Tiny garden

少年の覚悟

「――では、家に帰ったらメールしますね」
 春の声がどこかから聞こえて、堂崎はとっさに振り向いた。
 二時限目の授業が終わり、校内は短い休み時間を迎えていた。廊下には一時の開放感を求めて教室を抜け出す生徒が溢れていたが、そのざわめきの中から春の声は聞こえてきた。
 自分のクラスの教室前で、春は見知らぬ男子生徒と向き合っている。
「わかった。よろしくね、桂木さん」
 その男子生徒は穏やかな声で言うと踵を返し、春の前から立ち去った。ちらりと見えた学年章から三年生であることはわかったが、顔には全く覚えがない。堂崎とは正反対の、物静かで温厚そうな男子に見えた。
 春は彼の背中に頭を下げ、その背中をしばらく見送っていた。それから自らも教室へ戻っていく。微かに笑う横顔を捉えた瞬間、堂崎は形容しがたいもやもやを抱え込む羽目になった。
 ――今の男、誰だ。
 記憶にはない。今の三年とはあまり接点がなかったが、中等科から同じ学校であれば多少目立つ生徒くらいは覚えている。だがあの男の顔は初めて見たように思う。
 それよりも重大なのはあの見知らぬ男子生徒が、春とメールの交換をする間柄であるということだ。
 春の交友関係は現在でも把握しているつもりだった。友人と呼べるのはいつもつるんでいるあの姦しい三人の女子くらいのものだ。吉川ともクラスが同じというよしみで連絡先の交換をしたようだが、友達ではないはずだった。それ以外に親しい相手がいるという話は聞いたこともなかった。
 ならば、今の男は一体誰で、春にとっての何なのだろう。
 堂崎の中に疑念が膨れ上がる。まだ十六歳の少年にとって、この不安は一人で抱え込めるものではなかった。

