リトルレッドライディングフード(3)
私の方からキスしたのは初めてのことだった。彼と、というだけではなくて、もちろん人生において初めてだ。これほどに幸せな恋をするなんて、自分でも想像ができなかった。だけど今、本当に幸せだった。
好きな人と唇を重ねることで、こんなにも満たされるなんて知らなかった。
しばらくしてから、私はゆっくりと唇を離した。
そろそろを目を開けてみたら、すぐ目の前に彼の顔が見える。呆気に取られた、隙だらけの表情がきれいな顔に浮かんでいた。さっきまで触れ合っていた唇が、ぽかんと微かに開いている。
その顔が、好きだと思う。
私は彼の顔が好きだった。もっと言うなら、くるくる変わる表情が好きだった。彼がきれいな人なのはよく知っている、だけどそこに浮かぶ表情は様々で、いたずらっ子みたいな笑顔も拗ねたような顔も、こうして驚かせた時のきょとんとした顔も全部がいい。全部、恋をしなければみられなかった顔だ。
見惚れる私をよそに、渋澤課長は静かに二度瞬きをした。
それから恐る恐るといった様子で口を開く。
「芹生さん……本当に?」
慎重に尋ねられたから、ちょっと笑ってしまった。
あれほど『信じて欲しい』と言っていた人が、私の言葉は疑ってかかるなんて。
でも、そんなものかもしれない。思いがけない言葉を貰えば、誰だってすんなりとは信じられない。ましてそれが夢のように幸せな言葉なら、尚のことだ。
ちょうど私が、夜の総務課で渋澤課長の告白を聞いた時のように――あの時と同じ思いを、彼は今、味わっているのかもしれなかった。
「信じてください、課長」
微笑んで告げると、気まずそうな彼は自らの額に手を当てる。
「あ……そうか、そうだよな。自分で信じてくれって言っておいて。ごめん、本当にごめん」
たどたどしい言葉が続いたのはその時だけだった。
「ありがとう」
すぐに彼は嬉しそうに笑んで、私を握り締めた手ごと引き寄せる。私の身体はたやすく彼の腕の中に落ち、ソファの上で強く抱き締められた。
そして私の耳に、柔らかい唇が触れる。
「僕も好きだ。愛してる、一海」
私の名前を呼ぶ声は、驚くほど自然で、優しかった。
名字ではなく、名前を呼んでもらったのは初めてだ。なぜか少し恥ずかしい。自分の名前は嫌いではないけど、彼が呼ぶと甘く、くすぐったく思えてしまう。
「ずっと、呼びたかった」
彼はそう言ってから、囁き声で続けた。
「君も呼んでくれるかな。僕の名前を」
それにはさすがに戸惑った。
渋澤課長のことは好きだけど――好きでも、目上の人だ。下の名前で呼ぶなんてこと、これまで考えもしなかった。
でも彼は呼んで欲しそうだ。その証拠に、ためらう私を急かすように耳元へ息を吹きかけてきた。
「ほら、一海。焦らすなよ」
そう言って彼が笑う度、私の耳を熱い吐息が舐めるように触れる。そうすると私の身体からは自然と力が抜けてくる。このまま溶けてしまいそうだ。
彼の胸にもたれる私に、彼は尚も急かしてくる。
「まさか、上司の名前を知らないわけじゃないよな?」
単なる上司なら、そうだったかもしれない。
でも彼は違う。私にとっては大分前から上司というだけの人ではなかった。特別な人、とても大切で大好きな人だ。
彼の腕の中で目を閉じる。
深呼吸をする。
すぐ傍にある体温を肌で感じ取り、その熱に衝き動かされるように口を開く。
「……瑞希さん」
呼べた。
熱に浮かされたような私の声が、彼の名前を口にした。
囁きほどの微かな声だったけど、ちゃんと彼には聞こえたらしい。
「一海」
今度は強く呼び返されたかと思うと、両手で顔を持ち上げられて、彼の名を呼んだばかりの唇が塞がれた。さっき私がした、唇をくっつけるだけのキスとは違って、強引に貪るようなキスだった。苦しい、と思った直後に私の身体は押し倒されて、それを受け止めたソファが軋む音を立てる。
そして私は、彼の身体の重みを受け止めていた。
不思議と、怖くはなかった。
酔いが回っているせいか、むしろ何もかもが気持ちよかった。覆い被さってきた彼の意外な重さ、仕事帰りのスーツ越しに感じられる体温、私の髪や腕や背中を撫でる手の感触、何度も何度も繰り返される荒々しいキス。その全部が水割りのアルコールよりも強く心を揺さぶる。
気がつけば私も彼の首に腕を回し、自らねだるように彼のキスに応じていた。そんな自分を、心の片隅では不思議に思う。私ってこんな人間だっただろうか。今までろくに恋もしてこなかったのに、いきなりこんなことができてしまうような女だっただろうか。
