Tiny garden

Find me, Find you.(2)

 気がつけば、駅であの人を見つけるのが習慣になっていた。

 朝、ホームへ出ると周囲を見回してしまう。
 最寄駅のホームは毎朝酷く混み合っていて、六時台のうちからざわざわと賑やかだ。それでも何日か試しているうち、私の目はあの人を見つけるのがとても上手くなっていた。
 あの人は大抵階段近くにいる。いつも皺一つないスーツ姿で姿勢よく立っている。さらさらの髪に寝癖なんてなくて、虹彩の色が薄い目は私を見つけると少し細くなる。中性的な顔立ちに静かな微笑を浮かべ、私に声をかけてくれる。
「おはよう」
「おはようございます!」
 私は挨拶を返すと、電車を待つそぶりで彼の隣に並ぶ。涼葉ちゃんが早出だから別にどこに並んだっていいのだ、と言い訳めいたことを思いながら。
 彼も私が隣に立つことを特に不審がらない。それどころか時々、こちらを向いて話しかけてくれた。
「仕事、慣れた?」
「はい、お蔭様で」
「どうりで。最近は以前と表情が違うなって思ってたよ」
 彼のその言葉がたまらなく嬉しい。
 就職してようやく一ヶ月が経とうとしていた。初めのうちこそ慣れない仕事で、職場の人の顔も覚えられなくてと戸惑うことばかりだったけど、最近では少しずつできることも増えたし、ようやく皆さんの顔と名前が一致するようになった。まだまだ新米で任せてもらえる仕事も少ないけど、どんな些細な雑用でも少しずつ覚えていけたらと思っている。
 それにしても、朝しか会わないこの人にわかってしまうなんて。
「何だか安心したよ、君が明るい顔をしてるから」
 彼は言葉通りほっとしたように言った。
 この人の声はいつも柔らかく、耳に心地よい。知り合ってからまだ二週間しか経っていないのに、私の耳にすっかり染みついていた。
「気にしてくださって、ありがとうございます」
 私は頷きながら、この声をずっと聞いていられたらいい気分だろうなと思う。

 でも惜しいことに私達の会話はあまり長く続かない。
 それはそうだ、私達は職業も年齢も住んでいるところも、そもそも名前すら知らない同士で、こうして朝会って二言、三言話す程度の間柄だった。ただでさえ東京には一千万という人々がひしめきあっているというのに、混み合う朝のホームで、私が偶然彼の目に留まっていたことはまさに奇跡としか言いようがない。
 とりとめもない私達の会話が途切れ、まだ何か話そうかと考え始める頃に電車がやってくる。そうするともう話をするどころではなく、すし詰めの車内に流されるように乗り込むしかない。
 それでも、私が人波に押し潰されそうになると、彼はいつも声をかけてくれる。
「危ないよ、こっちおいで」
 彼は私の肘を優しく引き、自分の傍まで連れてくる。
 そして身体全体で庇うようにして、窮屈な車内の隅に私一人がどうにか立っていられるくらいの隙間を作ってくれる。銀色の手すりに伸びる彼の腕が私をガードしてくれている。男の人らしい、関節が目立つ左手を私はちらっと横目で見た。
「あ……ありがとうございます」
 私はその心遣いをとても嬉しく思いつつ、ぎゅうぎゅう詰めの車内ではあまりにも距離が近すぎて困った。目の前にいる彼との距離は数センチで、電車が大きく揺れたらぶつかってしまう。だから私は少しでも倒れないよう踏ん張るのに必死だった。
 視線を上げれば彼の顔がすぐそこにあるから、なるべく彼のネクタイの結び目を見つめているようにしていた。
 なのに最近では彼のネクタイを見ているだけでどぎまぎするようになった。彼のネクタイはダークブルー、もしくはグレーが多かった。こういうのも条件反射というんだろうか。いつも落ち着き払った彼によく似合っていて、そのことを意識すると余計に心臓が速くなった。

