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贋作師の表の顔(2)

 やがて寒気ゆるむ四月がやってきて、私は社会人二年目を迎えた。
 二年目だからといって大きな変化はない。今年度は事務に新人が入ってくることもなく、私は一番の新入りのままだったからだ。相変わらずの『四面先輩』という状況で、でもまあ、なんとかやっている。
 一方、瀬良さんのいる製作部には予定通りに新人さんが入ったらしい。

「今年新人さん採るなら、去年採ってもよかった気がします」
 私が未練がましくぼやくと、隣に座る朝比奈さんが小さく笑った。
「まーだ言ってる」
 狭い事務室で書類のチェック作業をしながらだから、実際にその顔は見えない。でもどんな表情をされているかは大体想像がついた。この先輩とも二年目の付き合いだ。
「ずっと言いますよ。私、製作行きたかったのに」
「ま、瀬良さんはその方が喜んだろうね」
 先輩のからかうような発言はスルーして、あくまで冷静に私は応じる。
「なんで私じゃダメだったんでしょうね」
 その理由は、もちろん自分が一番よくわかっていた。
 未経験者で資格もなく、あるのは熱意と興味だけ。そんな新人には一から仕事を教える手間があるし、おまけに去年は事務に人手が足りなかった。
 でも、もし私の入社が一年遅くて、別の人が事務の椅子に収まっていたら――などという想像もしてみたくなるのが人情というものだ。
「私が今年度入社だったらワンチャンあったのかな……」
「あれ、青戸さん聞いてないの?」
 そこで朝比奈さんはもう一度笑い、容赦なく続ける。
「今年度の新人の牧くん、美大で造形やってたって」
「え」
「青戸さんって学部どこだっけ?」
「ぶ、文学部、西洋史学科です……」
 しぶしぶ答えると、明るい声が返ってきた。
「適材適所ってことじゃない」
「はあ……」
 私は溜息と共に応じて、手元の書類を軽く睨む。

 年度初めの諸手続き関連の書類にはいろんな個人情報が並んでいるけど、そこにメディチ家だのバラ戦争だのマルクス主義だのは関わってこない。だから私が『適材適所』に当てはまるとは到底思えなかった。
 ただ、牧くんに関して言えばまさに言葉の通りだ。美大卒で造形やってた、なんて食品サンプルの申し子みたいな存在ではないか。実際に作品を見たわけではないけど、少なくとも未経験者ではないだろう。
 そんな牧くんについて、私はささやかな入社式代わりの朝礼にてちらっと見かけた程度だ。見た目は黒髪マッシュヘアの、さわやかそうな男の子だった。

「いい子だったよ。挨拶もちゃんとできるし」
 朝比奈さんからの評価も高いようだ。瀬良さんについて話す時とはうってかわって、柔らかい声音だった。
「さすがにまだ緊張してるみたいだったけど、あの分だとすぐ馴染むんじゃないかな。制作の即戦力になるのかもね」
「すごいですね」
 即戦力かあ。やっぱりそういう人材が欲しかったってことか。
 未練がましく恨めしい気持ちになる私に、そこで朝比奈さんが小さく声を上げる。
「あ。牧くんで思い出した、彼に交通費の説明まだしてなかったんだ」
「そういえば申請来てないですね」
「ごめん青戸さん、ひとっ走り行って話してきてくんない?」
「いいですよ」
 手を合わせてくる先輩に快く返事をして、私は席から立ち上がった。するとこちらを見上げた朝比奈さんがとびきりの笑顔を向けてくる。
「製作がいいなんて言わないで。私はよく動く後輩ができてうれしいんだから」
「あ……そうですね」
 確かに、去年みっちり仕事を教えてくださった先輩の前で『他の部署がよかった』は失礼だ。私ははっとして、お褒めの言葉に深々と頭を下げる。
「ありがとうございます、精進します!」
「私が辞める時までに仕事覚えといて欲しいしね」
 でも、続いた言葉にはさすがに驚いた。冗談を言うみたいな、軽いトーンの一言だったから余計に。
「朝比奈さん、辞めるんですか?」
 思わず聞き返せば、彼女は苦笑気味に肩を竦める。
「今すぐじゃないけど、そのうちね。ステップアップっていうか、もっと条件いいとこあったらなって思ってて」
 業種上仕方のないことではあるけど、弊社はあまり大きな会社ではない。お給料、福利厚生などの点で条件のいい会社は他にも山ほどあるだろう。私だって大好きな食品サンプルの会社だから飛びついたのであって、条件自体はまあ、こんなもんかという感じではあった。雇ってもらって文句は言えないけど。
 ただ事務室に二人きりとはいえ、朝比奈さんが包み隠さず転職を口にしたことには驚かされた。
「そういうわけなんで青戸さん、よろしくね。頼りにしてるから」
 そんなふうに頼まれたのも、牧くんの交通費の件だけではないんだろう。
 私は神妙に頷き、それ以上は何も言えずに事務室を出た。

