リトルマーメイド
高望みはしないつもりでいた。この容貌と、笑うことさえ上手くない顔では何も手に入らないとわかっていた。ただささやかな幸せと、せめて一人でいることを、存在していることそのものを否定されなければそれでいい。ずっとそう思っていた。
だけど無欲さを装いながらも欲は捨て切れない。時々昔が懐かしくなる。私が一番満たされていた、幸福だった頃の記憶が。
学生時代、バレーに打ち込んでいた時が、二十四年間の人生の中で一番満ち足りていた。あの頃はひたすら駆け回って汗を流していれば、嫌なことも辛いことも全て忘れていられた。ほんの一時だけの忘却だったけど、それでも幸せだった。自分の居場所が確かにあった。
白いボールを追い駆けた青春時代は今でも眩しく、懐かしい記憶だ。既に社会へ出た今、あの頃と同じ情熱を味わうことも、何かに無心になれることに幸せを感じることももうないと思っていた。
なのに、今の私は戸惑うほど幸せだった。
あの頃と違うのは、私が情熱を傾けているのではなく――人から焼け焦げるような情熱を、惜しみなく注がれているという事実だ。
渋澤課長は天から二物を賜ったような人でありながら、その才覚と気配りとで私まで幸せにしようとする。無欲であるべきと思っていた私にありえないほど明るい希望をくれる。そして彼の隣で、私は初めての幸せと、抑えきれない動悸の激しさを覚えている。
でも幸せな気持ちを貰ったところで、私から返せるものは感謝と、まだ曖昧な好意しかない。
あの頃白球を追い駆けていたように、彼のことを追い駆けられたらいいのかもしれない。バレーに傾けていた情熱を、今度は人に向けることができたら、彼のことも幸せにできるかもしれない――。
「――考え事?」
課長の声がして、私は意識を引き戻される。
「夜景に見惚れてたって訳でもないみたいだけど」
その口調が抗議の声のようにも感じられて、私は思わず居住まいを正した。
「いえ……その、ぼうっとしてました」
エンジンを切った車内は、お互いの呼吸が聞こえるほど静かだった。室内灯が消えてからどれほど経ったか、沈黙が破られたのは久方ぶりのようにも思える。
フロントガラスの向こうには夜空と、一面の夜景が広がっていた。星よりも強い光がちかちかと、方々でひっきりなしに瞬いている。ビル街の明かりもネオンサインもここからは眩しい光の粒にしか見えない。光の破線が連なる景色は夜の空まで染め上げて、煌々としていた。こうして見下ろす街並みは、住み慣れた場所にもかかわらず新鮮で、はっとするほど美しい。
なのに私は満足に見入りもせず、ひたすら物思いに耽っていた。
飲み会でにほろ酔いを引き摺ったまま、とりとめのないことを考えるあまり、隣にいる人を放ったらかしにしていた。彼は私をここまで連れてきてくれた人なのに。
人気のない高台に停められた、彼の車の中に二人でいる。
ちらと運転席に視線を向ければ、ドアに頬杖をついた課長もこちらを見ていた。薄暗い車内でも、どことなく物憂げな表情が窺える。
「いつも、君が考え事をしている時と同じ顔だった」
課長は鋭く告げて、それから少しだけ笑う。
「君が考え事をしてる時はわかる。そういう顔をしているから」
見抜かれていたことにひやりとする。どうしてわかってしまったんだろう。
「すみません」
正直に頭を下げる。
すぐに彼はゆっくりかぶりを振った。
「謝って欲しいわけじゃないんだ。ただ、何を考えてるのかが知りたい」
「何を……って、あの、私」
「僕のことを考えてた? そうじゃないよな?」
何もかも見通したように彼が言うから、私は言葉に詰まってしまう。
いや、彼のことを考えていた。だけど彼の望むようなことを考えていたわけじゃない。彼を幸せに出来るような思索をしていたわけじゃない。私の揺れる心の内を、彼は不思議なくらい察している。
「すみません、課長」
もう一度謝ると、また彼が静かに笑った。
「謝らなくていい」
その後で身を起こし、両手をハンドルに乗せた。そのまま寄り掛かるようにしてフロントガラスの向こうへ視線を馳せる。横顔は笑っているのに、どこか寂しげにも見えた。
寂しがらせているのは私だ。わかっているのに、何も言えない。
