ラプンツェル(1)
「芹生さん、お疲れ様」背後から名前を呼ばれて、それだけでどきっとする。
いつも社内で聞いている、渋澤課長の声だ。
でもその声を会社以外の場でも聞くようになってから、こうして呼ばれるだけで心臓が跳ねてしまう。まして最近では二人きりの時だけ、下の名前で呼ばれるようになった。だからだろうか、改めて名字で呼ばれるとかえって落ち着かない気分になる。
平静を装って振り向くと、穏やかに微笑む彼が歩み寄ってくるところだった。
「課長も、お疲れ様です」
動揺を悟られまいとする私に対し、彼は至って普段通りの態度を見せる。
「ありがとう。今日も頑張ってくれたな」
「いえ、普段通りの業務をしたまでです」
この頃の私は、彼の前ではあまり俯かないように心掛けていた。気恥ずかしさだけは一向になくならないままだったけど、かつてのような卑屈な思いは日増しに小さくなっている。渋澤課長の前ではいつでも、胸を張っていたかった。
彼はいつでも、真摯に私を見つめてくれている。
「君が真面目だからとても助かってる。今後も頼りにしてるよ」
私のことを、ちゃんと見てくれている。
「そんなこと……いえ、ご期待に沿えるよう、頑張ります」
一旦は否定しかけて、だけど私は、すぐに言い直した。
自分自身の面白みのない真面目さは自覚していた。
特別仕事ができる方というわけでもなく、やれることを精一杯やっているだけだ。
でも、そんな思いにも近頃、変化が生まれていた。自分の仕事はもちろん頑張りたい。だけどそれ以上に、この人の――渋澤課長の助けになりたい。彼の為にも、これまで以上に総務の仕事を頑張ろうと思えた。だから、彼に誉められたことはとても嬉しい。
ただ一つ、誉めてくれるなら人目のないところでにしてほしかった。
もともと人目を引く渋澤課長の言動とあって、社内の廊下では目立ってしまうようだ。先程からちらちらと向けられる視線を感じていた。
「よろしい。頑張り屋の芹生さんにはご褒美をあげよう」
愛想よく言った課長は、そこで私の手を取った。
誰かが遠くで小さく声を上げ、私も密かに息を呑む。だけどすべすべした手はそれらに構わず私の手のひらを開かせ、個包装のキャンディを一粒握らせる。
「はい、どうぞ。あとでこっそり食べるように」
「あ……ありがとうございます」
意外なプレゼントに、私が思わず微笑んだ時だ。
「あれ、物足りないかな。それならもう一つおまけだ」
「いえ、足りないというわけでは――」
私の言葉を遮って、渋澤課長は私の手の中にもう一つ、何かを押し込んだ。明らかにキャンディではなく、もっと大きくて硬くて、つるりとしたものだった。そして誰にも見えないように、そっと私の手を握らせてくる。
私も表情を変えないように注意しながら、礼儀正しく返事をする。
「……課長、ありがとうございます」
「うん。いい返事だ」
課長は満足げにそう言うと、私の肩をぽんと叩いて、
「じゃあ、また明日もよろしく。お疲れ様」
笑顔だけを残し、踵を返した。
私は片手を握り締めたまま、離れていく彼の背中を見送る。
後ろ姿はそれほど遠ざからず、廊下を少し行ったところで、彼はたちまち同僚の女の子たちに囲まれてしまった。彼が私から離れるのを待ち構えていたようだ。
「課長、芹生さんだけずるいです! 私にもご褒美ください!」
「何あげたんですか? お菓子ですよね? 私も食べたーい!」
「君たちはもう少し仕事を真面目にやるように。そうしたら考えるよ」
あしらうような口調でも、渋澤課長はひたすらに優しい。女の子たちにきゃあきゃあ言われて、楽しそうにも見えるのが少しばかり切なかった。
でも私には、貰ったばかりの『ご褒美』があるから――もう少しの我慢だ。つまらない嫉妬心は飲み込んでしまおう。
