『好きだよ』、震えた声で紡いだ(1)
翌日、堂崎新は学校を休んだ。春はやはり多少気を揉んだが、携帯に届いたたった一行のメール――明日は行く、という文章に希望を託してみることにした。そっとしておけと言われたからには、堂崎の気が済むまでそっとしておくべきなのだろう。それに春の知る限り、兄はいつだって嘘をついたりしなかった。今更信じない理由はない。
自分も嘘をついていた、と兄は昨日、打ち明けてきた。それがどういう類のものか春にはわからなかったし、想像もつかない。でもたとえどんな嘘をつかれていようと、自分のついた嘘だって堂崎は許してくれた。そんな自分が兄を許さない理由もない。兄を想う心は最早変わらない。
だから、一日くらいは待つのも平気だった。
そしてその火曜日の放課後、春は堂崎の両親と会っていた。
誘いをかけてきたのは父親の方だったが、連れられて例の喫茶店に向かえば、そこには母親も待っていた。父親はいつものようにスーツ姿、母親は上品なピンク色のワンピースを着ていた。見たところ二人とも至って落ち着いた様子で、特別機嫌がいいというわけでも、沈んでいるという風でもなかった。ただ母親の方は春を見た途端に、居た堪れないような複雑な表情を浮かべた。
日替わりブレンドのカップが三つ運ばれてきた後、堂崎の父が切り出した。
「君のお母さんは大分よくなったそうだね」
「はい、お蔭様で」
春の母親はあれから活力を取り戻したようだ。まだ寝ていなさいと諌める父の言葉を聞き流して、少しずつ家事をこなし始めている。今朝は三人で一緒に食事も摂ったし、登校する春を玄関先まで見送ってもくれた。
ついさっき、春が迎えに来た堂崎の父の車に乗り込む直前にも――やや寂しげな、双子の姉に少しだけ似た顔つきで娘を送り出した。だから春はなるべく笑って、ちょっとだけ待っていてください、と告げた。
「まだ本調子ではないようですけど、外にも出られるくらいにはなりました」
「そうか。それはよかった」
「ご心配をおかけしました。父も仕事を休んでしまって、堂崎さんには何とお詫びしたらいいか……」
春の謝罪に、堂崎の両親は揃って目を丸くした。すぐに父親だけが気遣わしげに笑んで、
「君が謝ることじゃないさ。桂木さんが休んでいるのは確かに痛いが、こんな時なら仕方ない」
春の父親も明日からはまた仕事に行くと言っていた。明日からはまた何でもない、けれど以前とは違う日常が始まるのだろう。合図さえ間違わなければきっと、始めていけるだろう。一瞬だけ兄の顔を思い浮かべ、春はそう願った。
「でも、私のせいですから。母が体調を崩したのも、父が仕事を休んだのも、それから――」
「そんなことはないよ」
堂崎の父親がやんわりと遮る。上品な顔立ちに苦味が走り、やがて溜息混じりに言われた。
「つくづく君はしっかりしているな。新と同い年とは思えないくらい、大人びている」
「そうでしょうか」
誉められても、春自身にはあまりぴんと来ない。自分が大人だと思ったことはなかったからだ。十五から十六になった時はほんの少し成長したような気がしたものだったが、それも本人だけが自覚できるような微々たる変化だ。今現在の春も、まだ子供のはずだった。
「だが、君を大人にしてしまったのは、私たちの責任だ」
そこで堂崎の父親が表情を引き締める。
「我々の方こそ、君に謝らなくてはならない。本当なら君はもっと子供でいていいはずだったんだ。あどけないままで十六歳を迎えてもよかったはずだ。そんな君に知らなくてもいいことを教え、無理を負わせ、辛い思いまでさせたのは私たちだ」
隣では、堂崎の母親が神妙な面持ちでいた。この人に会うのはまだ二回目で、表情や姿を見るだけなら懐かしいという気はしない。テーブルを挟んだ目の前にいるこの夫婦が自分の生みの親であるということを、春はまだ上手く受け止められずにいる。
どちらかといえば自分は父親似なのかもしれない。そんなことを僅かに考えはしたが、心に根づくほどではなかった。自分にとっての家族は、やはりどうあっても桂木の両親だけなのだろう。似ていなくても、血の繋がりがあっても、なくても。それは既に動かしがたい、喜ばしい現実だった。
「あの子は……」
かすれた声で、堂崎の母親が話を引き継ぐ。
「あの子は、あなたの存在を知ってから、とても変わったの。それまではただわがままで、そのくせ無気力な子供だったのに、あなたを知ってからは自分のすることに目的を持ったみたいだった。やりがいを見つけたようだった。だから、あなたといたら、あなたがもっとあの子の傍にいてくれたら、あの子もあなたのようないい子になるんじゃないかと思って……」
きゅっと顰めた形のいい眉に、強い感情が滲んでいる。後悔のような、痛みを堪えているような。
「結果として私たちは、あの子の更生をあなたに押しつけようとしていただけだった」
堂崎新がなぜ、隠されていたはずの妹の存在を知ったのか。
今の春にはおぼろげながらも察しがついた。
「今まで、すまなかった」
堂崎の父親が頭を下げ、母親もそれに続く。
はっと我に返った春は、慌ててかぶりを振る。
