ラプンツェル(2)
土曜日は朝から慌しかった。部屋の掃除を終えてから、晩ご飯の為の買出しに出かけた。ある程度の下ごしらえを済ませてしまってから、鏡の前で身支度を整える。
彼を迎えるなら、少しでもきれいでいたかった。
鏡の前で、伸ばしかけの髪を低めの緩いシニヨンにまとめる。
すると鏡には幸せそうに微笑む私が映り、それが何だか照れくさい。
おしゃれをすることに楽しさ、喜びを感じるなんて、ずっとなかったことだった。でも現に近頃は鏡に向かうのが嫌ではなくなったし、ヘアアレンジのレパートリーが増えていた。髪を少し伸ばしてみようかと思っているし、可愛いヘアピンやシュシュを買い揃えてもいる。
瑞希さんは会うたびに、私をきれいだとか、可愛いなどと惜しみなく誉めてくれる。
だから彼の為にきれいになりたい――そう思って、小さな努力を重ねていた。
服装の好みも変わった。明るい色、淡く柔らかい色の服も揃えるようになった。目つきが悪いから、背が高いから似合わないと尻込みしていた女の子らしい服にも手を出し始めた。休日にはスカートやワンピースを着て過ごすことが多くなった。そういった変化を自覚すると、やっぱり妙に照れてしまう。
私は、恋をしているように見えるだろうか。
事情を知らないほかの人から見ても、恋する女らしい変化を遂げているだろうか。
そして一心にあの人を想っているように見えるだろうか。そうだとしたら、嬉しい。
彼が私の部屋にやってきたのは、午後六時、十分前のことだった。
約束の時間通りに現れて、玄関のドアから顔を覗かせた。
「お邪魔します」
私服姿はもう見慣れていると思っていた。なのにこうして自室の玄関に瑞希さんが現れると、どうしようもなく胸が高鳴った。飾らない、さっぱりした服装の彼が、やけに非日常的に思えた。
「どうぞ、お待ちしていました」
私は出来る限り笑んで、彼を招き入れた。それだけ言うのに声が震えるくらいどきどきしていた。でも、緊張を悟られないようには心がけた。
靴を脱いだ彼が、提げていた紙袋を差し出してくる。
「手ぶらで来るのもどうかと思って。これ、手土産」
「そんな、気を遣っていただかなくても」
即座に私はかぶりを振ったけど、
「気を遣ったんじゃない。ごちそうになるなら、このくらいはしないとな」
瑞希さんが衒いもない笑顔を見せるから、結局受け取ってしまった。
促されて覗いた紙袋の中身はワインだった。赤にしたのは夕飯のメニューがハンバーグだから、だろうか。
「車、停めるとこないって聞いてたから、タクシーで来た。心置きなく飲めるよ」
彼はそう言うと紙袋を指差す。
「君も飲むだろ? そのつもりで買ってきた」
そういうことならと私は頷いた。
「はい、是非」
答えたその後で、そういえばワイングラスはあっただろうかと考えて、一瞬焦ってしまったけど。
「よかった。君をどう言って付き合わせようか、思案に暮れてたところだ」
彼の顔にいたずらっ子の笑みが浮かんで、どぎまぎしながら目を逸らす。今日は心臓が働きすぎて、そのうち倒れてしまうような気さえしていた。
1LKの小さな部屋が、奇妙な緊張感と高揚に支配されている。
彼がここにいる、というだけで空気が変わった。ぴりりと張り詰めていながら、どこかふわふわと覚束ない。何かの濃度が上がったように、呼吸が苦しくなる。
「へえ、きれいにしてるんだな。偉い偉い」
瑞希さんが感心したように居間を見回すから、私は慌てた。
「掃除したばかりですから……あの、あまり見ないでください」
「ああ、ごめん。女の子の部屋って気になるからさ」
私が勧めたクッションを受け取り、彼はやっぱりしげしげと辺りを見ている。
見るものもないような部屋だけど、こうして見られているとわかるとそわそわしてしまう。でも、これ以上釘を刺すのもしつこいような気がして、私は落ち着かない気持ちでキッチンへと向かった。
