リトルレッドライディングフード(2)
互いに黙り込んだまま、三十分ほどドライブが続いた。そして辿り着いたのは、住宅街の一角に建つマンションの四階、東向きの部屋だった。
初めて訪れる渋澤課長の部屋だ。
鍵を開けた彼は、私を室内に招き入れてくれた。
「そこに座って」
照明が点されたばかりで眩しいリビングに、白い布張りのソファーがある。私は勧められるままに腰を下ろし、上着を脱いだ彼がベランダのカーテンを閉める姿をぼんやり眺めた。
アイボリーの壁紙が優しい、落ち着いた印象の室内だった。テーブルの上こそ書類や筆記用具で散らかっていたものの、本棚やパソコンデスクの周りはきちんと整頓されていたし、一見してきれいな部屋だった。私の部屋よりきれいかもしれない。
カーテンを閉め終えた課長は、テーブルの上のものをまとめてデスクへ退けてから私を見た。
「何か飲む?」
とても何かいただく気にはなれず、私はとっさにかぶりを振る。
「いえ、お構いなく」
でもその答えは少なからず彼を落胆させたようだ。即座に切り返された。
「何か付き合ってくれないかな。ウイスキーは飲める?」
「ええ、平気です」
アルコールが効を奏するかどうかはわからないけど、いつもなら引っ込めたくなるような思いを口にするのには必要となりそうだった。
もしかすると彼も、同じ思いでいるのかもしれない。
「水割りでいい?」
「はい」
私の答えを聞くと、課長はその足でキッチンへと向かった。明かりが点けられ、流し台の前に立つ後ろ姿が見える。リビングまで聞こえてくる水音に、これから始まる時間への不安が募り始めた。
カーテンが閉められた部屋は隔離された小さな世界のようだった。
ここにいれば傷つくことはないのかもしれない。世界にいるのが私と彼だけなら、何の不安も、憂いも、ないのかもしれない。
だけどそうではなく、世界には本当にたくさんの人たちがいて、その人たちの目に彼は『美女』で私は『野獣』であるようにしか映らない。私たちの関係がどう思われるか、今更想像を巡らせる必要もなかった。
終わってしまうのだろうか。
今日、ここで、全てのことが。
それとも終わらせずに、これまで通りの密やかな関係を続けていくことになるのだろうか。
私は、終わらせたくない。心の奥底にある本音はそれだった。
だけどそれ自体が間違いであれば――私は正しい選択をしなくてはならない。
「お待たせ」
課長の声がして、私ははっと顔を上げる。
目の前のテーブルに、氷を浮かべたグラスが二つ置かれた。それから彼が私の隣に座る。
「ごめん、つまみも何もないけど」
そう言いながらグラスに手を伸ばした彼は、そのまま一口、喉を鳴らして飲んだ。そして深い溜息と共に呟く。
「……こんな形で、君をこの部屋に連れてくることになるとは思わなかった」
私は何も答えられなかった。黙ってグラスを取り、会釈をしてから口をつける。空腹にウイスキーは刺激が強く、喉から胃へ熱が流れ落ちていくみたいだった。
こんな形でというのは、私も同じ思いだ。もっと楽しい訪問ができればよかった。こんなに沈鬱な空気を彼の部屋に持ち込むことになるなんて、申し訳なくも、切なくも思う。
「先に確認しておきたい」
グラスを手の中に収めた課長が、そっと切り出した。
「君は、自ら望んでそういう集まりへ出かけたわけじゃないんだな?」
私はグラスを置いて答える。
「はい。お話しした通り、人数が足りないと頼まれて出席しました」
「そうか」
ほんの少しだけながら、彼がほっとしたのが声のトーンでわかった。
「なら、その点については安心した。でも今後は、そういうところへは行って欲しくないな」
「……わかりました」
仕方なく、私は頷く。
もちろん、渋澤課長の要望が不快だというわけじゃない。
私だって、頭数を揃える為だけに出かける飲み会は嫌いだ。次からはもっときれいな子を代打に呼んで貰えばいい。その方が友人たちの為にも、友人たちが誘う男の子たちの為にもいいはずだった。
ただ、断るにしても理由が要る。
「仕事があるとか、体調が悪いとか……そう言って断るなら構いませんか?」
続けて聞き返すと、彼は落胆したように目を伏せた。
「僕のことは、どうしても言えないのか」
課長は、言って欲しいみたいだ。皆に言ったらどうなるか、本当にわかってないのだろうか。
「ごめんなさい、言えません」
