Tiny garden

小さな君へ(4)

 約束の日の午後五時。
 日の暮れかけた駅前で、私は鷲津と落ち合った。
 鷲津はモノトーンの地味な格好で、硬い顔つきのまま立っていた。私を見ても表情は動かさず、低い声で言ってきた。
「じゃあ、行くぞ」
「うん」
 愛想のなさはいつものこと。それよりも今日のお泊りがうれしくて、私はうきうきしていた。彼の後について歩く足元が弾んだ。
 話したいことがある、と彼は言っていた。一体何のことなのかは今でもさっぱり思いつかない。だけど、悪い話じゃないような気がする。悪い話ならわざわざ会って話したりしないだろうし、それもちゃんとしたホテルの部屋を取って、二人きりで話そうだなんてしないはず。不安はあまりなかった。

 鷲津が案内してくれたのは、駅に隣接しているシティホテル。ラブホテルとは違い、通りに面して堂々と建っている。外観も立派で、歩いて入るのに気後れしたくなるほどだった。
 フロントも当然、普通のホテルと同じだ。以前とは逆で、鷲津が先に立ってチェックインを済ませてくれた。やましいところがないからなのか、彼のふるまいも堂々としているように見えた。私はロビーの隅の方で、鷲津の意外な姿を見守っていた。
 ――おどおどしていないのがうれしいような、ちょっと悔しいような。複雑な気分だった。

 チェックインの後は、ベルボーイさんに部屋まで案内して貰う。エレベーターに乗って七階まで。じゅうたん敷きの廊下を抜けて、部屋に通して貰った時はほっとした。この間まで高校生だった私には、こういうホテルはラブホテルよりもずっと緊張する。
 カードキーで開けたドアの向こうは静かな部屋だった。オレンジがかった照明が灯り、柔らかい色調の内装が目に入る。テレビとデスク、それにベッドのあるこじんまりとした客室。
「ツインルームなんだ」
 ベルボーイさんが立ち去った後、私は思わず声に出していた。室内にベッドは二つ、並んでいた。間にあるナイトテーブルが邪魔そうに見えた。
 先に立ち入った鷲津が、訝しげにこちらを振り返る。
「不満でもあるのか」
「不満って言うか。どうしてツインにしたの?」
「二人で泊まるんだから当たり前だろ」
 さも当然という口調の鷲津。こっちはちょっと納得がいかない。
「ダブルでもよかったのに」
 入り口のドアを閉めてから告げると、すかさず呆れた顔をされた。
「何しに来たと思ってるんだよ」
 何って、そりゃあわかってるけど。話をする為に部屋を取った、そのことはちゃんと覚えてたけど、だからってそれだけで終わるとは思ってない。一晩中掛かるような話でもないらしいし、二人きりでホテルの部屋にいて、何にもないような夜にはしたくなかった。
 入り口脇のドアを開けてみれば、お約束のユニットバス。ラブホテルのものよりも幾分狭い。これじゃあ二人でお風呂に入るのは難しいかもしれない。出来なくはないだろうけど。
「お前って、あちこち覗くの好きだよな」
 鷲津の声がぼそりと聞こえる。私はバスルームのドアを閉め、彼の方を向く。彼は既に上着を脱いで、奥の方のベッドに腰を下ろしていた。
「前の時もそうだった。黙って座ってるとかいうことないもんな」
「そう言う鷲津は、今日は随分落ち着いてるんじゃない?」
 彼のいるベッドまで歩み寄りつつ、意地悪く言い返してみる。鷲津はむっとした様子で、でも反論はして来なかった。
 私は空いている方のベッドにバッグを放り投げる。脱いだ上着も放り投げてから、彼のすぐ隣に座る。すぐさま彼が腰を浮かせた。十五センチほど距離を置いて座り直す。ベッドのスプリングがその度に軋んで揺れる。
「あんまり近づくなよ」
 鷲津が言った。
「どうして?」
 きつい口調に聞こえ、顔を覗き込んで問い返す。鷲津は目を逸らして答える。
「そういう目的で来たんじゃないって言ってるだろ」
「別に、隣に座っただけでしょう。それでもそういう目的ってことになるの?」
「……とにかく、話をしに来たんだからな。それは覚えててくれ」
 わざとらしい咳払いで会話を打ち切ると、鷲津はようやく私を見た。
 ベッドの上、僅かな距離を置いて隣り合い、見つめ合う私たち。どこかいつもと違う空気だった。柔らかいような、それでいて得体の知れないような曖昧さがここにはある。オレンジがかった照明と、嗅ぎ慣れない匂いに満ちたホテルの一室。ラブホテルよりも狭いのに、これで十分だと感じている。
 窓の外はもう真っ暗だ。六時を過ぎた頃かもしれない。これから、二人きりの夜が始まる。――どんな夜になるんだろう。どきどきする。
 鷲津はじっと私を見ていた。愛情を込めてということはまるでなく、かと言って一時のように険しい視線を向けてくることもなかった。むしろただじっと、眺めているみたいだった。当たり前のように存在しているものを、当たり前のように目に留めている。それだけの視線に見えた。
 私も、鷲津を見つめていることにした。色の白い肌も、心なしか穏やかな表情も、光を浮かべた双眸も、喉元のラインと時折上下する隆起も。全てを視界に納めていた。
 お互いに黙ると、とても静かになる。それはラブホテルだろうと真っ当なホテルだろうとさして変わらないらしい。
「話があるって、言ったよな」
 鷲津が切り出した声はかすれていたけど、静けさのお蔭ではっきりと聞き取れた。
「久我原に、どうしても話しておきたいことがあったんだ」
 もったいつけるようにゆっくりと、彼は続ける。私の反応を気にしているのか、視線を定めたままでいた。
「上手く言えるかどうかわからないけど……話さない訳にはいかないから」
 彼の話したがっている内容が、いまだにぴんと来ていない。そこまでを聞いて、私はそっと尋ねてみる。
「それって、どんな話?」
「ど……どんなって?」
 なぜか、鷲津の方がびくりとしてみせた。その様子がおかしくて、笑いを堪えながら尚も聞く。
「まず、いい話なのか悪い話なのか教えて」
「だから、これから話すって言ってるだろ。黙って待ってろよ」
「こっちにだって心の準備とかあるの。悪い話だって言うなら覚悟も決めなくちゃいけないし。だからそれだけは教えて、いいでしょう?」
 苛立つ声をあしらうように私は言う。散々どきどきさせられて、悪い話だったとあってはあまりにもやりきれない。せめて期待していい話なのかどうか、或いは期待なんて持つべきじゃない話なのかどうか、予告しておいてくれてもいいと思う。
 かくして鷲津は言葉に詰まり、やがてぼそぼそと応じた。
「別に、いい話じゃない」
「……そう」
 私は落胆を押し隠すのに一苦労した。
 そっか。いい話ではないんだ。
「でも、悪い話かって言われると、よくわからない」
 鷲津が、低い声でそう続ける。
「どういうこと?」
「難しいんだ。何て言うか……はっきり言って、お前にはあまり関係のない話なんだ」
「何、それ」
 私にあまり関係のない話を、私に対してするということ? それは別に構わないけど、じゃあ一体、どういう話?
 瞬きを繰り返していれば、彼もためらいがちに語を継いでくる。
「あまり関係ないけど、全く関係ないって訳でもない」
「よく、わからないかな」
「わからないだろうと思う。多分お前は、何も知らないだろうから。でも」
 ふう、と息をついた鷲津が、苦々しい表情になった。
「このまま黙ってるのはフェアじゃないような気がして……」
 フェアじゃない。その物言いも奇妙に聞こえた。いや、鷲津が私に対してフェアだとかそうじゃないとか気にしていること自体、珍しいような気もしたけれど。
 私にはあまり関係のない話で、だけど全くの無関係でもない話。
 そして、黙っていると私に対してフェアではなくなるという話。
 ――それって、一体どんなことだろう。