晩ご飯の準備はあらかた整っている。ご飯は炊き上がっているし、スープも出来上がったばかりだ。サラダは冷蔵庫の中で出番を待っていて、同じくハンバーグも、冷蔵庫の中、焼き上げられるその時を待っている。
食器棚を探ってみたけど、ワイングラスはやっぱりなかった。実家にならいくつか揃いのがあったのに、と今更のように悔やんでみる。一人暮らしでは使う機会もないから揃える気さえ起こらなかった。仕方がないのでタンブラーグラスを出すことにする。ちょっと不恰好だけど。
熱したフライパンに油を引き、ハンバーグを焼き始める。今度は室内に美味しそうな匂いと、じゅうじゅうといういい音が満ちた。彼が期待してくれているのはわかっているから、いい出来にしなくては。どきどきとうるさい心臓を抑え込みながら、私は気を引き締める。
誰かの為に料理をするなんて、何年ぶりだろう。
好きな人の為には、もちろん初めてのことだ。
自分の食べる分だけならあまり頓着しなかった見栄えや、盛りつけ方まで気になってくる。焼き加減は好みに合うだろうか、ソースは口に合うだろうか、形が小判型ではオリジナリティがないと言われないだろうか、そんな細かいところまで気にしながら、私はハンバーグを焼き上げた。
小さなテーブルに食事の用意を整えると、二人きりの室内が急に華やかになった。
食卓には全てのメニューが出揃っている。個人的にはベストの焼き色をしたハンバーグと、出番到来に意気込むサラダ。それから湯気の立つご飯とスープ。たった一つだけ、ワイングラスの代役を任されたグラスが肩身の狭そうなそぶりでいた。
「グラスがなくて、すみません」
私が詫びると、瑞希さんは明るく笑い飛ばしてくれる。
「こういうグラスで飲むのも悪くない。気負ってなくてちょうどいいよ」
そう言ってもらえるのは大変ありがたじゃった。
実際、傾けたグラスは気負いもなく、不恰好ながら機能的だった。子供の頃に飲んだシャンメリーを思い出すような気楽さで、私もワインを味わった。
ハンバーグの方は、瑞希さんの目にも申し分ない出来に映ったようだ。
「うん、美味しい」
早速一口食べて、飲み込むなり彼は満足そうな顔をする。
「お口に合いましたか」
「合ったなんてものじゃない。ちゃんと中まで火が通ってるし、そのうえびっくりするくらい美味しい。ソースの味までばっちりだ。これ、どうやって作った?」
彼が絶賛するので、私は非常に照れた。
「どうって……レシピ通りですよ。特別なやり方はしていません」
「そうかなあ。僕も作る時はレシピどおりに作ってるけど、こんな風にはならないよ。中が生焼けか、そうじゃなければ真っ黒に焦げるかだ」
何においても完璧そうに見える瑞希さんが、ハンバーグ作りは苦手だなんて意外なくらいだった。人には必ず、何かしらの不得手があるものなのかもしれない。
「今度、一緒に作ってみましょうか」
私が持ちかけたら、すぐさま彼も乗ってきた。
「いいな、それ。二人で料理を作るっていうのも楽しそうだ。教えてくれる?」
「はい、喜んで」
私の心も弾んでいた。さっきまでの緊張感はどこへやら、彼にハンバーグの出来を喜んでもらえたということだけで、すっかり楽しくなってしまった。
でも私から誘ったこの時間を、楽しく過ごせているのは幸せなことだ。
テーブルを囲む彼も楽しそうにしていてくれたし、何を食べても美味しそうにしてくれたから、より幸せな気持ちになれた。
「君は、部屋ではお酒を飲まない方?」
不意に、彼が尋ねてきた。
「はい、一人だと買って飲むのも気が引けて。どうしてですか?」
「結構飲む方なのかと思ってたからさ。お酒、強いだろ?」
「そうですね、弱い方ではないですけど。でもワイングラスを揃えておくほどは飲まないんです」
飲まない理由は特になかった。一人暮らしだと、そういったものにも手を出すのが億劫になるだけだ。アルコールに強い分、酔いたい時にビール一缶では足りず、出費がかさむというのも理由に含まれるのかもしれない。