 その日の昼休み、堂崎は吉川を呼び出した。
 忠実な舎弟は取るものもとりあえずすっ飛んできたが、非常階段で待ち構えていた堂崎の顔を見て絶句した。
「えっ……と、あの、お叱りとかっすか?」
 恐る恐る尋ねられたということは、今の自分はさぞかし恐ろしい顔をしているのだろう。
 堂崎は表情を和らげようと深く溜息をついた。
「そういうんじゃねえ。ちょっと聞きたいことがあって呼んだ」
「はい、何でしょう!」
 否定したはずなのに、吉川は直立不動の姿勢になる。叱られるのを覚悟しているのか小刻みに震えていた。むしろ何かこちらの機嫌を損ねるようなことをしでかしたのかと疑りたくなる。
「桂木のことだ」
 堂崎は妹の名前を、まだ慣れない呼び方で口にした。
 たちまち吉川は身体の震えを止め、訝しそうな視線を向けてくる。
「あいつに最近、仲いい男がいるだろ」
「桂木っすか? いや、知らないっすけど」
「そんなはずはねえ。今日も教室に訪ねてきてただろ」
「……ああ、あの三年っすか」
 吉川は思い当たったようで、納得したように続けた。
「言われてみりゃ、あいつちょくちょく来てますね」
「そんなにか?」
「はい。ここ一週間くらいはほぼ毎日、桂木を呼んで何か話してるっす」
 気がつかないうちに随分と距離を詰めてきているようだった。吉川もあの三年生と春がどういう間柄かは知らないようだが、一週間も通い詰めということは何かがあるのだろう。
 もちろんそれだけで親密な間柄であると決めつけるのは尚早だ。春もそういう相手ができたとなれば報告くらいは寄越すだろう。こちらは振られた相手だが、同時に血を分けたきょうだいでもあるのだから。
 だが、実際に報告された場合、自分は耐えられるだろうか。
 春の隣に自分以外の男がいて、その相手と並んで歩く姿を目の当たりにできるだろうか。自分以外の人間の言葉で笑う春を見るのが今でも苦しいくらいなのに、それがより頻繁になれば自分はどうなってしまうだろう。まして春が、自分以外の男に想いを寄せていると知ってしまったら――。
 胸の痛みはまだ記憶に新しく、時折発作のように蘇っては堂崎を苛んだ。そんな最中に春の幸せを喜ぶ余裕などあるはずもない。
「で、どんな奴なんだ」
 堂崎は当たり障りないところから探ることにした。その方がまだ傷は浅くて済む。
 しかし吉川も相手の男をあまりよく知らないようだった。
「俺もあんま知らないんすけど、三年の笠松って奴らしいっすよ」
「笠松……聞いたことねえな」
「高等科からの外様組だそうで。あいつ――桂木が言ってました」
 どうやら春は、吉川にはあの三年生の話をしているらしい。
 それもクラスメイトならではの会話なのかもしれないが、何となく気に入らなかった。
「お前も近頃、あいつとは仲いいみたいじゃねえか」
 八つ当たりとわかっていても言わずにはいられない。堂崎がつつくと、吉川はぎくりとしたようだ。
「いや仲よくねえっすよ! たまたま聞いたんですって!」
「何を慌ててんだ。俺は別に怒ってもねえだろ」
「そ、そうっすけど、マジ勘弁っす。桂木とはむしろ絡みたくないんで!」
 吉川はそう言い放ったが、どこまでが本心かは怪しいものだった。この舎弟を信用していないわけではなく、ただ何となくわかるのだ。吉川と春の間にある距離が少しずつ縮まりつつあるのを。
 だから油断していたのかもしれない。他の男の可能性は一切考えておらず、堂崎を戸惑わせていた。
「あいつクラスじゃ浮いてるんで、仲いい奴いると目立つんすよね」
 弁解するように吉川が続ける。
「浮いてるっつかハブられてるっつか……まあ俺も人様のこと言えた義理じゃねえっすけど。だから誰かと喋ってるとそれだけで目につくってだけで。見てたとかじゃねえっすからマジで」
 堂崎は黙って目を伏せた。
 春を取り巻く空気の厳しさは知っていた。素行不良で名を馳せた堂崎と対等に口を利く女子生徒だ、校内で浮くのも避けられるのも当然だろう。春はそれでもいいと言ってくれていたが、堂崎にとっては気がかりだった。吉川を春から遠ざけられない理由の一つでもある。
 そんな春に、他にも親しく話せる相手ができたのなら、やはり喜んでやるべきなのかもしれない。
「そうなのか」
 溜息まじりに打った相槌は、非常階段の高い天井に響いた。
 そして力なく壁に寄りかかると、吉川が気遣わしげに眉を顰める。
「堂崎さん、あの先輩が気になるんすか」
「まあな」
「何なら、調べましょうか。あいつと桂木がどういう関係か」
「いや、いい」
 堂崎は迷わずかぶりを振った。
 吉川が自分を案じて申し出てくれたことはわかっている。だが頼む気にもなれない。
 そんな堂崎を吉川はどこか落ち着かない様子で見ていた。珍しく苛立たしげに首の後ろを掻きむしりつつ、やがて意を決したように口を開く。
「堂崎さん。桂木春の、どこがいいんすか」
「ああ?」
 とっさに堂崎は凄み、吉川は一瞬怯んだ。
 だがすぐに、珍しいほどの果敢さで語を継いだ。
「なんでいつまでもあいつにこだわるのか、俺にはわかんねえっす。あいつ、地味だとかぱっとしないとか差し引いても最低の女じゃないすか。堂崎さんの気持ち知ってるくせに思わせぶりにして、友達だとか言ったりして、あまつさえ他の女紹介しようとしたりして――」
「春を悪く言うな」
 堂崎はそこで吉川を制そうと胸座を掴んだ。
 本当に悪く言われたと思ったわけではなかった。吉川の言い分ももっともで、何も知らない人間からすればそうとしか見えないだろう。振っておきながら友情の継続を求める女と、振られた傷を癒せないまま尚も女にしがみつく男。第三者から見れば今の春と堂崎はそういう関係でしかないのかもしれない。
「俺、あいつが許せねえっす」
 今にも掴みかかられそうな姿勢でも、吉川はためらわずに言った。
「でも堂崎さんにも納得いかねえ。なんで、あいつなんすか。あんな奴とっとと忘れたらいいのに、どうしてそうしないんすか」
 双眸に苛立ちをぎらつかせ、遠慮もなくまくし立ててきた。
 普段は兄貴分と慕う堂崎にここまで言ったりはしない。だが今は一歩も引かずに反論してくる。よほど腹に据えかねているのだろう。吉川にとって、春と堂崎の関係はそれほど納得のいかないものなのだろう。
 堂崎自身が上手く飲み込めていないほどだ。きっと、誰にも納得できるものではない。
 息が詰まるような沈黙が非常階段に流れた。吉川は胸座を掴まれたまま堂崎を見据え、堂崎もまた吉川を強く睨みつけていた。
 堂崎の中に怒りはない。ただ、答えなければならないと思った。
 恐らく吉川も、殴られる覚悟で訴えてきたのだろうから。
「俺は、あいつじゃなきゃ駄目だと思った」
 堂崎は沈黙を破り、ぽつりと言った。
「でもあいつは、俺を選ばなかった。それだけの話だ」
 それから手を離し、吉川を解放した。
 吉川はよろけながらも目を見開き、そして深く息をつく。
「……やっぱ、わかんねえっす」
「なら好きにしろ。お前に失望されたところでどうしようもねえよ」
 堂崎は突き放すつもりで言ったが、吉川は理解すること自体を放棄したようだ。兄貴分に向かって、痛みを堪えるように苦笑した。
「失礼なこと言ってすいません。殴るなら、ばしっと殴ってください」
「するか馬鹿」
 そんなことをしても空しいだけだ。
 本当に欲しいものが手に入るならいくらでも戦うだろう。だが堂崎の欲しいものは目下、手の届かないところにある。それでも、堂崎は春が気になって仕方がなかった。

