シンデレラ
最後に恋をしたのは高校時代のことだった。当時クラスメイトだった男子で、とても温かい人だった。私に対してさえ分け隔てなく接する彼の優しさに、いつしか身の程知らずな恋をしていた。
恋が終わってしまった瞬間のことは、今でも忘れられない。
私の想いは友人を通してクラス中に知れ渡ってしまい、いい笑い種になった。からかいの言葉と笑い声の中、彼は私の、まだ伝えるつもりもなかった想いを強く拒絶した。
『芹生は狼みたいな顔してて、まるで取って食われそうだから嫌いだ。絶対付き合いたくない』
だから私も、そんなのは冗談だと笑い飛ばすように努めた。
おかしな噂が霧消してしまうまで、私は笑って嘘をつき続けていた。
ずっと、恋をしてはいけないのだと思っていた。『猛獣注意』とあだ名される私のような女には、誰かに想いを寄せる権利はないのだろうと。
相手の迷惑を考えるなら、どんな想いも胸裏に潜めておくのがいい。何もかもやり過ごしながら隅の方でひっそり息をしているのが似合っている。だからあの時以来、誰にも恋はしていない。
だけど今、私の心を揺り動かそうとする人がいる。
潜めておくべき想いを、陽の当たるところへと持ち出そうとする人が、隣にいる。
お昼時の賑やかな社員食堂で、その人は周囲の視線を一身に集めていた。
確かに人目を引く人だった。『総務課の美女』と呼ばれるほどきれいな顔立ちは、総務課ばかりか違う課の女の子たちからも憧れの的だ。
でもその人が今、隣の席にいる。六人掛けのテーブルで、わざわざ私の隣を選んで座っている。
美女と野獣の組み合わせは周囲から見ても異質なのか、注目を集めていながらも、他にこのテーブルへ着こうとする人は現れなかった。
――あれ、どういう組み合わせ?
――並ぶと本当に美女と野獣みたい。
ひそひそ噂し合う声も聞こえて、いたたまれなさに私は目を伏せた。
すると、
「芹生さん、どうしたの。考え事?」
渋澤課長が私に尋ねた。
ほうぼうから向けられる視線に気づいているのかいないのか、平然と食事を続けている。
「いえ……」
私はと言えば、この空気に慣れる気がしない。声を落として答えた。
「皆がこちらを気にしているみたいですが、よろしいんですか」
「こっちが気にする理由はないな」
課長は首を竦める。
「大体、上司と部下が肩を並べて食事をしていて、何かおかしいか?」
「いえ……ないと思います」
ただの上司と部下なら、何の問題もないはずだった。ましてや私と課長ではあまりにも不釣合い過ぎて、誰も勘繰ったりはしないだろう。
だけど皆の予想を裏切り、私はこの人に――居心地が悪いのは、あの夜の記憶がまだ鮮明に残っているからだ。内心が顔に出てやしないかと不安でたまらない。
「こうでもしないと、君と話をする時間が取れないからな」
渋澤課長は私の耳に、低い声で囁いた。
業務中とは違うそのトーンに、耳をかすめた吐息に、私の背中が自然と震える。
「ここのところ立て込んでいるし、仕事が一段落ついたかと思えば今週末は飲み会だ。なかなか会う時間もないし、気が滅入るよな」
確かに月末ということもあり、総務課全体がここ一週間ほど立て込んでいた。当然、私の上司である課長も多忙の様子で、整った顔にも隠し切れない疲労が浮かんでいる。
思えばこんなふうに話をするのも久し振りだった。
あの夜から一週間が過ぎていたけど、あれきり話す時間と言えば終業後、帰宅してからの短い電話のみだ。突然の告白をされた日以来、帰宅時間すら合わない日々が続いている。
この一週間前の間に、私はあの日の甘く、夢みたいな記憶を何度か思い出していた。まるで見てきた映画を反芻するみたいに――今でもなお、信じがたい思いのままで。
課長から想いを告げられて、私はそれを受け止めた。
なのにまだ実感が湧かない。そんな想いはずっと持たないようにしてきたから、自分が恋をしているのかどうかもわからない。ただ、周りの目が気になって仕方がない。
「落ち着いたら、どこかに行かないか」
周りを気にするそぶりのない課長が、また囁くようにそう言った。
