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同好の士とお茶会を(1)

 ワンフェスへの参加に当たり、私は自分でも情報を集めておくことにした。
 主催者がウェブ上で公開しているマニュアルを読み込み、前回開催時の参加者レポートなども一通り熟読しておく。やはりディーラー参加となるとお客さん気分ではいられないと思ったからだ。
 そこでわかったのは、瀬良さんの『食品サンプルはメインストリームではない』という言葉が紛れもない事実だということだった。
 マニュアルでは版権――つまり既存のアニメや漫画などの作品を造形化したものについて触れる記述が大部分を占めていたし、参加レポートで取り上げられているのも人物フィギュアが多かった。どこかに贋作師ウォルフガング三世さんのブース紹介レポートがないものかと目を皿のようにして探してみたけど、そもそも食品サンプルのブースを取り上げた記事自体が少ない。ファンとしては残念な限りだ。

 一方で、SNS上ではワンフェスに食品サンプルを出展する人、そしてそれを楽しみにしている人の声をたくさん見かけることができた。メインストリームではなくても一ジャンルとして確固たる存在感があるようだ。
 贋作師ウォルフガング三世さんも既にSNSでワンフェス参加を表明しており、その投稿にも数多くのコメントがつけられている。
『今回も参加されるんですね! 伺います!』
『お会いできるのが楽しみでしかないです。差し入れはOKですか?』
『取り置きをお願いしたいです。必ず馳せ参じますので!』
 瀬良さんはそれに対し、一つ一つ丁寧に返信をしていた。
『なんとか今回も参加が叶いました。当日お待ちしております』
『私もお会いできるのが楽しみです。差し入れはどうぞお気遣いなく』
『まだ搬入総数がわからないので、当日近くなったら改めて告知します』
 前にも思ったことだけど、SNSでの瀬良さんはとても温和で紳士的だ。コメントはまめまめしく返すし言葉遣いも丁寧で、何よりいつもの自虐的な言動が嘘のように鳴りを潜めている。
 ワンフェスに私も参加させてもらえるのなら、こうして同好の士に接する瀬良さんが直に見られるのかもしれない。瀬良さんも自身の造形の腕には自信があるようだし、ワンフェスでは別人のように堂々とした振る舞いをするのかも――そう考えると別の意味でもわくわくしてくる。
 もちろん、ワンフェス当日はそこまでじっくり観察できる余裕はないかもしれない。参加レポートによればディーラーは朝早くからイベント終了後までみっちりとやることが詰まっている。まず開場前に頒布物などの搬入、ブースの設営まで済ませておかなければならない。ディーラーは当日の売り上げを運営に報告するため、その収支を書き留めておく必要もある。イベント終了後、一般入場客が帰った後は撤収作業も各自で行い、運営に売上報告をし、運び込んだ荷物の発送を済ませてようやく帰れるものらしい。私がイメージしていた『フリマみたいなイベント』よりも少々忙しそうに思える。