私が答えると、彼はまた水割りを一口飲む。グラスの中で氷が揺れる音が妙に響いた。
「けど、いつまでも秘密というわけにもいかない。いつかは皆にも知れてしまうことだ。君にとってはそれも駄目なのか?」
確かに、巧妙に立ち回っていてもいつかは知られてしまうかもしれない。
そうなったら私たちの関係も続けてはいけないだろう。奇異の目で見られることに私は慣れていても、課長にそういう目が向けられることには耐えられない。彼はもっと、違う意味で注目を集めるべき人だから。
「駄目、です」
「どうして?」
「私たちは釣り合いませんから、人にどう思われるか……」
そう答えると、課長は形のいい眉を顰めた。
「少なくとも僕は、釣り合ってないなんて思わない。僕には、君しかいないと思っている」
その言葉が私の胸裏で揺れる。
信じたい。だけど信じてしまえば私は、客観的ではいられなくなる。
「皆は思うでしょう。私たちじゃ到底釣り合うはずがないって」
「皆って?」
「……皆、です。社の人たちでも、私の友人でも、あるいは課長の周りの方々でも」
この世界を占める圧倒的大多数の第三者が、そう思うに違いない。
美女と野獣の組み合わせに納得する人なんていない。誰もが目を疑うだろうし、誰もが信じないだろうし、信じさせたとしても皆、否定をするだろう。
そんなこと、聞くまでもないはずなのに。
「聞いてみたの?」
渋澤課長はそう尋ねてきて、私は一瞬だけ答えに窮した。
「いえ、そういうわけじゃ……でも、聞かなくてもわかります」
「君は読心術でも使えるのか」
「課長……」
私はいよいよ言葉に詰まり、俯くしかなくなる。
彼はグラスを傾けた後、また一つ息をついた。
「こっちはそうでもなくちゃ腑に落ちない。君の言う人たち一人一人に尋ねて回って、君の言った通りの答えになるまでは納得なんてできないな」
自分のことは信じろと言うくせに、私の言葉は信じてくれない。それには強い不満を感じた。
私は自棄気味にグラスを取り、二口ほど飲んだ。たちまち吐息まで熱くなる。
「それとも、本当に確かめてみようか」
更に無茶なことを言い出す彼に、思わず私は面を上げた。
「何をです?」
「君の言う『皆』に尋ね回ってみよう。果たして僕らが本当に、釣り合わないように見えるのか。ちゃんと話して、それから聞いてみよう。そうすればお互いに納得できるだろ?」
ソファーに隣り合って座る彼は、少しだけ笑んだいたずらっ子の表情でいる。どこまで本気か――いや、本気のはずがない。
私はむかむかしながら応じた。
「そんなこと、不可能です」
「やってみないことにはわからない。僕も君の意見が本当に正しいのか、知ってみたいしな」
「聞かなくたってわかりきってます」
絶対にそう。聞くだけ時間の無駄だ。
誰もが私に同意し、美女と野獣の組み合わせを否定するだろうから。尋ね回る必要なんてない。
そんなことをして、いちいち傷つく羽目になるのは嫌だった。
でも、課長は私の反論を封じようとする。
「無駄だって言い切れる根拠は?」
どことなく挑発的にも聞こえる物言いで続けた。
「僕の前に持ってきて、君の言うことが本当に正しいんだって納得させられるだけの動かぬ証拠はあるのか?」
追い詰めるような彼の論調に、私も認めてしまうしかない。
「根拠は……ありません」
「そうだろうな」
「だけど当たり前のことですから。私が醜いのだって、けだものみたいに呼ばれているのだって、皆が知ってることです。今更聞いて回る必要もなく、常識になっているんです」
私の中に長いこと根づくその常識ですら、彼には通用しないらしい。
「僕は知らなかったけどな、君が社内でどう呼ばれているか。これでも一応、君の上司なんだけど」
薄く笑んだ顔にことごとく打ち砕かれて、私は遂に口を噤んだ。
するとその隙を突くように、彼が諭すように語を継ぐ。
「君の言う『皆』なんて、実はそれほど大勢ではないんじゃないかな」
「……そんなはずないです」
「じゃあ、確かめてみてもいい? 手始めに社の連中を片っ端から捕まえて聞いてみようか」
どうしてそこまで、証明しようとするんだろう。
私はもう一口水割りを飲んで、それから言い返すべき内容を考えた。頭が回らなくなってきたのは酔いのせいではないはずだ。まだそんなに飲んでいない。
