Tiny garden

平凡な日々を望んだ

 農園が点在する片田舎の村に、主の屋敷は建っていた。
 赤煉瓦造りの三階建てのその屋敷は落ち着いた佇まいをしており、街中の聖堂を思わせるような尖った屋根の塔棟と、玄関からテラスにかけてぐるりと巡らされた深いひさしが印象的だった。屋根は黒に近いくすんだ灰色の瓦で、対照的に窓枠や飾り破風は白く塗られている。この地方の伝統に則った建築様式だったが、建てられてからまだ八年ほどしか経過していないという話だった。

「だから味が出るのは、もう少し先の話なんですって」
 サヤエンドウを鋏で一つ一つ刈り取りながら、無邪気な口調でメイベルは語る。
「もう少し先ってどのくらいかしら? わたくしはとうにおばあちゃんだけど、今よりもっと白髪も皺も増えた頃かしらね。それまで大事に住まなくてはならないと、いつも思っているのよ」
 楽しげに続けた夫人の顔を、クラリッサは籠を抱えながら眺めていた。
 確かに彼女はもう若くはなかった。金色の髪には白いものが交じり始め、顔や手には年相応の皺もある。それでも今のように屈託のない笑顔を浮かべている時は、まるで少女のように可愛らしく見えた。
 二人がいる屋敷の庭にはちょうど朝の光が降り注いでいて、メイベルの白髪交じりの髪や愛嬌のある顔立ち、鳶色の瞳を眩しく照らしていた。メイベルの歳の半分も生きていないクラリッサは、メイベルの若かりし頃を知らない。だが夫人がかつて美しい少女であったことは疑いようもないし、現在でも大変美しい人だと思っている。
 辺り一帯には今年も春が訪れていた。早朝の庭先にはまだ冷たい風が吹いていたが、その風は土や緑の爽やかな匂いを含んでいる。庭の花々も競うように咲き始めていて、日毎に変わりゆく庭を眺めるのが楽しい季節となっていた。
 メイベルが語った『もう少し先』はいつ頃だろう、とクラリッサも思う。あと何度春が訪れれば、味の出た煉瓦というものを見られるのだろうか。
「ここの煉瓦に味が出ると、どんなふうに変わるものなのでしょうね、奥様」
 クラリッサが相槌を打つと、メイベルはくすっと笑った。
「あなたも楽しみなのね、クラリッサ。何年先かはわからないけど、是非あなたとも一緒に、味が出てきた我が家を眺めてみたいわ」
 そうして鋏を器用に使い、サヤエンドウをまた一つ刈り取る。収穫した莢はクラリッサが籠に集めており、平たい籠の中は瑞々しい緑の莢で賑わっていた。
「その為にもよく食べて、皆で元気でいなくてはね」
 メイベルがそう口にした時、美しい横顔はふと翳った。
「レスターもすっかりおじいちゃんになってしまったみたいね。今朝はまだ寝ていたいと言ってちっとも起きてこないし、昨日は顔色もよくなかったからいささか心配なの」
 彼女の夫にしてこの屋敷の主、そしてクラリッサの雇い主でもあるレスターは、かつては町で商売を営んでいたという。老いてからは店を人に譲り、片田舎に屋敷を構えて暮らすようになっていた。クラリッサが小間使いとして雇われたのも、レスターとメイベルがこの屋敷で暮らし始めてからのことだった。
 閑静でのどかな農村にて第二の人生を始めたレスターとメイベル夫妻だったが、第一線を退いたとは言えレスターの商才を崇める者もまだ多く、時々は街へ出かけて店の新しい主に会いに出かけていた。今日も朝のうちに出立する予定となっていた為、メイベルはいつもよりも早く起きて朝食の為の野菜を収穫し、クラリッサもその手伝いをしているところだった。
「今日も出かけるという話だけど、無理はしないでと言っておいたの。でも聞いてくれないでしょうね、あの人、働くのが何より好きだから」
 メイベルの声には呆れよりも、慈しむ温かい心がより強く滲んでいた。夫を深く案じているのがわかり、クラリッサも心が温まるのを感じる。
「奥様お手製のスープを飲めば、旦那様もきっとお元気になられることでしょう」
 クラリッサは励ますつもりで夫人に告げた。
 するとメイベルはにっこり笑んで、ぱちんと手元の鋏を鳴らした。
「きっとそうね。早速このサヤエンドウでスープを作るわ」
「かしこまりました」
「クラリッサ、あなたは残りを摘んでしまって。硬くなりそうなのからね」