課長と同僚たちに背を向けてから、私は握ったままでいた手を、スカートのポケットに滑り込ませる。それから廊下を歩き出せば、ポケットの中では彼の車のキーが軽快に跳ね始めた。
課長と私の関係が変わったことを、鋭く察している人もいるようだった。
噂になるというレベルでは到底ないにせよ、何人かにはそれとなく問われた。
『最近の渋澤課長、芹生さんに優しくない? 何かあったの?』
彼女たちが主張するには、渋澤課長は私にだけは特別に優しく、目を掛けているように見えるのだそうだ。そうされるだけの何かがあったのかと尋ねられ、私は当然、何もないと答えた。
本当のことが知られたらどうなるだろう、と思いを巡らせることはある。
社内には課長に好意を寄せる女の子たちが大勢いる。そういう子たちが課長と私の関係を知ったら、恐らく酷く落胆することだろう。落胆だけで済めばまだいい、課長の見る目を疑われたりしたら、私は何ともやり切れなくなる。真実が露呈した場合、いいことは一つもない。
だけど私の心中は複雑だった。皆をがっかりさせ、反感を買い、課長の株さえ暴落させてしまうくらいなら、ずっと黙っていた方がいいように思う。でも心のどこかでは、ばれてしまってもいいような、欲求のような気持ちが芽生え始めていた。彼のことを好きなのだと、とてもいとおしくて堪らないのだという想いを、ひた隠しにしなければならないのは辛かった。それらを隠さずにいる同僚たちを目の当たりにすれば、尚のことだ。
渋澤課長は今のところ、私の判断に任せると言ってくれている。
課長自身はあまり隠していたくないようなのが、態度から薄々感じられてはいたけど――隠している方が得策だと思えるうちは、まだ黙っておく方がいいと私は考えていた。
課長と私の関係を、正しく察している人はまだいないようだ。先に向けられた問いも結局は、課長が私の顔つきの恐ろしさに怯えて、優しく接するようにしているのだろうという推論に行き着いていた。同僚から向けられたその推論を私は、そうかもねと短い言葉で肯定しておいた。
美女と野獣が本当に惹かれ合うなんてこと、きっと誰もが予想できないだろうから。
手渡された車のキーを使って、私は駐車場に停められた課長の車に乗り込んだ。
助手席のシートに座り、人目を気にしながらじっとしていること、二十分――駆け寄ってくるスーツ姿の彼をフロントガラス越しに見つけて、ようやくほっとする。
「ごめん! すっかり待たせちゃったな」
詫びながら乗り込んできた課長が、私の手から鍵を受け取った。そしてエンジンを掛け、深く息をつく。
「『お菓子のふりをして鍵を渡す作戦』は失敗だったな。あんなに我も我もと欲しがられるとは思わなかった」
疲れた様子で語られた内容に、私の脳裏にも光景が浮かんだ。課長が女の子に囲まれているのはいつものことだから、想像するのも容易だった。
勤務後、こうして車の中で待ち合わせるのもよくあることになっていた。社外で待ち合わせるのが一番安全で、晴れた日はなるべくそうするようにしていたけど、今日はあいにくの雨だ。だから車の中で待っていてもらおうと考えてくれたようだ。
彼の心遣いはもちろん嬉しいけど、経緯を思えばほんの少し複雑だった。
「課長から貰うお菓子なら、誰だって欲しいと思いますよ」
私は幼い嫉妬心を押し隠しながら告げた。
すると彼は私を軽く睨む。
「今は勤務時間外」
「え?」
何のことか、一瞬わからなかった。
「『課長って呼んでいいのは勤務中だけ』って言っただろ? 何て呼ぶんだっけ、一海?」
促されてから初めて気づいた。
もちろん前々から言われていたことで、既に幾度となく注意を受けていることでもあったけど、やはりまだ慣れない。
私はためらいながらも、正しい呼び方を口にする。
「……瑞希、さん」