 涼葉ちゃんとは、五月の連休中に一度だけ会った。
 彼女の仕事はますます忙しくなったようで、もうしばらくは早出が続くと言っていた。駅近くの店で落ち合って、美味しいものを食べながら近況を話し合った。
 その時、朝に会うあの人のことも打ち明けた。
「桜ちゃん、その人のこと好きなんでしょ」
 涼葉ちゃんは直球だった。
「うん」
 私も素直に頷いた。
 多分、初めて会った時からそうだった。あんなふうに助けてもらって、優しい言葉をかけられて、顔を覚えてもらって、それ以来毎日のように話しかけてもらえて――その度に私は嬉しくて、今日も仕事頑張ろう、見てくれる人がいるのだからと思うことができた。今の私が明るくいられるのは全て彼のお蔭だった。
「でもここからどうしていいのか、いまいちわかんなくてね」
 目下の悩みはそれだった。私は彼のことを何にも知らない。知りたいと思っているけど、どう尋ねていいのかわからなかった。
「会う度に挨拶して電車の中で守ってくれて、なんて脈ありじゃない」
 ミルフィーユを頬張りながら涼葉ちゃんが言う。
「話聞く限りじゃ桜ちゃんとその人、上手くいきそうな気がするけど」
「そう、だったらいいんだけどな……」
 励ましてくれるのは嬉しい。でも不安がないわけじゃなくて、私は小倉パフェを掬う手を止める。
 すると真向かいの席から涼葉ちゃんが、
「ほら、食べないなら貰っちゃうよ」
「あ、だめだめ! 食べてるから!」
「じゃあ一口! 一口だけちょうだい」
 私は涼葉ちゃんにパフェを一掬いあげて、代わりにミルフィーユを一かけ貰った。どちらも甲乙つけがたい美味しさだ。
 ここは連休中に私が駅前周辺を歩いて見つけた、美味しいお店の一つだった。もしかしたらあの人に会えるんじゃないか、そう思って休みの間にあちこち探検してみた。残念ながら幸運な出会いはなかったけど、お蔭でこの街には少し詳しくなった。
 東京は都心こそ賑やかで怖くなるほど高い建物ばかりだけど、少し外れた辺りにはよそと変わらない街並みが広がっている。私や涼葉ちゃんの地元を思い出すような、日本のどこにでもある街並みだ。そう思うと新しい街での暮らしもどうにか上手くやれそうだった。
「ずばっと切り出しちゃえば? いつものお礼に、今度ご飯でもどうですかって」
 涼葉ちゃんの提案に、私はようやく不安を口にする。
「そういうのって、名前聞く前に誘っちゃっても平気かな」
 たちまち涼葉ちゃんは目を見開き、
「名前も知らないの?」
「名前だけじゃなくて、仕事も、年齢も、彼女がいるのかどうかも知らない」
 いつもあの駅から乗っているから、この辺りに住んでいる人なんだろうとは思う。でも新宿のどこに勤めているのかはわからない。毎日スーツを着ているから会社勤めをしているのだろう。でも『どこへお勤めなんですか?』なんて不躾すぎて聞けない。
 お名前だって、年齢だってそうだ。指輪はしていないから独身だと思うけど、やぶからぼうに『お付き合いしている彼女はいますか』とも聞きづらい。ましてや連絡先なんて、顔見知り程度の間柄でいきなり伺ったら失礼かもしれない。
「思えば向こうからも何も聞かれたことないし……」
 その事実も不安要素の一つだった。
 彼の方から私の名前や勤め先や連絡先などを尋ねられたことはない。彼もそれを聞くのは不躾だと思っているだけかもしれないけど、必要ないと思われている可能性だってあるだろう。
 朝会うだけの女の子の名前を聞いたところで何の意味もない、とか――。
「でも、好きなんでしょ?」
 涼葉ちゃんが重ねて問いかけてくる。
「うん、好き」
「付き合いたいって思うでしょ」
「思う!」
「じゃあ思い切ってぶつかってみなよ、案外いけると私は思うよ」
 彼女が背を押してくれたので、私はあっさりその気になった。
 どっちみち動かなければ何にも変わらず、朝会うだけの顔見知りのままだ。そのくらいなら当たって砕けた方がいい。砕けずに済むならそっちの方がいいけど。
「いいなあ、そういう恋愛。私なんて仕事ばかりでそんな余裕もないよ」
 涼葉ちゃんが羨ましげにぼやく。
 いつの間にやら私の中には、半月前までは欠片も見当たらなかった余裕なるものが生まれていたようだ。もちろんそれも、彼のお蔭だった。