 そう言って、夫人はクラリッサに鋏を手渡す。それから籠の中のサヤエンドウを二つまみほど、広げたエプロンの上に乗せ、零さないように裾を摘まんでみせた。
「急がないとあの人は朝食も取らずに出かけてしまいそうなんですもの。今から作ることにするわ。後はお願いね、クラリッサ」
「はい、奥様」
 応えたクラリッサは、屋敷に入っていく夫人の背中を少しの間見送った。
 あの可愛らしい人について思うと、いつもとても微笑ましい気持ちになる。夫を愛し慈しむ姿は、まさに妻の鑑に違いない。

 この屋敷で働くようになってから八年、クラリッサは小間使いとして夫妻の傍にいた。
 メイベルだけではなくレスターもまた妻を深く愛しており、二人の間に波風が立つことは一度としてなかった。おかげでクラリッサも心穏やかに勤めてくることができた。
 孤児院育ちのクラリッサはこの屋敷へ連れられてきた当初、酷く痩せており、赤褐色の髪はぱさぱさで、顔色も常に悪かった。背丈も同年代の十六歳と比べると小さく、実年齢より幼く見られることもしばしばあった。
 しかし優しい主人の下で働くうち、身体つきはよりしなやかになり、髪には艶が、頬には血色が戻った。そして何より、娘らしいいきいきとした表情をするようになった。それはここで過ごした日々がクラリッサにとっても幸いなものであることを如実に表していた。
 現在、二十四となったクラリッサはもう娘とは呼べない顔立ちをしていたが、代わりに少女時代は持ち得なかった表情の輝きと、真っ直ぐに伸びた姿勢のよさを手に入れていた。彼女は取り立てて美人ではなかったが、少なくとも自分の容姿に劣等感を抱くことはなかったし、小間使いとして夫妻の評判を貶めないだけの見栄えさえ保てればいいと考えていた。
 逆に、クラリッサは異性から容姿を誉めそやされるのが苦手だった。
 と言ってもお屋敷勤めで年頃の異性と接する機会が多いわけでもなく、もっぱらクラリッサに歯の浮くような言葉をかけてくる男は一人だけだった。クラリッサはその男について考えると胸の下辺りがむかむかとしてくるので、いつも思考の外へと追いやって、目の前にいる時以外は思い浮かべないようにしていた。

 庭に一人残ったクラリッサは、熱心にサヤエンドウの収穫を始めていた。
 小気味よい音を立てて鋏を動かしていると、やがて庭に長い影が差し込んできた。
「おはよう、クラリッサ。朝日の中で佇む君もなかなかに詩的だ」
 聞き慣れた声はこの屋敷で働く執事のものであり、同時にクラリッサにとって天敵とも呼べる、いつも思考の外に追いやっている相手のものだった。
 クラリッサはあえて面を上げず、鋏を動かしながら応じる。
「おはようございます、バートラムさん」
「こちらを向いてはくれないのかな。君の顔を見て挨拶がしたいものだが」
 いつの間にかすぐ隣まで来ていた執事が、やんわりと促してきた。
 無視を決め込みたいところだったが、気に食わない相手であっても雇い人としての地位は彼の方が上。従わないわけにもいかない。
 不承不承顔を上げると、朝日を浴びて立つ長身の男がこちらに向かって微笑んでいた。彫りの深い顔立ちはメイベルの部屋に飾られた磁器人形のようで、農園の地主の娘たちからはいつも熱い視線を送られているそうだ。髪は黒く、瞳は深みのある青色をしていて、彼の外見が整っていること自体はクラリッサですら認めざるを得ない。
 目が合うと、バートラムは嬉しそうに微笑んだ。
「素直な君の方が素敵だよ。今日もまた一段と愛らしい」
 彼の微笑と歯の浮くような誉め言葉に、クラリッサは苛立ちを抱いた。彼に対して本当に素直になることが許されるのなら、この苛立ちと日頃の鬱憤を率直にぶつけてやるというのに。
「何のご用ですか。わたくしは今、奥様に頼まれて仕事をしているところなのです」
「奇遇だな。私もちょうど旦那様に頼まれて、馬車の整備をしてきたところだ」
 肩を竦めるバートラムは、その後で満足げにこちらを眺めてきた。
「朝早くからの仕事でくたびれていたが、君の姿を見たら疲れが吹き飛んだよ。このまま額に入れて飾っておきたいくらいだ」
「わたくしは見世物ではございません」
「心外だな。私は君を見世物にしたいわけではなく、私だけの物にしたいと思っているだけだよ」