男の人とのデートなんて、生まれて初めてのことだった。
浮かれる気持ちを抑えつけるように戸惑いが募り出している。どんなことを話して、どんな態度でいるのがいいのか、私にはちっともわからない。そうして戸惑ううちに考え事を始めてしまう。酔いの残る頭で、とりとめなく思索に耽る。
まるで逃げているみたいだと、ふと思う。向き合うべき人はすぐ傍にいるのに。私から言わなくてはならないこともあるはずなのに。
気まずい沈黙はそれほど長く続かなかった。
「芹生さん、君はさ」
ハンドルに凭れた課長が、真っ直ぐ前を見たままで口を開く。
「考え事をしている時、いつも空っぽになったような顔をしてる」
「空っぽ……? 私がですか?」
「そう。心ここにあらずで、よそへ飛んで行ってしまったような顔。いつもそうだった」
それは一体どんな顔だったのだろう。あまりいい想像ができずに私は困惑した。
こちらを見ない課長が穏やかな声音で続ける。
「上司として少しの間、君のことを見てきたけど、勤務態度はとても真面目だった。残業だって不平も唱えずやってくれるし、仕事ぶりも申し分ない。礼儀もちゃんと弁えているいい子だと思っていた」
仕事の話をする時、彼は上司の口調に戻る。
ほんのわずかな違いにすっかり区別がつくようになった。
「でも、君の物思いに耽る表情だけが気になっていた。一度見かけた時、どうしてあんなに空ろな顔をしているんだろうと思った」
私の知らない私の顔を、課長は知っているようだ。鏡にも映らないような表情。私の心がどこかよそにある時の顔つきを。
無意識のうちに考え事をしてしまう時がある。特に悩みや懸念がある時ばかりではなく、ただ何となくぼんやりと考えを巡らせてしまう。
それはある種の防衛本能にも似ていた。考え事をしている時は、誰も私に構わない。ひっそりと一人、隅の方にいる時には最適なやり方だった。
なのに彼は、そんな私を目に留めた。
「僕と話している時、あるいは同期の子たちと一緒にいる時も、あんな顔はしなかった。いつでも控えめにしているようだったけど、空ろだなんてことはなかった。ただ一人でいる時だけ、君は空ろだった。どうしてなのかずっと気になっていたんだ」
課長はそう言って、深く息をついた。
薄暗い中で見ても彼の横顔はきれいで、胸が苦しくなるほどだった。こんなに何もかもが整い備わっている人にも、思い通りにならないことがあるなんて――そしてそれが私のせいだなんて、もどかしい。
彼はいつから私のことを見ていたんだろう。
猛獣注意だなんて呼ばれる私を、どうして気にするつもりになったんだろう。
「君が前に言っていた、『呪いをかけられている』という言葉も、僕にはとても腑に落ちた。本当に呪いを掛けられているみたいなんだ、考え事をしている時、空っぽになってしまった君は」
溜息の度、フロントガラスの向こうで街の光が震えるように瞬いた。
彼の言葉も苦しげに続いた。
「それで、この間のバレーボール大会の時に……君が、直向きな瞳でボールを追い駆けているのを見たんだ。姿勢がきれいで、サーブを打つ姿が決まっていた。あの時の君は誰よりも真剣で、誰よりもきれいだった」
「そんな、まさか」
相応しくない誉め言葉を否定しようとすると、すぐに課長が掌を向けて押し留めた。
「嘘じゃない。本当だ」
そして彼は、尚も語を継いだ。
「あの時、気づいた。君は何かに打ち込んでいる時だけ、あんな風に真っ直ぐな目をする。バレーの時もそうだし、仕事の時もそうだった。君は大切なものにだけは真剣に打ち込む。全身全霊を傾けるだけの情熱が、君にはあるんだ。それを他のものには向けないだけで」
情熱。確かにそれはある。
かつてバレーに熱中していた頃の気持ち、それから今、この仕事にしがみついていく為の必死な思いも情熱と言っていいのかもしれない。
だけどそれ以外に情熱を傾け、打ち込めるようなものが私には何もない。今はバレーさえ止めてしまったから、仕事しか残されていない。
「あの時の瞳を、僕の方へ向けて貰えたらと思った」