初めてのくせに、初めから知っていたみたいに身体が反応する。キスの間の息継ぎがいつの間にか上手くなり、彼がそうしてくれたように私も彼の髪や背中を撫でた。彼が荒い吐息まじりに私の名前を呼ぶ度、私も息を弾ませながら彼を呼んだ。
「一海」
「瑞希さん……」
きれいな人にふさわしいきれいな名前。これから、何度でも呼びたいと思った。
何度か繰り返されたキスの後、彼は私の耳元に囁いた。
「ますます、君を帰せなくなったな」
耳に熱い吐息が触れる。その熱さに意識が飛びそうになる。もしかしたら私は、もう溶けかかっているのかもしれない。
現にブラウスのボタンはいつの間にか外れていて、きれいな手がそっと私の鎖骨をなぞっている。きっと溶け始めているからに違いなかった。いっそ全て溶かされてしまって、何もかも彼と混ざり合えたらいいと思った。
「帰さないでください」
私が吐息で答えた時、テーブルに放置されたグラスの中で、氷が溶ける音が響いた。
全部溶けたと思った身体は、それでも夜の間中、しっかりと原形を保っていた。
多分、彼がずっと私を離さなかったからだ。抱き締めてもらっていたから、私は今でも彼の腕の中にいる。ソファの上で抱き合ったまま、お互いにしばらくぼんやりしていた。
汗ばんだ肌が触れるのさえ、今はとても心地いい。
「やっぱり、野獣なのは僕の方だったな」
私に腕枕をしながら、不意に彼が囁きかけてきた。
視線を上げると、いつものいたずらっ子みたいな顔が嬉しそうに私を見下ろしている。
「そう思わないか、一海」
「瑞希さんが……野獣?」
聞かれて考えてはみたけど、彼が『野獣』だとはどうしても思えない。汗で濡れた髪が張りつく顔も、幸せそうに潤んだ瞳も、乾き始めた唇も、それから私の前で隠さずに晒している肌も――全部、とてもきれいな人だ。
そしてもちろん、その内側にある心も。
「私はそんなふうには思いませんけど」
だからそう答えたら、彼はむしろ意外そうに目を見開いた。
「あれ。結構がっついてた気がするんだけどな」
その後で、まるで猫にするみたいに私の喉元をくすぐってくる。
「赤ずきんちゃん、狼さんに食べられちゃった気分はどう?」
「私がですか?」
くすぐったさとその物言いに、私はくすくす笑ってしまった。
狼だなんて、そんなふうにもちっとも思わなかった。私だって、騙されてぺろりと食べられてしまうような赤ずきんではなかった。私はちゃんと望んでここにいるんだし、そして何一つとして後悔していない。
それどころか、今夜を二人で過ごせることを幸福に思う。
あの時、彼が私を帰さずにいてくれたことも、本当によかったと思う。
「私、初めてなんです」
手を伸ばして、汗ばんだ彼の額を撫でてみた。そのまま湿った前髪をかき上げると、たったそれだけのことで彼は気持ちよさそうに目を細めてくれる。
そしてそれだけで、私の胸がきゅっと締めつけられるようだった。
「こんなに、誰かを好きになったことって」
「それは光栄だな」
彼は少し得意そうにしてから、その口元を緩ませる。
「本当によかった、僕だけが夢中になってるんじゃなくて」
「きっと今では、私の方が瑞希さんに夢中です」
「どうかな。僕は君にのめり込んでるって自覚があるけど」
その言葉と共に、彼の手が私の身体を撫でた。
ぞくぞくするような感覚が這い上がってくるのがわかる。思わず息をつくと、彼はそんな私を見つめてくる。
「覚悟しといて。僕は真面目に恋をする方だから、すごく重い男だ」
「重いってどんなふうにですか?」
想像がつかなくて聞き返すと、彼は答えずに赤い舌で自らの唇を舐めた。
それから例の、いたずらっ子みたいな顔で言う。
「ね、一海。この部屋の隣が寝室で、そっちにはベッドがある」
口調もどこか企んでいるようでいて、有無を言わさぬ強さもあった。
「ずっとソファにいるのも何だし、身体も冷えてきただろ?」
汗が引いてきたお互いの身体は、確かに表面が冷たくなり始めている。
だけど彼の瞳には絶えない強い熱が潜んでいて、私を抱き寄せる手のひらは温かく、吹きかけられる吐息は火が点せそうなほど熱い。
「隣の部屋、行こうか」
私の額にキスしながら、瑞希さんが囁く。
それで視線を上げると、彼はねだるように微笑んだ。
「……もう一回」
もしかしたら彼は、彼自身の言う通り、狼だったのかもしれない。
でもそういうところにも惹きつけられてる私がいて――この夜、私はすっかり彼に夢中だった。