私は答え方に迷う。だってここは社食だし、皆がこっちを気にしている。下手なことを言って誤解されたら――でも誤解ってなんだろう。課長が私に言ってくれたことは、確かに事実なのに。
「それもいいですけど、忙しい時期です。お身体も大事にしてください」
誰かに聞かれてもいいように、結局そう答えた。
「わかってるよ。心配してくれてありがとう」
渋澤課長が嬉しそうな声を立てる。
その後で見上げれば、今は凛々しい課長の顔をしていた。
そうではない顔を私は知っている。唇の温度も、指先の滑らかさも、知っている。それならもう少しときめいていたっていいはずなのに、どうして私の心は頑なに、揺り動かされることを拒むのだろう。陽の当たるところにいるよりも、隅の方でひっそりとしていることを心地良いと思ってしまうのだろう。
「そういえば、飲み会には君も来るよな?」
そのまま上司の口調で尋ねてくる課長に、私は頷いた。
「はい、出席します」
「そうか」
満足げな様子で課長も顎を引く。それから、また声のトーンを落とした。
「……じゃあ、一番可愛い格好をしてきてくれ」
「え?」
私は耳を疑い、顔を上げた。
その時、課長は椅子を引いて立ち上がっていた。既に食事を終えたらしく、トレイを片手に持ち、にっこりと微笑んでいる。
「よろしく頼むよ、芹生さん」
最後に残した言葉も、いつも通りの課長のものでしかない。
私はその後ろ姿を、しばらくぼんやりと見送った。周囲の視線に気づいた途端、慌てて逸らす羽目になったけど。
課長も難しいことを言う。一番可愛い格好だなんて――私に『可愛い格好』なんてものができると思っているのだろうか。
課長は、そんな私が好きだと言った。
想いを告げずにはいられないほどだと言っていた。
彼のことを私も、彼の想いと同じように好きになれたら喜んで貰えるはずだった。不釣合いにも程がある、きれいで優しい『美女』を想うことができたら、お互いに幸せになれるのかもしれない。
だけど昔の傷跡が、私に次の一歩を踏み止まらせる。渋澤課長の甘い言動に揺り動かされるその度に、私は踏み止まろうと頑なになる。本当に私でいいのだろうか。醜くて、みすぼらしくて、隅にいるのが似合っている私のような女でも。
飲み会の日の朝、自室で覗き込んだ鏡の中には、何を着ても醜いままの私がいた。
可愛い姿にはなれそうもなかった。ただでさえ背が高くて、着るものも限られてしまうことが多い。課長の望む可愛らしさが私の中にあるだろうか、しばし悩んだ。
だけど、鏡に映るしかめっつらを見ているうち、ふと思い出したことがある。
『君は本当の自分が見えてない。そうやって苦手意識だけ持ってたら、鏡に映るのは君の気に入らない表情ばかりだ』
渋澤課長が私にくれた言葉だ。
昔の傷よりも新しく、そして優しく、温かい言葉だ。
それで私は鏡の前で、ほんの少しだけ笑ってみる。まだぎこちない笑みだけど、精一杯頑張っている顔を嫌いにはなれなかった。彼がこの顔を好きだと言ってくれたことが、不思議と私の心を温かくする。
これが恋なのかどうかはわからない。
だけどあの人の想いに、わずかなりとも報いたい。できれば恋をして、あの人を幸せにしてあげたい。思い上がりかもしれないけど、まだ怖いけど、今はそう思っている。
職場の飲み会に着ていく服は、熟慮の末、ブラウスとフレアスカートに決めた。スカートの色はベージュ。明るい色の服を着ていくのも久し振りなら、仕事以外でスカートを穿くのも久し振りだった。
知らず知らずのうちに、型に填まっていた自分にようやく気づいた。鏡が映し出してくれる真実は一つだけではないのに、似合わない、私らしくないなんて思い込んで、着なくなっていた服がたくさんあった。
鏡の中には、私もまだ知らない真実の姿があるのかもしれない。
それならこれからは、決して目は逸らさずにいたい。
飲み会は、勤務先近くの居酒屋で催された。
渋澤課長は私の服装を気に入ってくれたようだ。常に女の子に囲まれていて、話す機会はないままだったけど、目が合うと嬉しそうに笑ってくれた。私の精一杯の努力に気付いてくれたのだろうと思う。そのことが嬉しい。