渋澤課長が何に心を傾けているか、誰に情熱を注いでいるか、私は十分すぎるほどよく知っている。どうすればいいのかわかっているのに、上手く応えられずにいる自分が悔しい。
「いや、振り向かせたいと思った」
そう言ってから課長は、また小さく笑みを零した。
「でもそれは、やっぱり簡単なことじゃなかったな。仕事の時は真剣でも、一人でいる時の君は空っぽで、声をかけることさえ難しかった。だから残業で、二人きりになった時を狙った」
ほんの少し前の夜の出来事は、もちろんまだ覚えている。
その時はただ驚き、困惑するばかりで、課長が何を思っているかもわからなかった。
今はわかる。少しずつ、彼のこともわかり始めている。彼は才覚にも容貌にも恵まれ、尊敬できるいい上司だけど、今はもうそれだけじゃない。
「芹生さん」
私の名を呼んだ課長が、ゆっくりした動作で身を起こした。
フロントガラス越しの夜景から目を外し、こちらへと向き直る。運転席と助手席の間で視線が真っ直ぐに重なり、私は瞬きをした。
目を逸らせなかった。今は彼を見つめていなくては。真っ直ぐに見つめていなくてはいけないと、思った。
「君にこうして、見つめられていたい」
課長の手が私の頬に触れる。すべすべした滑らかな手がそっと撫でてくる。ひんやり冷たい指先は、前のようにはためらわない。
「君の心をどこかよそへ飛ばしてしまうくらいなら、僕に向けていて欲しい。君の中にある熱を、僕にも傾けていて欲しい」
頬を撫でられると不思議な気持ちになる。穏やかなのに心の奥がざわざわして、もどかしい。すぐ喉元まで出かかっている言葉が告げられない、不思議な衝動だった。
不意に、車内の空気が大きく揺らいだ。
課長が私の頬から手を離し、代わりに勢いよく私の身体を抱きすくめた。
彼の肩に額を預けた私は、不思議な気持ちに衝き動かされるように目を閉じる。強い腕の力を感じ、何かがゆっくりと満ちていくのがわかる。満たされていく。
「……焦らないつもりでいたんだけどな」
微かに笑う声が傍で聞こえる。
「どうしても、おとなしく待ってるなんて無理だった。君をどうにかして振り向かせたかった。それは今でもそうだけど――君の心を、自分のものにしたくて堪らない」
彼の腕は温かい。彼の言葉は、熱っぽい。
私は目を閉じたままで、じっとその声に聴き入っていた。
「だから君に断られた時は、どうしようかと思った。せっかく告げられたのに、全部泡みたいに消えてしまうんじゃないかって思った。君への言葉も、この気持ちも全て」
胸の奥が鈍く痛む。
彼の想いを、私はどうしても拒絶しなくてはいけないと思っていた。彼に私は相応しくなかった。美女と野獣では並んだところで、到底釣り合うはずもないと思っていた。
だけどそんな思いこそが、何よりも深く彼を傷つけていたのかもしれない。
釣り合わないのは本当。並んだらまるで美女と野獣のように見えるのも、本当。
だけど、それでも彼は私を。
「消えてしまわなくてよかった」
吐息のような呟きにはっとする。
その時のことを思い出せば、私は口を開かずにはいられなかった。
「すみません、課長。あれは……私、酷いことを」
「わかってる。いいよ、謝らなくても」
制するように彼が、腕に力を込めてくる。
だから私も唇を結んだ。顔は上げずに、ただ彼に縋りついていた。
募るもどかしさの先に、伝えたい言葉があるはずなのに、それはどうしても出てこない。
言うべき心は声にならず、上手く探し当てることもできない。
消えてしまわなくてよかった。あなたの想いと、私の存在そのものが、あなたの心の中にあってよかった。
そう思っているのに。
私の焦りを読み取ったのだろうか。
「ゆっくりでいいから」
冷たい手が、再び私の頬に触れた。熱を持ったような頬に、その指先は心地いい。
私は顔を上げて、覗き込んでくる課長の表情を見た。こうして抱き合う距離は驚くほど近かったけど、絶対に目を逸らしたくはなかった。
「僕の方を見ていてくれる時間が増えていけばいい。君の目に見つめていて貰いたいんだ。少しずつでもいいから、これから先はずっと、いつまでも」
見上げた表情はきれいだった。車内は明かりがついていないのに、彼の面差しははっきりとわかる。お互いの視線が結ばれ、時間を掛けて深く、密に絡まり合っていくのさえ、克明にわかる。
