ。
彼が真にソフィアを愛しているのかどうかはクラリッサにもわからない。だが彼には逃げる覚悟などないと知っている。そして彼が何も失いたくないと思っているのなら、選択肢は他にないだろう。
小部屋と小部屋の外に集まる人々の視線を一身に背負い、アルフレッドはしばらく視線を彷徨わせていた。
泥のように重い、沈黙ばかりの時間がいくらか過ぎ、
「……ソフィアとは、幼い頃から一緒にいた。兄妹のように育った」
アルフレッドがのろのろと、何かを語り始めた。
「彼女は私を慕ってくれた。私も彼女といると、心が安らいだ。彼女は私にとって何十年と変わりないこの街の景色のような存在だった。いつでも安らぎと懐かしさと温かさをくれた」
まさに理想的な婦人だとクラリッサは思う。その人の何に不満があって、アルフレッドは自分のような女を口説こうとしたのだろう。
「だが故郷を離れてみると、目新しい景色にはいつになく心が躍った。この街以外にも素晴らしい場所はいくらでもある。それどころか私がまだ見たことないものもたくさんあるのだとわかると、そういうものに――」
目移りするようになったということか。
例えば物珍しい赤い髪の――正確には赤褐色だが、とにかくそういう髪色の女などがそうだったのだろう。
馬鹿なことだ。クラリッサは溜息をつく。
住み慣れた土地の変わりない景色こそがどれほど貴いか、アルフレッドにはわからないのだろうか。
「だが……」
アルフレッドもまた、深く息をついた。
「ソフィアは、私の心に安らぎをくれる。いつも変わりなく、こんな日でさえも、傍にいてくれさえすれば」
色素の薄い瞳がすっと上げられ、扉の外に留まる。
「私の不安は彼女がきっと消してくれる。彼女の不安は……では、私が」
彼は表情を引き締め、ようやく背筋を伸ばした。
しかしそこまで言っておきながら彼の足はなかなか動き出さず、今なおこの場に留まり続けているので、
「ならば我々がこの一時だけ、介添え人を務めましょう」
バートラムはクラリッサの身体を離すと、代わりに目配せを寄越した。
「行こう、クラリッサ。アルフレッド様を花嫁の元へお連れするのだ」
「かしこまりました、バートラムさん」
「えっ、あの、私は今すぐ行くとは言ってな――」
慌てふためくアルフレッドの右腕をバートラムが、左腕をクラリッサが掴み、それぞれ力ずくで部屋の外へ引きずり出した。そこに集う人々を押しのけ、まごつくばかりのアルフレッドに無理やり廊下を歩かせる。無論、行き先はソフィアが閉じこもっている控え室だ。
ものの数歩の距離でそこまで辿り着くと、バートラムは何かの復讐のように、閉ざされた扉へアルフレッドの顔を押しつけた。アルフレッドはむっとしながら振り返りバートラムを睨んだが、及び腰のところを再び強く押され、つんのめるようにして扉に取りついた。
廊下ではメイベル、アルフレッドの父、ソフィアの両親、そしてそれ以外の大勢の人々がぞろぞろと後をついてくる。もう逃げ場はない。
アルフレッドは深呼吸を一つ、それから観念したように拳を作り、扉をやけに慎重に叩いた。
「ソフィア。まだ、いるのだろう?」
「……アル?」
彼女の返事は早かった。
恐らく外の騒ぎを聞きつけていたのだろう。扉に張りつき、耳を澄ましていたのかもしれない。
「扉を開けてくれないか、ソフィア。君に話したいことがある」
アルフレッドの問いに、扉の内側ではためらうような間があった。それから、
「話したいことって何? さっきの騒ぎと関係があるの?」
ソフィアが恐る恐る聞き返すと、アルフレッドの背中がびくりと硬直した。
「聞こえていたのかい?」
「少しだけ。何を話していたのかはわからなかったけれど……怒られていたの? わたくしのせいね?」
泣いた後の、それでいて気遣うような声だった。
それでアルフレッドは決まり悪そうに肩を落とし、
「違うよ、ソフィア。ただ皆に……皆に、大切なことを教えてもらっていただけだ」
「どんなこと?」
彼女に問われて、弱々しく続ける。
「君と、お互いに不安を分け合うことだ」
「分け合う……?」
先程アルフレッドがそうしたように、ソフィアもまたその言葉を繰り返した。口にすることでそれを呑み込み、理解しようとするかのように。
「私も不安なんだ、ソフィア。君と同じだ」
アルフレッドは更に続ける。もはや扉の、扉の向こうにいる彼女の存在以外には目もくれず、熱心に語りかける。
「結婚をして失うものがあること、変わってしまうものがあることをとても不安に思っていた。君との新しい生活に踏み切る勇気が、なかなか持てなかった」
しばしの沈黙。
その後でソフィアが言った。
「わたくしと同じね……」
どこか安堵したような声に聞こえた。
「わたくしもそうよ。家を出るのが急に怖くなったの。自分がお父様お母様の娘ではなく、あなたの妻になることが……何だかとてつもないことのように思えて、心細くなってしまったの」
「そうだ。同じだよ、ソフィア」
アルフレッドがしっかりと頷く。
「だから君のその不安を私に預けて欲しい。私は君のお父上よりも頼りないだろうが、それでも君を支えたいと思っている」
扉に手を添え、いとおしむように撫でている。