 後日、その話をしようと瀬良ゾーンを訪ねていった私に、瀬良さんはもっともらしい顔をしてこう言った。
「確かに忙しいイベントかもしれませんね。やることはたくさんあるので」
「調べれば調べるほど、フリマとは違うなって実感しました」
「青戸さん、調べたんですか?」
 私の発言に、瀬良さんはなぜか驚いたようだ。
「それは調べますよ。せっかくお邪魔させてもらう機会なんですから、何も知らないままの参加では失礼じゃないですか」
 本来なら私がディーラー参加なんてできる立場ではない。そこを瀬良さんのご厚意で参加させてもらえるのだから、お客さん気分というわけにはいかないだろう。一通りの知識やマナーは身に着けた上で当日に臨みたかった。
「ああ……ありがとうございます」
 呆気に取られたようにお礼を言ってきた瀬良さんが、その後で少し笑う。
「でも、そこまで気負わなくても大丈夫ですよ。青戸さんは当日、お好きな時間に来てください」
 そう言ってもらえるのはありがたいことだけど、せっかくなので瀬良さんの役にも立ちたい。なので聞き返してみた。
「瀬良さんは何時に行くおつもりなんですか?」
「俺は前乗りする予定なんです」
「えっ、前日からですか?」
 今度は私が驚く番だ。
 もっとも、瀬良さんはどうってことない様子で続ける。
「諸々の手続きはワンフェス前日から受け付けてもらえるので、早めに行って済ませておくことにしてるんです。なにぶん独り暮らしなもので、当日に寝坊なんてしたら大惨事ですからね。ディーラーとしての信用にも関わりますから、いつも前日入りすることにしています」
 その言葉からは彼のワンフェスに懸ける情熱と強い責任感がひしひしと感じられた。もちろん私も遊び気分ではないつもりだったけど、はるかに真剣な想いが伝わってきて圧倒される。
「すごく、真面目に取り組んでいるんですね」
 私が思った通りに告げると、瀬良さんは当然のように頷いた。
「ワンフェスというのはですね、俺たち造形師にとっての晴れの舞台なんです」
「晴れの舞台……ですか」
「造形の趣味は孤独なものです。今でこそネットというお披露目の場がありますが、そこでだって見せられるのはほんの数点の途中経過と出来上がった後だけ。作品を見せられるものにするための作業、その膨大な時間の大半を一人きりで過ごす俺たちにとって、ワンフェスは孤独と苦労が報われる最高の瞬間というわけです」
 そう言って瀬良さんは、記憶を手繰るように目を伏せる。
「前回作った喫茶店も製作期間は約二ヶ月、ゆうに二百時間は超えてます。勤務の日には帰宅してから、休みの日には寝食を惜しんで作業をしました。その間もくたびれて投げ出したくなったり、終わりが見えずに不安に囚われたりということは何度かありました。それでも自らを鼓舞して完成まで漕ぎつけられたのは、もちろん青戸さんに見てもらいたくてというのもありますが、ワンフェスという目標があったからでもあるんです」

 私は想像を巡らせる。
 五月の連休、私が自堕落な時間を過ごしたり、旧友と遊びに出かけたりしている間も、瀬良さんはこつこつと一人で作業を続けていたのだろう。私が見せてもらえたのはその結果として生まれた作品だけで、制作過程の苦労や困難はきれいに包み隠されている。
 レジンや樹脂粘土の匂いが漂う部屋の中、背を丸めて机に向かう瀬良さんの姿はなんとなく思い浮かべることができた。だけど彼が作業中にミスをして溜息をついたり、時に行き詰まって落ち込んだり、根を詰めすぎてくたびれている様子はイメージが浮かんでこない。
 そうした誰にも見せない長い時間の果てに、あの素敵な喫茶店があるのだ。私は改めて尊敬の念を抱いた。