「うちの父が強いんですよ。私は父ほどではありませんけど、やっぱり似たんだと思います」
そう告げたら、にわかに彼が不安げな表情になった。
「強いって、どのくらい?」
「潰れたところを見たことないです。いつも顔色も変えずに飲みすぎては、母に叱られてるんです」
「……覚えておくよ。君のご両親と会う時は、事前の体調管理が必要そうだ」
瑞希さんが真面目くさった声で言うので、私はちょっと笑ってしまった。
本当にそんな機会が出来たら、あまり笑い事ではないかもしれないけど――瑞希さんの体調管理よりも、父に釘を刺すことの方が大事かもしれない。
「そういえば、瑞希さんは一人でもお酒を飲まれるんですよね」
今度は私の方から尋ねた。
ワインの入ったグラスを傾けて、彼は首を竦める。
「まあね。いつも大した量は飲まないけど、疲れた時はついアルコールが欲しくなる」
「お仕事、大変ですもんね」
日頃から部下として、上司の働きぶりを見つめているからこそ、それはよくわかった。私は心配になったけど、彼の方は飄然としたものだ。
「それもあるけど、他にもさ」
「あ、そうなんですか?」
「そう。好きな子になかなか振り向いてもらえなくて、どうしたものかと悩んでた頃は、毎晩のように自棄酒モードだった。今だから言えるけど、あの頃はちょっと辛かったな」
しみじみと語られる思い出話も、私は意外に感じた。瑞希さんでも自棄酒なんてすることがあるんだと、いささか驚かされている。しかも恋の悩みを抱えていたなんて、ちょっと可愛い姿かもしれない。
「瑞希さんにもそんな頃があったんですね」
私が言うと、彼はじろりとこちらを睨んだ。
「また、他人事みたいに言う」
「はい? あの……」
「『好きな子』が誰かってところまで考えて欲しいものだけどな、こっちとしては」
不満そうな物言いを、私ははじめ怪訝に思った。
だけど五分ほど黙考してからようやく、語られた『あの頃』が実はそれほど昔の話ではないことに気がつく。
「あ……その節は、ご迷惑をおかけしました」
「……いいよ。今があるから、思い出話にもできる」
瑞希さんはそう言って、ふっと穏やかに笑ってくれた。実にそのとおりだと、いくらかの反省もしながら私も思う。
食事は滞りなく終わり、私は食器を片づける為にキッチンに立った。
彼も手伝うと言ってくれたけど、今日の彼はあくまでお客様だ。その申し出はやんわりお断りして、代わりにテレビのリモコンを渡しておいた。
よかったら何か観ていてください、そう告げて。
映画でも借りておけばよかったと、キッチンでお皿を洗いながら思う。
食事を終えたらどう過ごすか、まるで考えていなかった。まさかもう帰ってもらうわけにもいかないし、かといってこの部屋に、何か彼を楽しませるようなものがある訳でもない。せいぜい、ワインがもう少し残っているくらいだった。
時間が許すなら、近くのレンタル店まで一緒に行くのもいいかもしれない。でも、ちょっと手軽すぎるだろうか。気を許した相手とはいえ、そういう緩い付き合いをするにはまだ早いようにも思う。そもそも彼の映画の趣味も知らないから、そこで意見が合わなかったら困る。
私はまだ彼のことを全て知っているわけじゃない。彼の映画の趣味や、彼の好きなメニューまで、聞けないようなことでもないのに今まで注意が向かなかった。機会を得て少しずつ知っていくのもいいけど、たくさん知りたい思いにも駆られる。
何せ、彼は職場の上司だ。休日にこそ恋人らしく二人で過ごしていても、一度出勤すれば上司と部下の関係でしかない。しかも上司と部下でいた期間の方がずっと長いと来ているのだから、距離を測れないのも無理ないことかもしれない。
課長、なんだと改めて思う。
あの人は課長で、私の上司だ。そして皆の憧れの的である、『美女』だ。
そんな人を好きになったのだから、試行錯誤を繰り返したって当然だ。ゆっくりでもいいから努力を続けて、あの人の恋人として釣り合うような人間でありたい――。