「そして私の不安を、君に預けたい。たとえ失うものがあっても、変わってしまうものがあっても、君が傍で安らぎをくれさえすれば、私はきっと大丈夫だ」
ソフィアのことを、アルフレッドは、この街の景色のようだと言った。
ならば失うものがあろうとも、変わりゆくものを止められなくとも、たった一つ揺るぎなきものが彼の手元には残ることだろう。
「私を支えてくれないか、ソフィア」
アルフレッドの言葉の後、クラリッサは随分と長い時間を過ごしたように思った。
誰かが時を止めてしまったと言われても疑えないほど、何も動かず、何も聞こえない時が流れた。どれほど黙ってこの場に留まっていたかわからない。もしかするとほんの数回の瞬きの間のことだったかもしれない。
だがやがて、長らく閉ざされた扉は開いた。
花嫁は扉を開けて外へと飛び出すと、涙に汚れた顔で目の前の花婿に飛びついた。
予定よりも大分遅れて、アルフレッドとソフィアの結婚式は無事に執り行われた。
聖堂の扉が開き、祝福の鐘の音の中を二人が歩み出てくる。クラリッサたちはそれを聖堂前の通りで待ち構えていた。
昼下がりの眩い光の中、花婿は妙に幸せそうな顔をしていたし、花嫁は泣き腫らした顔にはにかみ笑いを浮かべていた。そしてしっかりと手を繋ぎ合っていた。
そんな二人に人々は花びらを撒く。二人の幸いを願い、二人の先行きに美しいものばかりがありますようにと祈りながら。
クラリッサも人混みに紛れながら花びらを撒いた。ハンカチに包んで持ち歩いていた花びらは半ば萎れかけてよれよれだったが、それでも美しい色合いをかろうじて保っていた。花婿と花嫁が目の前を通りかかった瞬間を狙い、思い切り腕を振り上げて放り投げた。青空にぱっと散ったいくつもの花びらは、優しい風を受けて宙を舞い、新しい夫婦の歩く道にゆっくりと落ちていく。
色とりどりの花びらを髪や肩に積もらせた二人がクラリッサに気づき、揃って手を振ってきた。さすがに振り返す気にはなれなかったが、笑って頭は下げておく。
「……まさか、丸く収まるとは思いもしなかった」
二人が通り過ぎた後、バートラムが隣へやってきて囁きかけてきた。
「全くです」
クラリッサは頷き、遠ざかっていく二人の後ろ姿に目をやる。
次々に振り撒かれる花びらは青空に一度舞い上がり、それからはらはらと雪のように降り積もる。それは霞のように花婿と花嫁を包み、たちまちその姿は見えなくなってしまった。
「しかし君も君だ。結婚式当日に花婿の頬を張るような者がいるとはな」
バートラムが急に吹き出したので、クラリッサは慌てて目を逸らした。
「あれは不可抗力です。あの方もお許しくださったので、もうお忘れになってください」
「難しいな。私は君の、そういう気の強さも好きだ」
「わたくしだって自重したいとは思っておりました。でも……」
バートラムが来てくれるかどうかわからなかったから、自分一人で戦わなくてはと思った。
――そう答えようとしたクラリッサだったが、それが妙に言い訳がましく思えたから、結局唇を閉ざした。
代わりに花婿と花嫁が消えた道の向こうを眺めた。花びらがふかふかと降り積もった石畳の道は夢のように美しく、クラリッサもそこへ足を踏み入れたい衝動に駆られた。同じく花婿たちを見送った人々の中には、積もった花びらを両手で掬い、空に舞い上げたり誰かに浴びせたりしてはしゃぐ者も大勢いた。
「結婚式とは美しいものですね」
クラリッサが誰にともなく呟けば、バートラムもその言葉をしっかりと拾ってみせる。
「そうとも。結婚式とは比類なく美しい、夢の時間だ。花婿と花嫁が同じ夢を見る日だよ」
「随分と詩的なことを仰るのですね」
「男は想いを寄せる婦人の前では誰しも詩人になるものだ。君もよく知っているだろう」
「あいにくと存じませんでした」
「それはおかしい。私はこんなにも熱心に、君を日々口説いているというのに」
「わたくしには詩の良し悪しなんてわかりません。学がございませんから」
クラリッサは笑って応じると、ひらひら舞い降りてくる花びらの一片を手で受け止めた。真っ白な花びらはまだ染み一つなく、クラリッサの手のひらに柔らかく降りたかと思うとくるくる転がり落ちていく。
一瞬手を伸ばして追い駆けかけて、けれどすぐにやめてしまった。
「もし結婚式が夢なら、いつか覚めてしまうのでしょうか」
ふと気になって、クラリッサは尋ねた。
バートラムは首を竦める。
「永遠に続くものなどないからな。もちろんいつか夢から覚める。甘い理想と想い合う愛情だけではどうにもならないものもあることを、どんな夫婦も、知る日がきっと来るだろう」
「そこは詩人になってくださらないのですね」
「身をもって経験したのでなければ語り得ないこともあるさ。これはただの一般論だ」
そう言うとバートラムは視線を投げ、
「だが夢から覚めても尚、深く想い合い、愛し合い、支え合える夫婦もいる。そんなお二人を知っているということを、今はお互い誇りに思おう」
クラリッサは頷きながら、彼の視線の先を追う。
そこにはメイベルがいた。花婿と花嫁の姿が見えなくなってからも、彼女はずっと道の向こうを見送っていた。その目はずっと遠くを見つめている。
遥かかなたにある遠い日の記憶を、見ていたのかもしれなかった。