 この執事の言動には生真面目さがない、とクラリッサは常々思っている。
 クラリッサよりも年上であるこの青年は、信じがたいことだが執務に関しては有能らしい。レスターやメイベルはおろか、古くからいる他の使用人たちからも全幅の信頼を得ている。恐らく彼を信頼していないのは、屋敷の中ではクラリッサ一人きりだろう。
 クラリッサとて、主人が重用しているこの男を疑いたいわけではない。だがバートラムはクラリッサの前では不真面目で、いい加減で、おまけに不品行な男だった。それもクラリッサがここで働くようになった八年前からずっとだ。おかげでクラリッサには彼の言動の全てが信用ならなかったし、職務にもどこまで忠実か怪しいものだと思っている。
「そろそろ私の求愛を受け入れてくれてもいいだろう、クラリッサ」
 バートラムに名前を呼ばれる度、胸がむかむかしてくる。
「お断りいたします」
 努めて冷静に答えれば、彼はこちらに手を伸ばしてきた。白いキャップから零れた赤褐色の髪を一房取り、素早く持ち上げ口づけた。
 とっさにクラリッサは彼の手を払い除け、彼はその仕打ちさえ楽しむように青い目を細めた。
「そう慌てることもないだろう。その燃えるような赤い髪を愛でたいと思っただけなのに」
「そこまで赤くありません!」
 赤毛の女は気性が荒い、とはこの地方でもよく用いられる言い回しだった。その言葉が事実かは不明だが、クラリッサは自分の髪色を赤ではなく赤褐色だと思っている。つい声を荒げると、バートラムは喉を鳴らして笑った。
「すぐ感情を露わにするところもいい。全くからかい甲斐がある」
「ご用がないのでしたら仕事に戻らせていただきたいのですが」
 むかつきを堪えつつクラリッサは申し出る。
 執事は驚いたように瞠目し、
「用ならあるとも。先程から言っているが、私の求愛を受け入れる気は?」
「ございません」
 きっぱりと答え、クラリッサは反論に転じた。
「大体、なぜわたくしを? あなたはここの農園のお嬢さんたちからいつも好意を寄せられておいでで、懸想文を受け取ったことさえあるという話でしょう。立場を利用して地位の低い小間使いに言い寄るくらいなら、望まれるところへ行けばよろしいのに」
 しかし、クラリッサが何を言おうとバートラムはどこ吹く風で微笑んでいる。
「おや、君は随分と私のことを気にしてくれているんだな。意外だったよ」
「気にしているわけでは……そういう話を小耳に挟んだだけです」
 村の祭事や礼拝に出向いたバートラムに、あの手この手で近づこうとする娘たちを見かけたのも一度や二度ではない。懸想文の話も使用人の間で話題になっていたので知っていたまでだ。
 クラリッサ自身はこの執事に好意など持ちようもなかったから、そういう情報も今のような反論の為に覚えておいていただけだった。
「しかし君、考えてもみたまえ。君と私が結ばれるべき理由はちゃんとある」
 バートラムは自然な動作でクラリッサの手から鋏を取り上げ、屈み込んでサヤエンドウを刈り取り始めた。
 ぱちん、ぱちんと鋏の音が規則正しく庭に響く。
「別に手伝っていただかなくても――」
 制止しようとするクラリッサを無言で押し留めると、バートラムはクラリッサの足元に置かれた平たい籠に目を向ける。
 仕方なくクラリッサは籠を持ち上げ、バートラムは満足そうに鋏を再び動かし始めた。
 畑仕事一つとっても、優美かつ慣れた手つきでこなしてみせる。この執事は何に関しても器用で、仕事のできる人間だった。いつもこうして、頼んでもいないのにクラリッサの仕事を手伝おうとする――その分しきりに話しかけてはクラリッサの神経を逆撫でするので、あまり手伝ってもらえて助かったという印象は持てないのだが。
「この辺りのご令嬢に一度手を出したが最後、この土地に縛りつけられるのは目に見えている。どこの父親も、愛に至らぬ一時の恋に寛容であるはずがないからな」
 そして仕事をしながら語り聞かせる内容も、クラリッサにとっては呆れるばかりのものだった。うんざりと眉を顰めれば、バートラムも嘆息した。
「それに私がどこぞの農園の跡取りなんぞに落ち着けば、旦那様にとっては大きな損失となる。田舎暮らしも退屈ながら平穏でいいものだろうが、私の才能はここで埋もれるには惜しいと思わないかね、クラリッサ」