課長の傍にいる女の子たちは皆、私よりもずっと可愛らしく着飾っている。可愛さでは到底敵わない。私はせめて小さな努力でも認めて貰えたらそれでいい。あの人に一瞬でも視線を向けて貰えたら、それだけで十分だった。
誰かの為に着飾るのは、素敵なことだ。自然と気持ちが弾んでくる。飲み会の席でも私は、隅の方でひっそり目立たないようにしていたけど、遠く離れた席の課長と目が合うだけで、十分に幸せな気持ちになれた。
――と。
不意にバッグの中、携帯電話が鳴った。着信音でメールだとわかり、テーブルの下でこっそり開いてみる。
予想通り、メールの相手は渋澤課長だった。
『今日の服装、とっても可愛いよ。ありがとう』
簡潔ながらも、彼らしいストレートな文面だった。
話ができそうにないから、せめてメールでと思ってくれたのだろうか。律儀な彼の優しさに、私が思わずはにかむと、すぐに二通目が送られてきた。
『二次会には出席しないで。一次会が終わったらすぐに皆と別れるように』
一読して、思わず眉を顰めた。
これは一体どういう意味だろう。二次会への出席は元から乗り気ではなかったけど、課長も出席されないのだろうか。
課長の方へ視線を向けると、彼はテーブルの下で電話を操作しつつ、隣の席の子と会話をしている。隣の子の顔を見ながらメールを打っているようだ。随分と器用な人だ。
三通目は、少し間を置いてから届いた。
『真向かいのビルパーキングに車を停めてある。そこの三階のエレベーター前で落ち合おう』
理解した瞬間、飲み会の騒がしい空気が遠ざかる。
高めに感じる室温が、かっと頬を紅潮させた。
とっさに私は電話をしまった。
他の人に見られるわけにはいかなかった。それからもう一度、課長へと視線を向ける。
ちょうど、課長もスーツのポケットにしまったところだった。ちらと私の方を見て、秘密めいた、いたずらっぽい微笑を浮かべてみせた。その顔にどぎまぎしつつ頷けば、彼もまた示し合わせるように頷いてくれた。
テーブルの上、彼の席の前に置かれているのはウーロン茶、のようだ。アルコールが入り、興も乗ってきた宴席で、あの人だけはいつものように柔らかな笑顔と穏やかさを失っていない。穏やかでいて、こんなメールを送ってくる辺りはとても冷静だ。
送られた方は落ち着いてなんていられなかった。二杯目のライチサワーを飲み干してからは、アルコールを勧めてくる同僚たちをかわし続けた。上手く誤魔化せていたかどうか、自信はあまりない。
もしかして彼は、最初からこのつもりでいたのだろうか。
二次会には出席せず、一次会のみで場を辞した。その後は他の帰宅する人たちとも別れ、少し遠回りをしてから件のビルパーキングへ向かう。
エレベーターを三階で降りると、すぐそこに課長が待っていた。
「お待たせしました」
おずおずと告げると、彼はとびきり嬉しそうな顔で答えた。
「待ってたよ。とりあえず、車に乗って」
課長の車に乗せて貰うのは二度目だった。
前回はあの夜、私の家まで送り届けて貰った時だ。でも今回はそうじゃない。これからどこへ行くのかはわからないけど、単に送ってくれるだけではないことくらいわかっていた。
ビルパーキングを出た車は、週末で混み合う道路を流れに沿って走り出す。運転席でハンドルを握る課長の横顔は、いつになく満足げで機嫌がよさそうだった。
「芹生さん、飲み会で少しは食べられた? お腹空いてたら正直に言いなさい」
「いえ、大丈夫です。たくさんいただきました」
「そうか、じゃあこのまま走るよ」
課長の声が浮かれたように弾む。こんなに上機嫌だったことが今まであっただろうか。
「夜景のきれいな場所があるんだ。そこへ行こう」
「はい……」
応じつつも、私の頭はやや鈍い。たった二杯のサワーで酔いが回ってしまったのか、課長の手際のよさに驚かされているせいか。
ぼんやりしながら、先程から気になっていたことを尋ねてみた。
「課長は、全く飲んでいらっしゃらないんですか」
「もちろん。だから安心していい」
「あの、そうではなくて……せっかくの飲み会で、全然飲まなかったなんて」
もしそれが私のせいだとしたら、申し訳ない気持ちになる。