 堂崎の疑念は、放課後にあっさりと晴れた。
 春がわざわざ教室まで迎えに来て、一緒に帰ろうと言ってきた。習い事のない木曜日、堂崎はその誘いの意図を見抜きつつ申し出を受けた。
 そして桂木家までの道を二人で辿る最中に、春の方から打ち明けてきた。
「笠松先輩は、中学で一緒だったんだよ」
 歩きながら堂崎は妹に視線を向ける。
 春ははにかみ笑いのような、それでいてどこか複雑そうな表情をしていた。
「その中学でお世話になった先生が、急に退職することになったの。赤ちゃん産まれるんだって。それで有志を募ってお祝いを贈ることになって……」
「それであいつと連絡取り合ってたのか」
 堂崎も少しきまりが悪かったが、春の説明にほっとしたのも事実だった。
「三年生の代表があの人で、二年の代表が私。お金集めたら買い物に行って、寄せ書き作るの」
「へえ」
「だから、別に先輩とは仲いいわけじゃないの。必要だから連絡先交換しただけ」
 その言葉を春は、どうして兄に告げる気になったのだろう。
 答えは考えるまでもない。
「吉川、何か言ってたか?」
 堂崎が尋ねると、春は苦笑しつつ頷く。
「うん」
 頷いたが、何と言われたかは答えようとしなかった。
 あの昼休みの後、吉川が何を思ったかはわからない。だが現実として吉川は動き、春は堂崎に事実を伝えた。二人の間にどんなやり取りがあったか、想像に難くない。
 いい舎弟を持ったものだ、と思えばいいのだろうか。堂崎の内心は複雑だった。
「あのね、堂崎」
 春が言いにくそうに続ける。
「私、確かに無神経なとこあると思う。自分でも思うもん」
「そんなことねえよ」
「ううん、ある。だからね、もし堂崎が嫌だと思うことあったら言って欲しいな」
 そう言って、春はじっと堂崎を見つめてきた。
 地味で、ぱっとしない女だと吉川は言っていた。だが堂崎にとってはこの世にたった一人の大切な存在だった。今でも真っ先に唇に目が行くくらいには、堂崎は春を想っている。
 だが春は――嫌だと思うことを率直に告げたところで、堂崎の望む通りにはしてくれないだろう。
 堂崎は春を選ぼうとしたのに、春は堂崎を選ばなかった。
「……本当に男ができたら、ちゃんと知らせろよ」
 妹の顔から目を逸らし、堂崎はそう言うのがやっとだった。
 だからその時、春がどんな顔をしたのかは見なかった。だが声は笑って、明るく答えた。
「そうだね。いつか、そういう報告ができたらいいな」

 いつかというその日は、必ずやってくることだろう。
 その時までに堂崎も覚悟を決めなければならない。できれば――痛みを堪える為に歯を食いしばる覚悟ではなく、妹を笑って祝えるだけの覚悟でありたい、と思う。
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