「瀬良さんも、大変な思いをしながら作ってるんですね。思い至らなかったです」
 溜息をつきつつ告げると、瀬良さんは恥ずかしそうに苦笑する。
「好きでやってることなんで愚痴は言えないですけどね。しかしワンフェスは造形師たちにとっての共通の目標で、それがあるからこそ一人ぼっちでも続けていけるんです」
 さも簡単そうに語っていたけど、決して簡単なことではないはずだ。
「それだってたゆまぬ努力があってこそ、ですよね」
「大げさですよ。俺の場合、他に趣味がないってのもありますし」
 謙遜する瀬良さんを見ていると、私もにわかに焦りが募った。
 私だって生半可な気持ちでワンフェスに臨むつもりはない。だけどまだ足りない気がする。晴れの舞台に懸ける瀬良さんの心意気に、私も何かしら懸けなければ失礼ではないだろうか。
「よかったら私も前乗りしましょうか。瀬良さんの晴れ舞台にしっかりお手伝いがしたいです!」
 そう宣言したら、さすがに面食らった様子で瀬良さんが慌てた。
「いや、そこまでしなくて大丈夫ですって。お金掛かるじゃないですか」
「入場料の代わりと思えば大したことないです」
「そりゃお気持ちはとても嬉しいですが……」
 言葉通り、瀬良さんは迷うように視線を泳がせている。迷惑そうではない様子に見えたので、もう一押ししてみた。
「私も寝坊して、当日乗り遅れとかしたくないですし。というか正直、早起きして電車乗るより前泊する方が楽ですから」
 早朝の電車で慌ただしく朝ご飯を食べたり、メイクする場所を探して駅周辺をうろつくくらいなら前日の夜から泊まり込んだ方がいい。なんだかんだでホテルに泊まるのは楽しいし、ちょっとした旅行気分も味わえる。
 瀬良さんも納得したのだろう、気遣わしげにしながらも言ってくれた。
「青戸さんの負担にならないやり方でお願いします。その方が楽なら、是非」
「じゃあ前乗りすることにします。幕張周辺のお薦めホテルってありますか?」
 それで瀬良さんはワンフェスの会場へのアクセスがいいビジネスホテルを何軒か挙げ、私はそれらをスマホのメモに取っておく。開催時期がちょうど夏休み期間なので予約が上手く取れない可能性もあるため、宿泊先候補は多ければ多い方がよかった。どんなホテルがお好みですかと聞かれたので、私は一番重視したいポイントを答える。
「朝食ビュッフェが充実していて美味しいところです」
 たちまち瀬良さんはおかしそうに噴き出し、それからすぐに詫びてきた。
「笑ってすみません。わかりますよ、ホテルの朝ご飯っていいですよね」
「そう! そうなんですよ! あの酸っぱいオレンジジュースとか、ちょっとゆるめのスクランブルエッグとか、特別な引力がありますよね」
 ビジホの朝食ビュッフェは旅行をする際の、密かな楽しみの一つだ。普段はトースト一枚で済ませる私も、旅先ではついついお腹いっぱい食べてしまう。パン食かご飯食か、起きた時の気分で決められるのもいいし、自分では作らないメニューが並んでいるのもいい。たまに朝から辛いカレーをキメてみたりするのもビュッフェならではだろう。
 とはいえ社会人になってからはそういう旅行とも無縁だった。忙しかったわけではないけど気持ちに余裕がなく、どこかへ出かける気分にもなれなかったからだ。近距離とはいえ久方ぶりの小旅行、そして初めてのワンフェス参戦、私のテンションは今から上がりっぱなしだった。
「ちなみに瀬良さんはどちらに泊まるんですか?」
「ああ、俺はもう予約済みで……イベントに備えてしっかり食べるつもりで、ビュッフェのあるところにしました」
 いつもなら一人で参加する瀬良さんは、昼食の離席時間を最低限にするために朝ご飯をたくさん食べるそうだ。タイミングが悪いとなかなかブースを抜けられず、お昼抜きになってしまった回もあったらしい。
「今回は私がいるので、そんな心配はないですね」
 私が胸を叩くと、瀬良さんは困ったように笑う。
「なんか、結局めちゃくちゃ負担掛けてますね。俺としては青戸さんが来てくれるだけでいいんで、面倒だったら言ってください」
「全然そんなことないです」
 むしろ行くからには瀬良さんの役に立ちたい。その上で一緒にイベントを楽しめたらいいと思う。
「じゃあ私も、瀬良さんと同じホテルにしようかな。その方がお互い寝坊も避けられるし、一緒に会場入りしてもらえたら迷う心配もないですし」
「え――い、いいんですか? 俺なんかと一緒で」
 瀬良さんが目を丸くする。
「一緒に参加するんだから、むしろその方がいいかなって。どうですか?」
 朝食会場に姿がなければ『寝坊かも』と察知もできるし、なんなら待ち合わせて一緒に朝ご飯でもいい。遅刻防止という観点ではこの上ないベストな策だろう。
「いや、俺はいいですけど……」
「だったら決まりですね。予約入れておきます」
 頷く私を見て、瀬良さんはぼそっと呟く。
「これは寝坊できないな……絶対早起きして、青戸さんと一緒に朝ご飯を食べないと……」
 声のトーンの割に決意を秘めたその言葉を、不意に遮るノックの音がした。