ふと、背後に気配を感じた。
はっとして振り向いた時には、肩を掴まれ、引き寄せられていた。
急に唇を奪われて、手にしていたお皿を落としそうになる。すんでのところで持ち直せたけど、次に耳を軽く噛まれたから、慌ててお皿を流しに置いた。
いつの間にかキッチンに踏み込んでいた彼は、私を抱き締めながら唇で触れてくる。一言もないまま顎から首筋を辿る柔らかい感触に、私もさすがに抗議の声を上げた。
「だめっ……課長、まだお皿洗いが……」
「ごめん。でも待ちきれなくて」
頬を寄せてくる彼の言葉に、強く押し退けることもできない。
先程までなりを潜めていた緊張感と高揚が、一息に押し迫ってきたようだった。心臓の忙しない動きを自覚しながら、私は渋々彼に告げる。
「もう少しで、終わりますから」
それでも彼は離れてくれず、結局肩を抱かれたままでお皿洗いを続行した。洗いにくさは身動きが取れないせいじゃなくて、早鐘を打つ胸の鼓動のせいだった。
全て洗い終えて蛇口を閉めると、待ち構えていた彼にすかさず抱き締め直された。ぎゅっと強く、潰されそうなほどに強い力を込められ、呼吸ができなくなる。
彼の唇が私の耳を食む。そのまま、耳元で囁いてきた。
「罰ゲームのこと、覚えてる?」
何の話だっただろう、混乱しながらも私は思う。
答えられずに黙っていれば、彼は私の目を覗き込んできた。意味ありげな笑みがすぐ近くに迫る。
「さっき僕を『課長』って呼んだな?」
「……あ」
覚えていた。あれは職場での彼のことを考えていたから、とっさに飛び出てしまっただけだ。でも――そんな言い訳はきっと通用しないだろう。
「だから、罰ゲーム。もちろん素直に受けてもらう」
「あの、何を……すればいいんでしょうか」
すると彼は少しの間考えて、楽しそうに答えを導き出す。
「君に、明日の朝食も作ってもらおうかな」
「え? 明日の朝、またいらっしゃるんですか?」
「そういう意味じゃないよ」
するりと背中でエプロンの紐が解かれて、私たちの足元、キッチンの床に落ちる。強く抱き締められ、キスを繰り返されるうち、身体から力が抜けていく。とても立ってはいられなくなり、流し台に寄りかからざるを得なくなる。
「今日の君はとても色っぽい」
瑞希さんは私に、そう囁いた。
「この髪型も可愛い。デート用、かな」
シニヨンにまとめた私の髪を、弄ぶように撫でてくる。感覚なんてあるはずないのに脚が震えてしまう。
「は、はい……おかしく、ないですか」
「可愛いって言っただろ。すごくいいよ」
私の問いに彼が笑う。
「髪、少し伸びたな。いつ見てもきれいで、なめらかだ」
熱い吐息交じりに、誉め言葉を囁かれるのがくすぐったい。
「それにこの髪型だと……うなじがよく見えるのもいい。ここも、きれいだ」
彼は私の首筋に顔を埋め、思わず声を上げそうになる。慌てて息を呑むと、喉の鳴る音がキッチンに響いたように思えた。
「今夜の君の全てが、僕の為のものだ」
彼の言う通りだ。
今日の私は彼の為にあった。彼を部屋に招き入れたからには、彼を喜ばせる為のあらゆる用意をしていた。料理も、化粧も、ちょっとしたおしゃれも、全てが彼の為に設えたものだった。
今の私はちゃんと、恋をしているように見えるのだろう。彼の目に、彼を一心に想っているように映っているのだろう。
そうだとすれば、他に望むこともない。
さして時間もかからないうちに、私はすっかり解かれてしまった。呼吸の苦しさも緊張感も高揚も、不快なものではなくなっていた。瑞希さんは『罰ゲーム』の本当の意味を教えてくれたけど、楽しそうな彼とは裏腹に、私は考える余裕もないまま押し流されていった。
今夜から明日の朝まで、二人の時間はまだまだ長い。
夜が明けるまでに私の心臓が持てばいいけど――この夜の間にあとどれくらい驚かされるか、ちっともわからないから。