Tiny garden

朝餉の品次第の話

 その朝の久成は、いつもと違う目覚め方をした。
 妹の笑い声を聞いたのだ。愉快そうな、娘のような若い声。
 久成は半身を起こし、大きく一つ欠伸をする。途端、朝餉の品の匂いを嗅ぎ取り、腑に落ちた思いになる。
 佐和子が一人で笑っているはずもなく、その隣にはもう既に、初音がいるのだろう。今朝はあの妻の大好物を作る手はずとなっていたから。

 顔を洗い、囲炉裏端へと足を向ければ、佐和子の笑い声と共に、初音の弾んだ声も聞こえてくる。
「あらあら。初音さんは本当に、豆ご飯がお好きなのですね」
「はい、大好きです。とてもよい匂いがします」
 久成も初音の好物は知っていた。だからこそ村の人間に頼んで小豆を分けてもらったのだ。妻のうれしげな様子を察し、久成も自然と相好を崩す。二人がいるはずの囲炉裏端へ歩みを進めようとする。
 そこで佐和子がまた笑い、
「でしたら兄上を呼んできましょうか。初音さんが待ち切れないから、早く起きて支度をなさってと」
 と言うので、久成は思わず足を止めた。自分のいないところで、自分の名を口に出されると気まずいものだ。むしろ堂々としていればいいのだろうが、足が勝手に止まってしまったのだから仕方がない。
「いいえ、私は久成様をお待ちしております」
 殊勝にも初音がそう答える。だから一層出てゆきづらくなる。久成は奥座敷で足踏みをしたまま、囲炉裏の方をこっそり覗く。
 妹と妻は囲炉裏端に並んで座っていた。明々と照らし出された中でも初音の顔はよく見えず、しかし既に身支度を整えているらしいことだけはわかる。一方の佐和子は笑んでいる横顔が、距離を置いてもはっきり捉えることが出来た。見慣れた顔の妹は、今日も着飾ることなくひっそりとした風体でいる。
 佐和子が火箸で炭を転がす傍ら、初音はじっと座っていたが、時折視線を奥座敷へ――久成が身を潜めている方向へと走らせる。潜んでいることに気づかれたかと思ったが、そうではないらしい。
「でも、初音さんも辛いでしょう。目の前でよい匂いがするのに、ずっとお預けでいなければならないんですもの」
 佐和子が言うと、初音は素早くかぶりを振る。
「そんなことはちっともございません。私、待つのは平気です」
 言葉こそ殊勝だが、そわそわしているのは読み取れた。どうも気が気でないらしい。小豆飯の匂いの中ではじっとしているのも難儀なようだ。
 焦らしては悪い、そう思った久成が出て行こうとすれば、計ったように佐和子が語を継いだ。
「初音さんはお内儀様の鑑でいらっしゃいますね」
 足がまた止まった。
「まあ……とてもそこまでのことはございません。私はまだまだ至らぬ妻です」
 恥じ入る初音が俯き、佐和子がふふっと笑声を立てる。
「至らぬと言うなら、あの兄も同じです。何かと不器用な人ですから、初音さんを戸惑わせてやしないかと心配です」
 咳払いしたくなったのを、久成はどうにか堪える。――本人の不在をよいことに、何を言うのだろう。全く。
 しかし、
「久成様はお優しい方です」
 柔らかな口調で初音は、義妹の言葉に応じる。
「こうして私の為に小豆を調達してくださいました。あの方こそ、旦那様の鑑と呼ぶべきお方です」
 言い過ぎだ。久成は胸中で呻く。ことさらに出てゆきづらくなった上、こうして息を潜めているのも盗み聞きをしているようで後ろめたい。この後どう動いてよいのか見当もつかぬ有様だ。
「それに、佐和子さんもです。お二人がとても優しい方で、私は幸いに存じます」
 続けた答えに佐和子は、やはり軽く笑ったようだ。自身も幸せそうに続けた。
「ええ。私も同じように思います」
 それから二人はころころと笑い合う。
 佐和子と初音と、二人の仲睦まじいことはありがたかったが、久成にとっては面映いことも多々あるのだった。妹の言う通り、初音は殊勝でよい嫁だった。家事が出来なかろうと毎日顔が変わろうと、それは確かだ、久成にとって。
 ともあれ、初音が腹を空かせているのに足踏みを続けているのは意地が悪い。
 会話が途切れたところで、久成はようやく奥座敷を抜け出した。囲炉裏端へと足を向ければ、二人はほぼ同時にはたと気がつく。
「おはようございます、兄上」
「おはようございます、久成様」
「ああ、おはよう」
 妹と妻が揃って、丁寧に頭を下げるので、久成は先の立ち聞きを気取られぬようにふるまおうとした。だが面映さは今更どうしようもなく、自然と相好を崩す結果となった。
 幸いと言うなら、実にその通りなのだろう。