「よろしい。次に呼び間違えたら、ちょっとした罰ゲームを用意するから覚悟しておくように」
罰ゲームとは何だろう。彼の考えることだから、きっと想像もつかないようなことに違いない。
私は思わず目を瞠ったけど、微笑む彼はそれ以上言及せず、車を発進させた。
外は相変わらずの雨模様で、駐車場を出てすぐに車のワイパーが動き出した。
天候不順、おまけに金曜日の夜とあって、道はやや混み合っていた。車の進みは悪く、時々流れも滞った。
だけど運転席の彼は上機嫌で、にこにこと笑みを絶やさない。
「ここのところ、週末だけが日々の楽しみだよ。いつでも待ち遠しくてしょうがない」
「そうなんですか」
私が相槌を打つと、その横顔がにわかに曇る。
「他人事みたいな口ぶりだな。君と一緒にいられるから楽しみなのに」
もちろんそんなつもりはなかった。慌てて弁解した。
「いえ、私、そういうんじゃ……私も、すごく楽しみにしています」
「そうじゃなきゃ困るよ」
雨音響く車内に、安堵の溜息が零れる。
私は彼の横顔を見つめながら、胸中で猛省していた。
いわゆる『両想い』で『お付き合い』を始めたばかりの今こそ、些細な行き違いがあっては悲しいことだ。私が彼をどれほど好きで、これからも一緒にいたいと思っているか、もっとアピールする必要があるかもしれない。
「僕は君と一緒にいられるだけで、十分幸せなんだけどな」
子供っぽい口調で、揶揄するように課長は――瑞希さんは言った。もっとも拗ねた様子はすぐに掻き消え、がらりと明るく尋ねてきた。
「君は明日、どこか行きたいところでもある?」
週末の予定は、はっきりとは決めていなかった。以前ならどこかへ出かけるという目的ありきで立てられていた予定は、いつの間にか二人で会うことだけに主眼を置くようになっていた。きっとお互いに、相手だけがいればいいと思っているからだ。
そして私は、密かに計画していることがあった。尋ねられたのを機に、提案してみることにする。
「よかったら、私の部屋にいらっしゃいませんか?」
切り出した直後、わずかな沈黙があって、
「君の部屋?」
思いがけないといった口調で、瑞希さんが聞き返してきた。
「そうです。あまり広いところではありませんけど」
「もちろん、いいよ」
今度は間を置かずに、彼は答えた。その後で嬉しそうに声を弾ませる。
「君の方から招いてくれるとは思わなかったな」
彼の言う通り、以前までの私なら、自分の部屋に人を招くなんてことは考えもしなかった。
広くないどころか、一人暮らしに必要最低限のスペースと、家具しかないような部屋だ。何か面白いものがあるわけでもなく、人を招くには向かないはずだった。
でも彼を誘う理由くらいはある。
「是非お願いします。それでその、晩ご飯を私の部屋で一緒にどうかなって……」
私の申し出に、彼は怪訝そうな問いを口にする。
「晩ご飯を?」
「私、作りたいんです。何か、瑞希さんにごちそうしてみたくて。……ごちそうと言えるかどうかは、出来を見なければわかりませんけど」
何かで、想いを形にして伝えたかった。
今の覚束ない、不安定な関係を確かなものにする為に。私が誰の前でも、瑞希さんを好きだと言えるように。
料理の腕は胸を張れるほどでもない。今まで必要に駆られて自炊をしてきただけだから、人様の前にお出しするには少し練習が要るかもしれない。だけど彼の為に、何かしたいと強く思っている。
そしてどうやら、私の想いはしっかりと伝わったようだ。
「ありがとう。君の手料理、ごちそうになってもいいかな」
瑞希さんは本当に嬉しそうに、そう言ってくれた。
「もちろんです。こちらこそよろしくお願いします」
「楽しみにしてるよ。実はいつ催促しようかと思ってた」