 瀬良ゾーンを仕切るスチール棚を指の関節で叩いたらしい、とても控えめな音だ。棚はもちろん、その中にしまわれている瀬良さん謹製の食品サンプルは微動だにしなかった。
 しかしその気遣わしげなノックを聞きつけた瀬良さんは、びくりとして眉を顰める。
 一瞬こちらを見た後で、恐る恐る応じてみせた。
「……どなたです?」
 間髪入れず返答があった。
「牧です」
 製作部の新人くんだ。
 私にとってはまだ聞き慣れない声の主は、スチール棚の陰からぬっと顔を覗かせる。黒髪マッシュの彼が私の方を一瞥した後、すぐに瀬良さんに向き直って口を開いた。
「お話し中すみません。明日提出の書類を、瀬良さんに確認してもらいたくて」
「ああ、それでしたら」
 瀬良さんが立ち上がり、牧くんが差し出した書類を受け取る。ちらりと見えた書面には『食品サンプルアイディアコンテスト』と見えた。
 九月に行われる社内コンペの申込用紙だ。
 提出するということは、牧くんも応募するのだろうか。入社一年目、むしろまだ二ヶ月目の新人さんなのに、すごい――驚く私をよそに瀬良さんは書面のチェックを終え、頷いた。
「問題ないです。このまま提出して大丈夫ですよ」
 途端、牧くんは口元をほころばせる。私より一歳年下だということを初めて思い出させるような、あどけなさの残る笑みだった。
「ありがとうございます、瀬良さん」
 折り目正しいお辞儀も付け加えた後輩に、瀬良さんは不器用そうな笑顔を返す。
「いえ……」
「では、お邪魔しました」
 最後に牧くんはもう一度私に目を向けた後、ぺこりと会釈をした。それから颯爽と瀬良ゾーンを出ていく。
 ものの一分ほどの滞在だった。

「はあ……」
 しばらくして瀬良さんが、緊張がようやく解けたような息をつく。
 複雑そうな顔で椅子に座り直した彼に、私は思ったことを尋ねた。
「新人指導のお役目はその後、どうですか?」
 もちろん『上手くいっているだろう』と踏んでのことだ。牧くんはどう見ても瀬良さんに懐いている。そうでなければあんなふうに笑ったりはしないだろう。
「まあ、なんとかやってます。牧くんが優秀なので」
 瀬良さんはやはり謙遜するみたいに答えた。
「むしろ彼だから、俺でも指導ができてるって感じですかね。もう製作にも携わってもらってますし、ぼちぼち俺が教えることはなくなるだろうと期待しているんですが」
 それで社内コンペにも参加するのか。つくづく優秀な新人さんだ。
「いい先輩ですね、瀬良さん」
 私の言葉はお世辞ではないつもりだったけど、瀬良さんは浮かない表情だ。少しためらってから、恐る恐るといった調子で口を開く。
「実を言えばですね……俺は、彼が怖いんです」
「えっ」
 それは、優秀な新人の実力が、ということだろうか。しかし瀬良さんだって社内では多くが認める実力者、彼が恐れをなすほどの存在なら相当の職人ということになりそうだけど――。
 ぎょっとする私に、瀬良さんは低い声で続ける。
「確かに彼は優秀です。それに人当たりもいい。どういうわけか俺なんかを飲みにも誘ってくれます。まあ、一度も行ってないんですけど……」
「どうしてですか?」
「お酒飲むと、家帰ってからなんにもできなくなるんで。趣味の時間取れないじゃないですか」
 きっぱりと言い切る当たり、瀬良さんは飲み会なんてものも好きではなさそうだ。
「でもなんか、断っても諦めてくれないっていうか、強引ではなくてもぐいぐい来る子なんで……そんな牧くんの陽キャ感が、俺には大変怖いです」
「あっ、そういう意味の『怖い』でしたか」
 拍子抜けしたような、でも瀬良さんらしいと納得がいくような。

 もっとも、牧くんはちょっとかわいそうかもしれない。指導してくれる先輩に懐いて、一緒に飲みに行ってもっと仲良くなりたい、なんて思ったのかもしれないし――ましてや相手は瀬良さんだ。心を開いてもらうのもたやすいことではないだろう。
 そう考えると、私は運がよかったのかもな。バレンタインデーから比べるとずいぶん仲良くなれた気がするし、普通に話せるようにもなってきた。瀬良さんの自虐っぷり、ネガティブさは相変わらずだけど、最近ではそれを口に出す機会がちょっとずつ減ってきたと感じている。
 一緒にワンフェスに参加したら、もっと変化を感じることができるだろうか。
 そういう意味でも私は、七月が楽しみだった。
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