18:奇妙な習慣
午後九時を回ったところで、私たちは各々テントに引っ込んだ。私と伊瀬は同じテントだ。もっともみんなの荷物も一緒に詰め込まれているから、広々使えるとは言いがたい。
せっかくなのでそれらの荷物を私と伊瀬の間の壁として、並べておくことにした。
「お前、そんなあからさまに警戒すんなよ」
伊瀬にはからかわれたけど、にらみ返しておく。
「警戒とかじゃなくてマナーでしょ、このくらいの距離は」
「マナーってなんだよ。寝顔見せるのが恥ずかしいとかか?」
図星だったので私は黙った。
伊瀬を信じてないわけじゃない。というより向こうは彼女持ちでこっちは振られた側だ。テントにふたりきりで一夜を過ごしたところでどうにかなるとも思ってない。
ただ、それでも彼が『好きな人』であることには変わりなかった。早く見切りをつけなくちゃと思うのに、一緒に過ごす時間が楽しくて、なかなか気持ちが切り替えられない。だから伊瀬には寝顔を見せられない。ひどい顔で幻滅されたら、やっぱり嫌だから。
だから寝転がって、毛布をかぶった。電気ランタンの明かりはまだついていて、薄い毛布越しにもまぶしかった。ぎゅっと目をつむる。
私は未来を知ってしまって、自分が失恋することも知った。
誰だってこれから先に起きる出来事を知ることなんてできないはずなのに、伊瀬からそれを聞いてしまった。
知りたくなかった。でも、知ってよかったのかもしれない。
どうせ決まっている未来なら、心構えをしておくほうが楽なはずだから。
でも――どうなんだろう。
私が未来を知って、伊瀬に彼女ができることを知って、自分が傷つかないようにって振る舞ったら。
そのせいで未来が変わってしまうって可能性はないんだろうか。
だって、伊瀬が本来尋ねていくはずだった2006年の『私』は、伊瀬に彼女がいることを知らないはずだ。伊瀬はずっと連絡していなかったらしいし、人づてにでも聞かない限りは。
そんなに長い間、私たちが音信不通だったっていうのも、今考えると信じがたいけど。伊瀬も実家に帰ってないらしいし――。
「おーい、キク?」
「えっ」
呼びかけられて毛布から出ると、荷物の壁の上から伊瀬が手を振っていた。
「さっきから話しかけてんのに、どうした?」
「あ、ごめん……ちょっと考え事」
「なんの?」
それ聞いちゃうかな。
伊瀬のことだよ、なんてまたからかわれそうだし、でも適当な嘘も浮かばなかったから近いことを答えておく。
「伊瀬が、どうして過去に来たのかなって」
みんなのテントまでの距離は数メートル、だから声をひそめて話した。
もう遅い時間だからか、日中散々遊んだのが効いたのか、キャンプサイトは思ったより静かだ。どこかで虫の声がする。
「どうしてなんだろうな」
伊瀬もまだわからないようだ。荷物の上で難しい顔をしてみせた。
「心当たりとかないの?」
「何を心当たりって呼んでいいのかすらわかんねえよ」
「そっか……そうだよね」
およそありえない超常現象が起きてるんだから、無理もない。
とは言え、わからないまま黙っていても解決はしない。キャンプが終わって街に戻ったら、それ以降はどうするかも考えなくちゃいけない。
19歳の伊瀬からの連絡も、まだないままだ。そのことが私を一層焦らせていた。
「私、ちょっと考えたんだ」
仰向けになって、テントの天井を見上げながら考えてみる。
真夏のテント内は蒸し暑く、本当なら毛布もいらないほどだ。
「もしも過去に戻れるなら……戻るきっかけがあるとするなら、やっぱり『やり直したい』とか、『あの頃に戻りたい』って気持ちがそうさせるんじゃないかって」
もちろんそれは普通ならありえないことで、考えること自体が困難を極めた。
だからあくまでも仮説。根拠も何もない、例えばの話だ。
「伊瀬にはそういうのない? 後悔してることとか……」
そう水を向けると、伊瀬の頭が荷物の壁の向こうに引っ込んだ。ぽふっと音がしたから、枕に突っ伏したのかもしれない。
ややあってから、
「あるよ」
くぐもった声がした。
それから顔を上げた伊瀬は、どこか投げやりに続ける。
「つか誰だってあるだろ? やり直したいことも、後悔してることも」
「そうだけど」
私だってあるけど。
どうして私はタイムトラベルできないんだろう。どうして、伊瀬なんだろう。