だけど課長の答えはあっけらかんとしていた。
「飲み会よりも君といる方がいい。手っ取り早く連れ出せそうだから、そうしたまでだ」
言葉に詰まる私に対し、彼は得意そうに続ける。
「苦労したよ。しきりに酒を勧めてくる連中がいるから、仕事が残ってるって誤魔化してた。まあ、苦労の元は十分取れそうだからいいけどな」
それから横目でこちらを見る。
とろけるような甘い表情が、街路灯の光に照らされていた。
「やっぱり君は可愛いな。今日の服装はすごくいい」
「あ……ええと、そうでしょうか?」
面と向かって誉められると、さすがにうろたえてしまう。
可愛いと言われるほどじゃない。自分の容姿は自分自身が一番よくわかっている。
だけど――彼に喜んで貰えるのは何だかすごく、嬉しい。
彼の為に精一杯着飾ったつもりでいたから、その気持ちが伝わって、よかった。
私は呼吸を整えてから、そっと問いかけた。
「課長、もしかして課長は、初めから私を連れ出すおつもりで……?」
「そうじゃなければ、可愛い格好して来て、なんて言わないよ」
彼の答えは明快だった。
先日、食堂で私にそう告げた時から、既にそのつもりでいたのかもしれない。私には秘密にしておいて、こんな風に不意を打って連れ出そうとするから、すっかり驚かされてしまった。
だけど、悪い気はしない。それどころか、私の心はふわふわと浮かれ始めていた。不思議なくらい愉快な気分でいた。酔いが回ったせいだろうか、それともやっぱり彼のせい?
こんなに楽しいことってあるだろうか。誰かの為に着飾ること、その人に喜んで貰えること、それからこうして二人きりになって、小さなスリルとときめきを味わうこと。
「課長、ありがとうございます」
私はいい気分だった。どうしても、隣にいる彼に感謝を伝えたかった。
「私、とても楽しくて、幸せな気分です」
「それはよかった」
課長も幸せそうに息をついている。フロントガラスを見つめる横顔が、今夜もきれいだ。
「君の笑顔が見られて僕も嬉しい。……ところで、今日は何時まで付き合って貰えるのかな」
問われて、私は少し考えた。明日は休日だから、遅くなっても問題はない。できるだけ長く、この人と一緒にいたい思いもあった。
だから答えた。
「何時まででも構いません。日付が変わる前でしたら」
でも、私の答えを課長はお気に召さなかったようだ。
腕時計に一瞬目を向けた後、眉間に皺を寄せた。
「あと三時間しかないじゃないか」
「え? 三時間ではいけませんか」
デートの平均所要時間は一体どのくらいだろう。経験が全くないのでわからない。でも、三時間も話ができたら十分、きっと楽しくて素敵な時間になる。
「と言うより、帰る気でいたのか。仕方ないな」
大きく溜息をついた彼は、呟き声で語を継いだ。
「今夜は日付が変わる前に帰してあげよう。次はないよ、芹生さん」
「え……」
予想もしなかった宣言に、息が止まりそうになる。
まさか課長は、それ以上を望んでいたのだろうか。
三時間以上も一緒にいたら、楽しいを通り越してどきどきする時間になることだろう。頭が真っ白になって、最後の方は言葉もなくなってしまうかもしれない――その先のことは、とてもじゃないけど今の私には考えられない。
「必ず次の機会も作るからな」
念を押すように宣言されて、私は頬が熱くなるのを覚えた。
「あ……あの、そんなに長い時間一緒にいたら、きっとどきどきします」
たどたどしく答えれば、運転席からは笑い声が返ってくる。
「……どきどきさせたくて誘ってるんだよ。わからないかな」
窓の外を流れる光が、美しい横顔を照らし出していた。そこに浮かんでいるのは企むような、意味ありげな表情だ。『渋澤課長』なら絶対にしないその顔に、でも見惚れてしまう私がいた。
わからないことなんてたくさんある。彼に恋することができるかどうか、いつか彼を好きだと思えるようになれるか、どうか。だけど次の機会があるのなら、何もかもをと焦る必要もないはずだった。
今は、着飾ることの意味を教えてくれた彼と、この時間を楽しみたいと思う。
日付が変わるまでの間、存分に。