 確かにうちは大きくない会社だ。
 事務室を出てすぐのロビーは玄関と各部署、それと工場の入り口にそれぞれ繋がっていて、徒歩一分で行き来ができる。ロビーだってせいぜい六畳あるかどうかくらいの広さで、たまに近隣の学生さんが工場見学に来ると都会の通勤ラッシュみたいになってしまう。そもそも工場、という単語から想像されるほど工場してなかったりもする。
 でも、ロビーにあるガラス棚に飾られた食品サンプルたちは珠玉の出来だ。ここには社内コンペで入賞したものだけが置かれていて、鍛え上げた技術で作られた精巧な作品たちは高名な美術館に並ぶ絵画や彫刻に勝るとも劣らない。もちろん瀬良さんの作品も並んでいて、『モーニングルーティン』と名づけられたあの作品を、私はここを通る度に眺めては惚れ惚れしていた。
 これが間近で見られるんだから、給料なんて多少安くても――いや、やっぱ高い方がいいけど。もらえるものは全然もらうけど。
 ただ今の私には、転職なんて想像もしない未知の領域だった。

 徒歩一分で製作部に辿り着いたところ、あいにく牧くんは不在だと言われた。
「瀬良さんの案内で工場に行ってるよ」
 とのことで、どうやら新入社員へのレクリエーション的なものを行っているらしい。教えてくれた方にお礼を言い、私は改めて工場へ向かう。
 それにしても、瀬良さんは本当に新人研修担当になったようだ。本人は全然乗り気じゃなかったようだけど、どんな感じで教えているのか気になった。その様子をついでに見られるかもな、なんて期待してしまう。
 工場、というと大抵の人は機械によって大量生産される現場を想像するようだ。でも弊社の食品サンプルは製作部の皆さんが一つひとつ手作業で作り出している。要は未だ『工場制手工業』なわけで、二十一世紀にまだこんなふうに生産される分野があるのかと、工場見学に来た人たちに大層驚かれているらしい。