「や、やめてください。こちらこそ謝っていただくようなことは……」
「私たちは君から子供らしさを奪ってしまった。その上、私たちが本来すべきことまでを君に負わせようとした。どれほど謝っても過分ではないはずだ」
春の方には奪われた、負わされたという感覚すらないのだが、自分では実感しきれないものだというのも真理なのかもしれない。兄と出会ってから、失ったものが皆無だというわけでもない。それは自分も兄も同じことだが。
「君にはもう、無理を押しつけたりしない。君は君で、せめてこれからは幸せになって欲しい。これからは年相応に子供らしい生き方をして欲しい。私たちにはそう願うのもおこがましいかもしれないが」
「……いいえ。お気持ち、うれしいです」
自分と同じように、兄に必要なのもきょうだいだけではないだろう。堂崎にとって共に暮らす家族が、大切なものになればいい。春は思う。
「私たちも君の決断をうれしく思っているよ。何よりも君自身が選び取ったということを」
その言葉に、春はもう一度はっとした。
堂崎の父親がそう言ったのは、つまり――。
「新さんが話してくれたんですか?」
期待を込めて尋ねると、堂崎の両親は切なそうな顔を見合わせた。
微妙な間を置いて、父親が答える。
「いや、何も話してはいない。でもわかった。君が決断したこと、あの子がそれを苦しみながら受け止めて、乗り越えようとしていると」
春は、あの家で堂崎がどんな風に暮らし、どんな風にふるまっているのかを知らない。堂崎新にとって『足りない』ものが双子の妹だけだったのかどうか、欲していたものが他になかったのかもわからない。堂崎家に足を運んだあの日でさえ、堂崎は兄妹二人だけの空間を作ろうとしていた。今になって思えばそれは、家にいる時の自分を、春には見せたくなかったからなのかもしれない。
そうして家での堂崎を知っている父親は、ふと穏やかに言葉を継ぐ。
「あの子は、それでも変わったよ。少なくとももう駄々っ子ではなくなった。君の大人らしさと比較すれば僅かな成長ぶりだろうが、これからも変わっていくんだろうな」
一度は物寂しげに呟いてから、違う言い方をする。
「これからはその変化を私たちが見届けるよ。あの子を育てるのは私たちの務めでなければならない。君にそれをさせてはいけなかった」
春も堂崎もまだ十六だ。決して大人ではないし、まだ誰かの手助けが必要な年頃だ。これからの堂崎に手を差し伸べてくれる大人がいれば、その人の手を堂崎自身が必要としたら、きっといくらでも変わっていけることだろう。
そして、この店に来るのも今日が最後になるのだろう。
「私、新さんと出会えたことはよかったと思ってます。幸せでした」
背筋をぴんと伸ばして、春はそう受け答えをした。
「きょうだいではいられない分、いいクラスメイトになります。友達になります。すごく仲良しになるつもりです」
兄を更生させるだなんてそれこそおこがましい。兄もまた『足りない』わけではないから、新という名前は春と同じくらい珍しくもなくて、一つきりでも成り立つ名だから、お互いに一人でもちゃんと存在していられるはずだ。
足りないから一緒にいるのではなくて、好きだから、幸せだから一緒にいたい。他の誰かともするように、自然と肩を並べていたい。これからは。
堂崎夫妻は共にしばらく黙り、落ち着いた表情だけを浮かべていた。この人たちについて、春は好きだともそうでないとも思えなかったが、友達の親というならその程度だろうとも思う。友達が親を好きだといったらいい印象を持つ。逆もまた然りだ。そんなものだ。
これからは、それでいいはずだった。
すっかり温くなってしまった日替わりブレンドを飲み干した後、春は堂崎の両親と店を出た。
「家まで送ろう」
駐車場に停めた黒いセダンの前、堂崎の父親は当たり前のようにそう言った。しかし春は、初めてその申し出を断った。
「いえ、今日は結構です。これから用事があるんです」
「用事? 今からかい?」
外は日が暮れ始める頃だ。昨日よりは遅くない。
「はい。両親と待ち合わせをしていて、近くの携帯ショップで」
喫茶店のある住宅街を少し歩くと、やがて交通量の多い広めの市道に出る。その道沿いに建つ携帯ショップの前で、春は両親と約束をしていた。昨日告げた欲しいものを、今日早速買ってもらえることになったのだ。
「携帯電話を?」
堂崎の父親が尋ねてきたから、春は正直に頷く。
「はい。……あの、新さんにはちゃんと話しますし、私からお返しします」
誕生日プレゼントとしてもらった電話は今も大切にしまってある。きれいな桜色も素敵でとても気に入っていたのだが、でも、あれは返すべきだと思った。新しい電話にももちろん兄の番号を登録するつもりだ、クラスの友人たちと並べて。
できたら明日、早速学校へ持っていこう。
「今までありがとうございました」
お礼を言って、深くお辞儀をして、顔を上げた時。堂崎の両親は夕暮れ時のような弱々しい微笑を浮かべていた。
春はもう少しばかり笑んでから、くるりと踵を返す。
まだ明るい道を、賑やかな方へと歩き出す。