 小豆飯をよそう初音は、今までになく美しい顔立ちでいた。
 それは化け方や装い方そのもの以上に、内面から滲み出る喜びによるものなのだろう。伏し目がちに飯杓子を動かす仕種はいきいきとして映る。ひとたび面を上げれば、化粧を施された顔立ちには何とも瑞々しい感情が溢れていて、久成まで伏し目がちにしたくなる。
 居心地の悪さを押し隠すように、口を開いた。
「今日はまた、随分と手早い支度だったな、初音」
「はい。豆ご飯のことを考えたら、いつもよりも上手くいきました」
 正直に答えた初音が、小豆飯の茶碗を差し出してくる。かんざしの音が火の傍らで、涼しげに響く。
「どうぞ、久成様」
「ああ」
 それを受け取り、久成は苦笑いを噛み殺す。初音の真意はわかっていても、ついつい心中の疑問を告げたくなる。
「お前は俺なんぞの為よりも、小豆飯のことを考えて化ける方が上手くゆくのではないか」
「まあ、兄上」
 すかさず佐和子は咎める眼差しを向けてきた。早速の不器用さを発揮した兄に、多少の苛立ちも覚えているようだ。それだけでも久成は失言を悔やんだが、初音が気にするそぶりもなく答えると、より一層悔やむ羽目になった。
「きっと、おっしゃる通りなのかもしれません」
 久成の後悔も知らず、初音は微笑んで小首を傾げる。
「私にとって豆ご飯は、久成様と、佐和子さんと同じですから」
「同じ、とは?」
「はい。豆ご飯は何もなしには食べられません。久成様が小豆を用意してくださって、佐和子さんがそれでご飯を拵えてくださって、ようやく口に出来るものでございます」
 問い返した久成へ、はきはき語る。
「ですから、久成様にも佐和子さんにも感謝しております。お二人のお心遣いで私は豆ご飯が食べられます。本当にうれしゅうございます」
 語り終えてから急に気恥ずかしくなったのか、そこで初音は頬を染めた。
 初々しい言動に対し、久成はとっさに反駁も出来ない。こうも真っ直ぐな物言いには何か返す気も引けた。初音の隣でしきりに頷く佐和子を見て、やがて溜息をつく。覚悟が決まる。
「言葉が過ぎたな。済まなかった、初音」
 素直になってそう告げる。初音は頓着せず笑んでくれた。
「どうぞお気になさらないでください、久成様」
 妻のそういう気立てのよさは、顔立ちよりも余程久成の心を掻き乱した。ぎくしゃくと、無言のまま小豆飯を食べ始める。
 まずは一膳平らげる。唐変木だろうと久成も大の大人には違いなく、佐和子や初音と比べれば当たり前のように健啖だった。麦飯なら三膳は食べる。
 だが今朝は、一膳で止めてしまった。
「もう、よろしいのですか」
 怪訝に思ったか、佐和子がそっと尋ねてくる。久成はしかつめらしく答える。
「もういい」
「でも兄上、いつもより召し上がっていませんでしょう」
「あとは白湯でも腹は膨れる。残りはお前らで食べるがいい」
 当人はさりげなく言ったつもりでも、語るに落ちたというのはよくある話。この時も妹は敏く、兄の本心を言い当ててみせた。
「初音さんの為、ですね」
「……俺は、お前らでと言ったのだ」
 久成は頑なに主張した。が、妹からは訳知り顔を、妻からは潤んだ瞳を向けられて、どうにも居た堪れなくなった。今日は早めに出てゆかねばとうそぶき、囲炉裏端からよれよれと逃げ出した。

 着替えを済ませて土間へ出ると、今朝も初音は駆けてきて、置いてあった鞄を両手に抱えた。下駄を履いて立ち上がった久成に、そっと鞄を差し出してくる。今朝はまた、弾けんばかりの素晴らしい笑顔だった。
「美味かったか」
 久成が問うと、笑顔が照れ笑いへと移り変わる。
「はい、とても」
 目元はつり目がちにこそならないまでも、常に笑んでいるように細い。唇も薄く色気に乏しい。頬はいつもよりもふっくらしていたが、これは小豆飯を散々頬張ったせいだろうか。そして笑い方がそうさせるのだろう、あどけなさの際立つ顔をしていた。見慣れぬ顔だろうと初音は初音、物言いも滲む感情も愛らしいと久成は思う。貧乏暮らしでさえなければ、毎日好物を食べさせてやるというのに。
 こちらの心底を見透かしたか、初音はふと気遣わしげになり、問い返してきた。
「久成様はたったの一膳で、お腹がいっぱいになりましたか」
「なった。十分だ」
 武士は食わねど高楊枝とはよく言ったもの。久成は泰然とふるまうよう心がけ、初音から再び素晴らしい笑顔を引き出す。
「本当に、ありがとうございます、久成様」
「礼など要らぬ。留守を頼むぞ、初音」
「はい。いってらっしゃいませ」
 妻の愛らしい表情は、それだけで腹をいっぱいに満たしてしまう。だから小豆飯を詰め込む必要もない。
 とは言え、そんなことはおくびにも出さない久成だった。家長としての威厳を気にしつつ、背筋を伸ばして家を出る。見送る初音の方へは決して振り返らない。
 そして朝の畦道を辿り始めてから、ようやく反芻するように独り笑むのだった。
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