彼の物言いは時々とても率直だった。私はつい笑ってしまったけど、念の為に言い添えておく。
「手料理といっても大したものじゃありませんから、期待しすぎないでくださいね」
「そう言われてもな……。楽しみにはしててもいいだろ?」
彼の期待の大きさは、言葉の端々から伝わってくる。
「なるべく、ご期待に添えるようには」
予想はしていたけど、どうやら重大な責務を負うことになりそうだ。彼の期待は裏切りたくない、仕事でも、それ以外の場面でも、いつでも。
「ところで、メニューは何?」
ハンドルを握る彼が、そわそわしながら尋ねてきた。
そういえば、と私も思い当たって、すぐさま尋ね返してみる。
「何がいいですか、瑞希さん」
「僕が決めてもいいの?」
「お願いします。できればポピュラーな献立だとありがたいです」
余計なことかなと思いつつも、それは主張しておいた。彼にはおかしそうに笑われた。
「ポピュラーじゃない料理ってどんなのだろうな。エスニックとか?」
「そういうの、お好きなんですか?」
一瞬、ひやりとした。
彼の好みが私の知識の及ばない、例えばタイ料理とか、メキシコ料理とか、そういうものだったら困る。
私の作れるものはせいぜいが和食と洋食の有名どころだ。カレーとか、親子丼とか、グラタンとか――あまり色気も可愛げもない、実用本位のメニューばかりが揃っていた。
私が不安げにしたのに気づいたのだろう、彼は取り成すように言った。
「基本的に好き嫌いはないから、何でも食べるよ。けど……」
「はい」
そこで彼は思案を始め、ワイパーがフロントガラスを二往復した後に答える。
「そうだな、ハンバーグがいい」
「ハンバーグ、ですか?」
意外なメニュー名を聞いて、私はちょっと驚いた。
瑞希さんは光の滲むフロントガラスを見据えたまま、はにかむ。
「そう。おかしい?」
「いえ、そんなことないです。……可愛いなとは思いますけど」
瑞希さんみたいな年齢の男の人でも、ハンバーグを食べたいと思うことがあるんだろうか。子供みたいで面白い。別におかしなことではないけど、きれいで完璧な彼とは何だか釣り合わないような気もする。
「好きなんだ、ハンバーグ。でも外で食べるのはちょっと違う感じがするだろ? かと言って自分で作るのも難しいんだよな。いつもフライパンいっぱいに作っては、中が生焼けで、電子レンジで火を通す羽目になってる」
彼のおどけた口調がおかしくて、私はまた笑った。見知ったメニューを希望に出されてほっとしたのもあってか、急に楽しい気分になっていた。
どうやら彼は、彼自身の外見には釣り合わないものが好きらしい。ハンバーグとか、私とか。そう思うと、ハンバーグというチョイスにいとおしささえ感じる。
「ハンバーグなら私、作れます。大丈夫です」
私はそこで胸を張り、
「大丈夫ですってことは、それなりに自信があるって解釈していいのかな」
瑞希さんもいつになく上機嫌で応じる。
今夜、私たちはお互いに幸せで浮かれているようだった。
「ええと、失敗のないように作ります、というように解釈してください」
「君らしい言い方だな。ともあれ君の手料理、楽しみにしてるよ」
話が一段落すると、車内には雨音と、ワイパーの忙しなく動く音だけが満ちる。そんな静けさすらも穏やかに味わっていられる、不思議な空気が私たちの間にはあった。
こんな空気が、今はとてもいとおしい。
だからこそ私は、誰にも胸を張っていられるようになりたかった。
瑞希さんを好きだと言えるように。
この想いは誰にも、何にも揺るがされることはないと、言い切れるように。
彼の為なら、どんなことでもできそうな気がしていた。今まで避けて通っていたことにも、努力を惜しまずにいられた。そのお蔭で今日は私の方から彼を誘えた。
好きな人を自分から誘えることが、今はとても幸せだと思う。