 鷲津がふいと視線を外した。
 傍らにある窓を見遣る。カーテンの開いた窓からは夜空と、ガラスに反射した部屋の明かりとが見えた。立ち上がれば夜景も眺められるかもしれない。だけど彼はそうしなかったし、私だってそんな気分にはなれない。
 彼がここまでして話そうと思っていること。私に打ち明けたがっているらしいこと。ちゃんと耳を傾けて、どんな内容でも受け止めようと思っていた。今のところ全く想像がつかなかったけど、それでもだ。
「お前ってさ」
 早速、彼の呟くような声を拾った。こちらを見ずに、窓へと顔を向けている鷲津。私はその横顔を注視している。
「やっぱり、よくわからない奴だよな」
 横顔は穏やかだ。驚くくらいに。
「そう?」
「結構、会ったりとかしたけど。高校時代より話もしたけど、やっぱりわからない。何考えてるか読めないし、あんまり自分の話とかもしないし」
「それはお互い様じゃない?」
 私はそう思う。私だって、鷲津の考えは読めない時がある。鷲津も自分のことを饒舌に語ってくれるような人ではないし。
 そしたら、微かに笑われた。
「かもな。でも……身体は知ってるのに、その中身は知らないなんて、ちょっと矛盾してるよな」
 自嘲気味な返答は、少し、耳に痛かった。私は唇を結ぶ。
 教えてくれさえしたら、全部知りたいって思うのに。知りたい気持ちだけは今までだってあった。それは嘘じゃない。矛盾もしてない。
 でも、現に私は鷲津の気持ちを知らない。あの痩せた、透けるような肌の内側に、どんな心が隠されているのかを知らない。服は脱がせても、心を暴き出すことまでは叶わなかった。それも今夜なら出来る?

 やがて、ぎくしゃくと視線が戻ってくる。
 鷲津が私の方を見て、目が合った。
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