 工場の廊下に面した壁はガラス張りになっていて、工場内の様子がよく覗けるようになっている。
 明かりのついた室内には作業用のテーブルが整然と並んでいて、そこの一つに腰かけている瀬良さんの姿が見えた。作業着姿の彼の傍らには、同じ作業着の牧くんの姿もある――今年度の新人さんはとても真剣な表情で、時々小さく頷いている。きっと瀬良さんが何かを教えているところなんだろう。
 一方の瀬良さんはといえば、相変わらず癖のある長い前髪のせいで表情がよく見えない。でも思ったより背中は丸くなかったし、手ぶりを交えつつ淀みなく話をしているようだった。彼自身は新人指導を任されることを憂鬱だとこぼしていたけど、こうして見るとしっかり様になっている。
 やっぱり私の見立て通り、瀬良さんは教え上手なんだろう。妙に誇らしい気分になりつつ、私は工場のドアをノックする。
「すみません、今よろしいですか?」
 そう声を掛けると、振り向いた瀬良さんがこちらを向いてほんの少し、間違い探しみたいに少しだけ表情を和らげた。逆に隣の牧くんは、わかりやすくその顔を緊張させる。
 対照的なその二人に、私は笑って会釈をする。
「事務の青戸です。牧くんに、交通費の申請のやり方を説明しに来ました」
「ああ、まだ提出してなかったんですか?」
 瀬良さんが目を丸くした。
 牧くんは彼に向かってはにかんでみせる。
「そういえば……いつ申請するんだろうって思ってました」
「説明遅くなってすみません。今、ここでお話しして大丈夫ですか?」
 私が尋ねると、牧くんはお伺いを立てるように瀬良さんを見た。
 そして瀬良さんが代わりに頷いたので、ざっと掻い摘んで説明をする。弊社の交通費は未だに紙での申請だ。紙に記されたデータを一件一件パソコンに打ち込むのは二度手間のような気もしている。思ったところで、私に旧来のやり方を変える権限はないけど。
 おおよその説明を、牧くんは真剣な面持ちで聞き入ってくれた。ひと通り終えてから申請用紙を手渡し、付け加える。
「可能なら明日までに提出してもらえるとありがたいです」
「はい」
 牧くんは頷いた後、私ではなく、瀬良さんに向かって尋ねた。
「今、書いてきてもいいですか? すぐに戻ってきますので」
「いいですよ」
 瀬良さんが了承すると、たちまち牧くんの顔に嬉しそうな笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます!」
 そうして牧くんは工場から飛び出していき、風のような速さで廊下の向こうへ消えた。
「すごい、元気いっぱいですね」
 感心する私の傍らで、瀬良さんは深々と溜息をつく。
「眩しいんですよ、全く」
「フレッシュさで満ち満ちてますもんね」
「それだけじゃないです。牧くんと俺は、まさに光と闇みたいな存在です」
「なんですか、それ」
 唐突な表現に私が笑うと、ちょっと卑屈な苦笑が返ってきた。
「常にクラスのカースト上位みたいな人じゃないですか。俺みたいな日陰者とは雲泥の差というか……なんか思い出しちゃうんですよね」
「何をです?」
「ちょっと教室離れたら俺の席に牧くんみたいな人が座ってて、みんなで談笑してるから『座りたいんだけど』とも言えなくて、非常階段で時間潰した昼休みのこととかです」
 いやに具体的な思い出。瀬良さんの学生時代が垣間見えるようだ。
 思い出した当人もちょっと沈んだ顔をしているから、私は笑い飛ばしておく。
「今の瀬良さんは日陰者なんてことないでしょう? 仕事で成果出してるし、趣味でも評価されてるじゃないですか。昔のことなんて思い出す必要ないですって」
 私の発言に、瀬良さんは少し驚いたようだった。長い前髪越しに目を瞠ったのが見えて、その後で、なんだか恥ずかしそうな笑い方をする。
「そう……ですかね。青戸さんが言うなら、そうなのかも……」
「そうですって! 自信持ちましょうよ」
 ダメ押しで強調すると、彼はまるで噛み締めるみたいに小さく何度か頷いた。
「ありがとうございます、青戸さん」
「いえいえ」
 ちょうどそこで牧くんが駆け戻ってきて、
「お待たせしました!」
 息を切らしながら私に申請用紙を手渡す。
「本当に早かったですね」
 瀬良さんがぎこちなく笑うのとは対照的に、牧くんはきらきらした照れ笑いを見せた。
「はい、頑張って急ぎました!」
 まだ四月だけど、牧くんはものすごく瀬良さんに懐いているようだ。やっぱりそれは、瀬良さんの実力あってのことだろう。
 微笑ましい気持ちになりながら、私は二人に挨拶をして工場を出た。
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