「仮にやり直すとしてもだ、いつに戻るかって問題もある」
伊瀬は早口になってさらに続けた。
「例えば、俺が高三の夏に高体連で地区予選敗退したことを後悔してるとする。でもやり直すためにはいつに戻ればいい? 試合当日か、前日の練習からか、あるいは高一に戻って基礎から鍛え直すのか――そういうの考えたら、うかつに『やり直したい』なんて思えねえだろ」
それは、たしかにうなづける意見だ。
いつに戻るか。小さな失敗ならその直前でいいんだろうけど、それだけでは取り返せない後悔だってある。
伊瀬がどうして今、2003年に戻ってきたのか。
そのことも理由があるんだろうか。
「伊瀬は……どうして今なんだと思う?」
私は救いを求めるように、彼に尋ねた。
「2004年でも2005年でも、高校時代でもなくて。どうして2003年なのかな?」
すると伊瀬の顔がまた引っ込んだ。
荷物の壁で見えなくなった彼が、今度ははっきりした声で言う。
「後悔は、してたんだよ」
はっきりと聞こえたけど、その分とても重い声だった。
「何に?」
「……毎晩考えてた。どうにかなんねえかなって。あんなことしなきゃよかったって」
私の問いには答えず、伊瀬は低くうめくように語る。
それはまるで罪の告白みたいだった。
高校時代の底抜けに明るい伊瀬からは考えられないほど、打ちのめされて、くたびれたような口調に聞こえた。
「奇妙な習慣がついたもんだって思ってた。毎晩眠れなくて、酒飲んで、それで考えるんだ。俺はどうしてこんな人間になったんだろうなって」
「伊瀬……?」
こんな人間、なんて。
22歳の伊瀬も素敵な人だった。そりゃ髪の色やファッションセンスにはびっくりしたけど、昔と変わらない優しさも、時折見せる大人っぽさも素敵だった。どうしてそんなことを言い出すのか、まるでわからなかった。
「未来で、何かあったの?」
めげずに尋ねれば、伊瀬は長い溜息をつく。
答えはなかった。言いたくないのか、言えないのか、顔が見えない以上はわからない。
でも放ってもおけなくて、私は起き上がって荷物の壁の向こうに告げる。
「よかったら話して。私、力になるよ」
それでも返事がなくて、だから壁越しに覗き込んでみた。
うつ伏せになっていた伊瀬は、突然かかった私の影にぎょっとしたようだ。振り返った顔が引きつっている。
「な、なんだよ……簡単に言うなよ」
「言うよ! 放っておけないもん」
「だって……」
伊瀬もまた上体を起こし、片膝を抱えて座る。
その顔はどこか迷っているようで、珍しく目が泳いでいた。
「未来って、変わんのかな」
そうして迷いながらも、ぽつりと言った。
「俺がもし、ここで何かしたらさ。未来も変わって、俺が後悔せずに済むようになんのかな」
「ど……どうかな、そうなるかもしれない」
断言はできない。
未来を変えるなんて本当はいけないことで、私たちは罰を受けるかもしれない。
でも、伊瀬がつらいならやっぱり放っておけない。伊瀬にとって悲しい未来が待っているなら、私はそれを防ぎたい。やり直させてあげたい。
「話して。私、聞くから」
意を決して促せば、伊瀬も覚悟を決めたようだ。
電気ランタンの光に照らされながら、今度は真っ直ぐに私を見た。
「わかった、話すよ」
私は黙って唇を結ぶ。
どんな話でも受け止められるよう、身構える。
そして伊瀬は言った。
「昨日、俺、お前に『彼女がいる』って言っただろ?」
「う、うん」
「あれ、嘘だ。見栄張ったんだ」
「え!?」
「正確には『いた』だ。ちょっと前まで……別れたけど」
伊瀬の顔が苦しみにゆがむ。
「俺……」
だけどその後、言葉が途切れた。
何度もためらうように息をつき、何度かかぶりを振った。言葉が継がれるまでにだいぶかかった。
「さっきのお前の疑問、わかる気がしてんだ。どうして今なのか、どうして2003年の夏なのか。俺も初めはわからなかったけど、今なら……」
伊瀬は、何かを掴みかけているようだ。
確信はないのかもしれない。でも私も、わずかな心当たりにでも縋りたかった。
「どうして、なの?」
私がさらなる続きを促そうと、そう尋ねた時だった。
伊瀬が口をつぐんだ。
テントの外で足音が聞こえたからだった。
それは私たちのテントのすぐ傍で止まり、やがて声がかけられる。
「キク、起きてるでしょ? ちょっと出てこれない?」
声の主は、柳だった。