 連休が明けたその日、私は意を決していた。
 今朝、彼に会えたら勇気を出して、お名前と連絡先を聞いてみよう。それからいつものお礼にと、ご飯に誘ってみよう。断られたらその時は――その時のことはまだ考えない。でも大丈夫、きっといける。
 改札を抜け、相変わらず混雑するホームまで辿り着くと、人混みの中に彼の姿を探してみる。普段ならこの辺りにスーツ姿で立っているはずだった。
 私がきょろきょろしていれば、
「――こら、お前達。ホームでふざけるんじゃない」
 あの柔らかい声音で、たしなめるような言葉が聞こえた。
 彼の声だ。とっさに振り向くと、探していた彼を見つけた。皺一つないスーツ姿と寝癖のないさらさらの髪はいつも通りで、でも中性的な顔には苦笑いのような、困ったような表情を浮かべている。
 そして、彼の周囲にはジャージ姿の女の子達がいた。
 ラケットバッグを背負っている高校生くらいの女の子が三人、彼の袖を引っ張ったり、顔を覗き込んだりしていた。そして口々に言うのが聞こえる。
「先生、電車通勤だったの? 知らなかった!」
「もしかしていつもこの時間なの? 明日も?」
「ねー先生、彼女できた? 連休中何してたの?」
 矢継ぎ早の質問に、彼は肩を竦めて答える。
「そういうことを教師に聞かない。答えないからな」
 それからすぐに、聞き慣れた柔らかい声で言い添えた。
「もうじき電車が来るから、君達もちゃんと並びなさい」
「はーい」
 女の子達が笑いながら返事をするのを、私は足を止め呆然と見ていた。
 だけどその時、彼の色素の薄い目が私を捉えた――ような気がした。
 目が合ったのは一瞬だったけど、私の方から逸らした。さすがにあの子達の前で声をかけてはいけないと思うから、彼らの傍を早足で通りすぎる。
「先生暇? うちらの朝練見に来ない?」
「ついでに差し入れとかあったら嬉しいんだけど!」
 女の子達の声が追い駆けるように聞こえてくる。
「先生が暇なわけないだろ。さ、静かに待ってような」
 彼の声もする。
 そうか、先生だったんだ。あの女の子達の見た目からして、きっと高校の先生だろう。そう考えると納得できるところもあって、彼の話し方は確かに時々教師みたいだった。私に対しても生徒を叱ったり、注意したり、時に励ますような口調をしていた。あんなに素敵で優しい先生がいたら、学校が楽しくなるだろうな。あの女の子達がはしゃぐのもわかる気がする。
 彼の勤め先がわかって、本当なら嬉しいって思うべきだった。でも私は無性に寂しい気持ちになり、あえて彼らから離れた車両に乗り込もうとホームの奥へ歩いた。出そうと思っていた勇気はとっくに萎んでしまっていて、今朝方の決意が随分遠い記憶に思えていた。
 彼の優しさの理由がわかった気がしたからだ。

 もしかしたら。
 彼の目には私もまた、教え子の一人みたいに映っていたのかもしれない。
 根拠はない、だけどそう思った。彼の教え子、あるいは既に卒業まで見送った生徒と同じように、私のことも先生として見守り、案じ、気遣っていてくれたのかもしれない。それならあの優しさの理由も納得できた。あの女の子達と話す時のように、私に話しかけてきた理由だってわかる。
 納得してしまうと寂しかった。
 だって、彼の気持ちがどうでも私は、彼のことが好きだ。
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