 不真面目で不品行で、更には自信過剰と来ている。しかし彼の働きがレスターの安寧な老後を支えているというのもまた事実だ。バートラムがいなければ、レスターは今以上に慌しく、執務に一人追われる日々を送っていたかもしれない。
「どうでしょうね。あなたにはそういった、品行をよく保てる落ち着いた暮らしの方がお似合いかもしれませんよ」
 クラリッサは皮肉を込めて言い返す。
 だがその皮肉が彼に打撃を与えた気配はなく、サヤエンドウを一つ一つ丁寧に、しかし手早く収穫しながらバートラムは答えた。
「いいや。私に似合うのは君だけだよ」
「何を……わたくしのどこが、あなたに似合うと仰るのです」
「君は非常に愛らしい。その気性も含めてね。そんな君とは是非、一時でも激しい恋がしたいものだ」
 それから彼は顔を上げ、むっつりと唇を結んでいるクラリッサに柔らかい表情を向ける。
「そうでなければ私が、こんなに足繁く通って、君の仕事を手伝ってまで口説きに来るはずがない。我々はもう八年もこんなやり取りを続けているが、君には一向に伝わらないのが残念だよ」
 いつの間にか、粗方のサヤエンドウは刈り取り終えていたようだ。平たい籠は先程以上に春らしい緑の莢で溢れていた。
「さあ、済んだよクラリッサ」
 バートラムが屈んだ姿勢のまま、鋏をこちらに差し出してくる。意味ありげに片目を瞑りながら。
「私の気持ちが伝わって、君が今宵、私の部屋を訪ねてきてくれればいいのだが」
「お気持ちはちっともわかりませんが、手伝ってくださったことには感謝いたします」
 クラリッサは疲労感を覚えつつも、一応は礼を述べておく。
 そして鋏を受け取ろうとした拍子、ふと彼に手首を掴まれた。彼はどうも機を見計らい、待ち構えていたようで、クラリッサの手をぐいと自分の口元に引き寄せる。
「お礼は言葉ではなく、別の形で頼むよ」
 言葉の後、手の甲に口づけられたのは一瞬だった。
「何を!」
 クラリッサは思わず平手打ちを放とうとしたが、それより先に立ち上がったバートラムが身を翻してかわした。
「先程も言ったはずだ。我々はもう八年もこんなやり取りを続けている」
 声を立てて笑いながら、彼は一足早く庭を出ていく。クラリッサが怒りを込めて睨みつけると、その視線を背中で感じたのか、庭の出口で一度足を止め、わざわざ振り向いてから言い添えた。
「君がいつ私をぶとうとするのかもお見通しだとも。この調子でいけばいつかは私も、君の心の内まで見通せるようになれるだろうな」
 おどけたような物言いには腹立たしいほどの余裕が含まれていた。
 おかげで一人残されたクラリッサの憤懣たるや、婦人らしくもなくその場で歯軋りするほどだった。なぜ平手打ちを命中させられなかったのかと、自分の技量にも一層腹が立った。もちろん口づけられた後の手の甲は白いエプロンの裾できちんと拭っておく。できるものなら熱湯につけて消毒したいとさえ思う。

 あの男はやはり信用ならない。
 八年間も飽きずに自分を口説き続けているその諦めの悪さは解せないが、恐らく自分をからかって面白がっているのだとクラリッサは踏んでいた。
 事実、バートラムからはクラリッサを口説き落とそうという意思よりも、わざと機嫌を損ねて怒らせようとしているそぶりの方が強く窺えた。きっと使用人の中で最も若く、唯一の妙齢の婦人である自分で暇潰しをしているのだろう。田舎の暮らしは時に度が過ぎるほど平和で、退屈だった。
 だがクラリッサからすれば、気のない相手に歯の浮くような言葉をかけられても迷惑なだけだ。かといって主人夫妻に告げ口をするような卑怯な真似はしたくない。それでなくてもあの男はクラリッサが雇われるよりも前から執事を務めていて、夫妻からは強く信頼されている。クラリッサが何か言ったところでその信頼が揺らぐことはないだろう。それに、老いた主人には如才ない執事が必要なのだ、とも思う。
 クラリッサ自身は平凡な日々を望んでいた。
 レスターとメイベルが心煩わされず、穏やかに、末永く幸せに暮らしていけるような日々を。