でも、論戦では勝てない気がしている。どうにかして私を言いくるめようとしている彼を、私はどうしてか、どうしても納得させられない。
正しいことを言っているのは私の方なのに。
「それで、もし、皆が私の言う通りの答えを出したらどうしますか。私たちが釣り合わないと皆が口を揃えて言ったら、課長は納得してくださるんですか」
その時は私と、別れることを選ぶのだろうか。
そこまでは言及できず、私はウイスキーと共にその言葉を飲み込んだ。
「その時は、そんな見る目のない連中の言うことなんて信じないようにするさ」
私の思いとは裏腹に、課長はごく軽い口調で答えた。
「それからもっと他の人たちにも聞いてみることにする。僕らが釣り合いの取れたいいカップルだってこと、認めてくれる人に会えるまでいくらでも聞いて回るよ。ついでに仲人も探せて一石二鳥だ」
そんな言い方をされると、むきにならずにはいられなかった。
つい、こう尋ね返していた。
「……もし、世界中の誰もが、私の言う通りだって言ったら?」
肯定されることなんて考えもつかなかった。
私の容貌を肯定してくれたのは、これまで課長くらいのものだった。きっとこれからだってそうだろう。そんな世界で私たちの関係が認められる可能性なんて、きっとなきに等しい。
でも、彼は言う。
「そうなったらその時考えるよ」
いたずらっ子の表情で言う。
「世界中の人間に尋ね回るには恐ろしく時間もかかるだろうからな。君も一緒に連れて行って、その間は君と一緒にいることを許されるなら、僕はそれでもいい」
なんてふざけた答えだろう。
私はすっかり腹が立って、同時に悔しくて仕方がなかった。
「課長、真面目に答えてください!」
「僕はいたって真面目だよ、芹生さん」
さらりと言って、課長は逆に、鋭い眼差しを向けてきた。
「君の方こそ、そろそろ真剣に考えてくれ」
「私は課長に比べたらずっと真剣です」
「そうかな、さっきからちっとも僕の疑問に答えてくれてない。君は周りの評価を行動の指針にしているのに、それをちゃんと確かめようとしてないじゃないか」
嫌な指摘だった。
自分への評価を改めて確かめたい人なんて、よほど自分に自信がある人だけだろう。私は嫌だ。今更聞きたくもない。
だけど渋澤課長のような人は苦手じゃないのかもしれない。
誰にでも認められる、きれいで有能な人だから。
「確かめたくないです」
率直に答えると、課長は静かにグラスを置いた。
「でも僕だって君を評価した。僕の目で君を評価したからこそ、君を好きになったし、一緒にいたいと思った」
それは、でも、ごくまれに起こり得るかもしれないような特殊なケースだ。
多分これを奇跡と呼ぶのだろう。そのくらい珍しい、あり得ないような出来事。
「君はきれいで、とても可愛らしい人だ。おまけに勤務態度も真面目で、残業も文句一つ言わずに引き受けてくれて、誰より真剣に仕事に取り組んでくれている。ちょっと鈍いところと臆病なところを覗けば、非の打ちどころのない女の子だと思ってるよ」
アルコールに浮かされ始めた頭に、彼のその声がこだまする。
真実か、それともまやかしか、区別のつかない優しい言葉だ。
「僕のように思わない人もそりゃいるだろう。というより皆が僕のように思ったら、君を巡るライバルが増えることになるから歓迎はできない。それはともかくとして、君を知る人の中には、君について辛い評価を下す人だっているのかもしれない」
真っ直ぐに見つめられて、私は瞬きを繰り返す。
彼は笑んでいた。いつの間にか、とても優しく。
「誰しもが、他の人と出会ったら相手のことを評価するものだ。大なり小なり何らかの評価を下すものだ。逆に言えば出会わなければ相手を評価することもない。さっきの話に戻るなら、僕らのことを世界中に評価して貰うとすれば、その世界中の人たち皆と出会わなくちゃならない。それは時間もかかるし、とても難しいことだ。そうじゃないか?」
彼の手が伸びて、私の手からそっと、グラスを攫っていった。
氷が解けかかったグラスはテーブルの上に置かれる。
私の手は、彼の手の中にある。
「今、僕らのことを評価してくれそうな人間は、世界を単位にすればほんの一握り程度しかいない」
彼の言葉は続く。
「そんなごくわずかな連中にたとえ否定されたとしたって、世界から否定されたように思うことなんてない。まして、評価される前から及び腰で、何も確かめないうちに決めつけて、評価されるせっかくの機会を放り出すこともない」