「今はこうして、逃げずにいてくれるだけでいい」
囁く声に、私は顎を引いた。
逃げない。もう絶対に、彼と彼の想いからは逃げない。
醜いままでいいから、彼のそのままの想いを全て受け止め、その想いに報いるような自分でありたい。伝えたい心をいつか言葉にして、彼を幸せにできるような自分になりたい。もうどこかへ逃げ出したり、よそへ飛ばしてしまったりはしない。彼をずっと見つめていたい。
次に私が夢中になるのは、彼だ。
情熱を傾けるべき対象を、ようやく見つけることが出来た。
言葉にならなかった心を、彼は掬い上げてくれたようだ。その時静かに微笑んだ。
「ありがとう」
それから優しく、唇を塞いできた。
前に感じた唇の温度は、何も変わっていないように思えた。以前よりも幾分かは落ち着いて受け止める。でも少しだけ、震えてしまったかもしれない。
ふと、またしても車内の空気が――いや、車体ごと、大きく揺れた。
反射的に目を開ける。助手席のシートに身体を倒されて、視界はほとんど彼で遮られている。辛うじて彼の肩越しに、フロントガラスの隅が見えていた。
彼は私に口づけたまま、素早く助手席側に移ってきた。今はシートに膝をつき、ほとんど覆い被さるようにしている。
唇が離れた瞬間、私は思わず言ってしまった。
「び、びっくりさせないでください」
「何が?」
至近距離で目を丸くする渋澤課長。平然とした様子に、私の戸惑いの方がおかしいのかという気にさせられる。
「いえ、あの、ですから……こういうことは急にされると、戸惑います」
たどたどしく伝えた言葉は、
「こういうことって、具体的には?」
即座に切り返されて、答えに窮する。
「そ、そんなの、おいそれと口にできません」
「はっきり言って貰わなくちゃわからないんだけどな」
「……どうして課長がこちらに、助手席側にいるんですか」
明言は避けて私は言い、課長は私の顔を覗き込んだまま、いたずらっ子の笑みで応じた。
「だってこっちの方がやり易いからさ、いろいろと」
どうしてこの人は、こんなに平然としているんだろう。こんなに至近距離でも嬉しそうに笑っていられるんだろう。私はどぎまぎして戸惑うばかりで、どうしていいのかもわからないくらいなのに。
大体、外に人気がないからいいものの、誰かが通り掛かったら誤解されてしまいそうな体勢だ。こんな狭いところで重なり合っている必要も感じない。
それより何より、せっかくの逃げない決意が早くも萎み出している。
「あ、あの、私、逃げたりしませんから……」
退いてください、という言葉は数秒間、唇で遮られた。
そしてその後、額の触れる距離から課長が言ってきた。
「もう少しくらいは慣れてもらいいたいんだよな」
「慣れるって、課長……あ」
抗議の声を、今度は別の感触が遮る。
彼の手が私の手を掴んだかと思うと、指先に口づけてきた。持ち上げた片手の指一本一本に、丁寧に唇で触れてから、うっとりした表情で手の甲に、それから手首にも唇を這わせていく。くすぐったさに背筋が震え、彼を載せたまま身を捩ると、渋澤課長はその唇を楽しげに歪めた。
「こういうの、好きかな」
「えっ、わ、わかりません」
これは他愛ないじゃれ合いという域を超えた行為に思える。
何だか――すごく、恥ずかしい。
「課長、これ以上は……」
彼の手が私の髪を撫で、唇が首筋に下りた時、私は思わず制止の声を上げた。
すると首元で微かな笑い声がした。
「心配しなくても、時間になったらちゃんと帰してあげるから。今日だけ、特別だけど」
その声と一緒に、熱い吐息がうなじをなぞる。
「も、もう、くすぐったいですから!」
私は堪らず彼の肩に腕を回し、その動きを制するようにぎゅっと抱きついた。
でもそうしてからふと、しがみつく身体の温かさに胸がときめくのを覚えた。
デート終了の刻限まで、あとどのくらいあるのだろう。
胸の動悸は忙しなく、だけど彼から離れがたい思いが募り始めた。
互いの想いは、もう泡のように消えてしまうほど儚いものではない。私たちは今、身をもって実感している。そのことを本当に、幸せだと思っていた。