 退屈な田舎は平凡な日々を送るのにこの上なく向いているだろうし、そういう暮らしにあの執事が必要不可欠だというのなら仕方がない。クラリッサが一人堪えて、時に噛みついたり時に平手打ちをお見舞いしながら乗り越えていけばいいだけの話だ。ともかくあの執事はいつか言い負かしてやろう、そうすれば今日までの鬱憤もいくらかは晴れるだろうと、クラリッサは密かに闘志を燃やしている。
 赤煉瓦造りの屋敷は朝の光で照らされている。味が出る前だという煉瓦の色を目に焼きつけながら、クラリッサはサヤエンドウでいっぱいの籠を抱え上げた。
 この屋敷の煉瓦に味が出るのはいつ頃か。その時自分がいくつになっているかもわからないが、それがこの退屈で、平和で、平凡な日々の先に必ずあるものだと信じて疑わなかった。
 もしかしたらその頃には自分も皺ができて、白髪交じりのおばあさんになっているかもしれない――そんな自分を相変わらずからかおうとする、よぼよぼの老人となったバートラムの姿を想像したら、思わずくすっと笑いが零れた。それだけで随分と溜飲が下がり、クラリッサは背筋を伸ばして屋敷へと戻る。

 勝手口から屋敷に足を踏み入れた時、一瞬、妙な悪寒を覚えた。
 心なしか、邸内の空気がざわついているような気がする。
 普段はないぴりっとした緊張感を肌で感じて、クラリッサは眉を顰めた。台所では朝食の用意がされていたようで、湯気の立つスープ鍋や焼きたての軽いパンなどが目についたが、それを作ったはずの夫人や他の使用人たちの姿はない。
 不審に思ったクラリッサは籠を置き、台所を抜けて食堂へ出た。白いクロスがかけられた食卓には既に食器が並べられており、燭台に点る火がゆらゆらと揺れていた。しかし食堂ももぬけの殻で、食卓に着いた者も給仕をする者の姿もない。
 クラリッサが釈然としない思いで辺りを見回した時だ。
 廊下へ通じる扉が勢いよく開き、あの黒髪の執事が姿を見せた。反射的に睨みつけようとするクラリッサをよそに、彼は珍しく険しい面持ちでつかつかと歩み寄ってきた。
 そしてクラリッサの肩を強く掴み、囁くような声で告げる。
「旦那様が倒れられた。今から医者を呼びに行く」
「――まさか、そんな」
 突然のことにクラリッサは息を呑んだ。にわかには信じがたい話だった。確かに今朝はなかなか起きられなかったと聞いているし、メイベルも彼の体調を案じていたようだったが――。
「酷く熱があるんだ。今は寝室にお戻りいただいたが、どうも急を要する」
 バートラムは早口でそう語ると、掴んでいたクラリッサの肩をまるで宥めるように一度叩いた。
「君は奥様のお傍に。奥様もそうだが、使用人たちは皆、うろたえていて全く使い物にならない」
 こんな時に不遜な物言いをするものだとクラリッサは思ったが、バートラムは普段の不真面目さを欠片も窺わせていない。食堂を一度見回してから、もう一度クラリッサの肩に手を置く。
「奥様のところへ行く前に燭台の火を消してくれ」
「……はい」
 答えた声はかすれていて、彼に聞こえたかどうかすら定かではない。ただバートラムは頷くと、あとは振り返りもせず勝手口から飛び出していった。医者を呼びに行くと言っていたから、厩へ向かう気なのだろう。
 クラリッサは大急ぎで燭台の火を消すと、今度は食堂を飛び出した。
 主の寝室まで廊下を走り、階段を駆け上がり、わき目も振らずに必死で急いだ。それでも散々歩き慣れたはずの屋敷が恐ろしいほどの広さに感じ、目当ての扉が見えてくるまで気が遠くなるような思いだった。途中で幾人かの使用人とすれ違い、酷く狼狽した様子で声をかけられた。クラリッサはそれに会釈だけで応じ、一目散にひた走った。
 息を切らして辿り着いた主の寝室前、ドアは半分開いていた。
 その隙間から寝台に横たわり、何かうわ言を口走るレスターと、彼の手を取り一心に語りかけているメイベルの姿を見た時、悪い予感が胸を過ぎった。
「レスター、もうじきお医者様が来るわ。どうかそれまで気をしっかり持ってちょうだい。レスター、聞こえる? 聞こえているわね?」
 メイベルは涙声で、繰り返し繰り返し呼びかけている。

 この片田舎で、優しい主と共に、平凡な日々を送ることを望んでいた。
 それがどんなに脆く儚いものか、クラリッサはこの瞬間まで知らなかった。
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