すべすべしていてきれいで、だけど男の人らしい彼の手。ひんやりと冷たいその手に今、私はすっかり捕らわれている。
「でも……」
まだ反論したくなる私は、やはり臆病だろうか。
「でも、もし本当に、私たちの周囲にいる人たちが、私たちの関係を否定したらどうしますか? 美女と野獣じゃおかしいって、面と向かって言われたら」
「僕は構わない。僕自身が否定するつもりはないから、あとは互いの気持ちを信じるだけだ」
あっさりと断言した後、彼は囁くように言い添える。
「君が否定しないでいてくれたら、だけどな。君のことを、僕に信じさせてくれたら」
それで私は、ようやく気づいた。
誰よりも一番この関係を否定したがっていたのは、他でもない私自身だ。
評価されるのが嫌だから。公になって、それが事実と思われた時に、不釣合いだと名指しされるのが怖いから。
私は臆病になっていた。過去のささやかな傷痕を引きずったまま、いつまでも現在と向き合おうとしなかった。こんなにも強く、一心に想ってくれている人を信じようとも、想い返そうともせず、ただ自分が傷つくことだけを恐れて否定しようとしていた。中傷されることに慣れたつもりで、その実、逃げることに慣れてしまっただけだ。
いつだったか、強く思った――彼を傷つけず、幸せにしたいという気持ちはどこへ消えてしまったのだろう。いつの間にか忘れて、自分のことにばかり囚われるようになっていた。
改めて、今こそ思う。
この人を幸せにしよう。
私を想ってくれて、私がふとした時に忘れてしまうとても大切なことを思い出させてくれる、彼を幸せにしよう。そして私の想いが確かなものであることを、彼にも信じて貰えるようになろう。
彼に恋をしている、この気持ちは本当だ。そうでなければここへは来なかった。終わってしまうのが嫌だと思うこともなかった。彼の言葉を信じたいと思うことも、信じて欲しいと思うこともなかった。
彼が私を想ってくれていることが奇跡だとしたら、その奇跡は貴いものだ。否定して打ち捨てていいものじゃない。その貴さを忘れないようにしたい。その貴さに報いられるようにしたい。それこそが正しい選択だと、今は思う。
「……課長」
私は静かに彼を呼ぶ。吐息のような、ごく微かな声になった。
「ごめんなさい。私、酷いことを言いました」
「まあ、多少はな」
彼は私の顔を覗き込んで、少し笑った。
「でもわかってもらえたならいい。喧嘩をするほど仲がいいとも言うしな」
そういえば、こんなふうに口論をしたのは初めてのことだった。おかしそうにする彼を見て、にわかに気恥ずかしさが込み上げる。
「本当に、ごめんなさい……」
「僕も、ごめん。やきもちは焼くわ、むきになるわで大人気なかった。年上らしくないな」
そう言って笑う顔が可愛いと思った。
可愛くて、見惚れてしまうほどきれいだった。
私も、きれいになりたい。やっぱりそう思ってしまう。
顔立ち、見た目はどうしようもないかもしれないけど、せめて、何か一つでもきれいでありたい。彼のように。
変わらなくてはいけないのは外見じゃなかった。それなら今からでも遅くない。ちっとも遅くない。急げばまだ間に合うはず。
きれいな心で、好きな人を想えるようになりたい。
「課長、聞いてください」
私はもう一度彼を呼び、できる限り微笑んでみた。
捕らわれている手の中で重なる体温は、アルコールのせいかいつもより熱い。このまま溶けてしまいそうなくらいに、熱い。
だから、溶けてしまう前に伝えたかった。
「……好きです」
掻き消えそうな、吐息のような声になった。
でもちゃんと聞こえたみたいだ。彼の見張られた目が、ゆっくりと瞬きをする。
「私……あなたが、とても好きです」
こんなありふれた言葉でしか伝えられないのがもどかしい。本当に、好きなのに。彼の体温の中に、溶けてしまいたいくらい好きなのに。
たくさんのことを気づかせてくれてありがとう。
忘れてしまっていたことを思い出させてくれてありがとう。
私を好きになってくれて、ありがとう。
全ての感謝を込め、私は彼にそっと近づいた。
ぎりぎりまで顔を寄せてから目を伏せて、彼の唇にそっと口づけてみる。
そうすることが何より強い、想いの伝え方だと思ったから。
「……あ」
触れた柔らかい唇の向こう、彼が息を呑むのがわかった。