願い事はひとつだけ(8)
春が帰宅したのは午後六時を大幅に過ぎた頃で、さすがにびくびくしながら玄関を開けた。叱られる心積もりはしていたが、両親が待ち構えていたのは予想外だった。二人とも玄関にいて、春が戸を開けた瞬間、こちらを向いて固まった。もちろん春だって驚いた、そこにいるとは思わなかったし、母親の顔を見たのも実に二日ぶりだったからだ。
母は一見してわかるほどやつれていて、血の気のない頬にはまだ乾いていない涙の跡があった。寝間着の上にカーディガンを羽織り、しゃがんで靴を履こうとしていたようだ。片方だけがまだ土間床に浮いている。思っていたよりも小さくて、酷く冷たそうな足だった。
その母親が、真っ先に我に返って叫んだ。
「春!」
覚悟はしていても、鋭く名を呼ばれれば身体が震えた。
春は慌てて玄関へ入り、戸を閉めてから両親に向き直った。すぐに頭を下げる。
「あの、ごめんなさい。遅くなりました」
謝ってから顔を上げると、両親はまだ動きを止めていた。よほど怒っているのではと思ったが、だんだんとそうではないことに気づいた。父も母も表情が凍りついている。特に母は引きつった顔つきのまま、唇や細い目元を震わせている。やがて新たな涙が頬を伝ったかと思うと、ようやく動いた。両手で顔を覆い、わっと泣き出した。
「もう帰ってこないかと思った……!」
考えもしなかった言葉だった。
春が呆然としていれば、泣きじゃくる母の傍に父親が膝をつき、その肩をそっと抱いた。そして優しく囁きかける。
「もう泣くんじゃない。春に話しておきたいことがあるんだろう?」
「でも、でも私、春ともう会えないんじゃないかって……!」
「だから、泣くのは後にしなさい。喉が嗄れてしまったら、言いたいことも言えなくなってしまう」
喉の奥から振り絞るような声を上げている母が、震えながら頷く。それで父は春の方を見、遠慮がちな言葉をかけてきた。
「春も、聞いてやってくれるか? ここは寒いから、中に入って」
叱られるつもりでいた春は、頷くことすらできなかった。父が母を抱えるようにして居間へ連れて行った後に、おずおずとしながらついていった。
居間へ入り、三人で床に座り込んでからも、母はずっと泣いていた。泣きながら、涙でぐしゃぐしゃの声で語った。
「ごめんなさい。私、ずっと自分のことばかりだった」
実の親ではないとしても、母が母親ではない顔をしているのを、春は初めて目の当たりにした。少なくとも春の前で、彼女はいつだって『母親』だった。そうではない日は一日としてなかった。春が堂崎と出会った後も、堂崎がこの家に来るようになった後も、ずっとだ。
「姉さんがずっと羨ましかった。羨ましくて、妬ましくて、憎くてしょうがなかった。あの家にいた頃、姉さんはあの家の子として育てられていたのに、私はずっと『よその子』だった。血の繋がったきょうだいなのに、双子なのに、私だけがあの家の子として認めてもらえなかったのが、とても辛かった」
まだ記憶に鮮明な、堂崎家の離れの光景。そこに母が暮らしていた。
春にとっても他人事ではない。黙って、じっと聞いていた。
「もうあの家を出たのだから……出られたのだから、忘れていればよかったのに、それができなかった。できてなかった。今度はあなたを取られてしまうんじゃないかと思って……っ」
そこで母の声がトーンを外れて撓み、小刻みに震える肩を父が手のひらで軽く叩く。気を落ち着けるように二度。母は深く息をつく。
「あなたと新さんが仲良くなっていくのがとても怖かった。あなたたちは本当にきょうだいらしく見えたし、一緒にいたがっているのだってわかった。なのに私は姉さんのことが、憎くて、憎くて、いなくなればいいのにって思うほどで、だからあなたをこの家に、私のところに縛りつけておきたかった」
あの家に生まれたきょうだいは、皆、憎しみ合う運命なのだろうか。
互いを憎む気持ちが芽生えるのが先か、それとも堂崎が言ったとおり、他の誰かのせいなのか。きょうだいだけでいれば心乱されることもないのだろうか。他の人間が――母の場合は彼女を姉から引き裂いて隔離した者のせいか、あるいはその後に生まれてしまった双子のせいだったのか。
「あなたは私の産んだ子じゃないし、あなたの名前も私がつけたものじゃない。でも私はまるで自分の娘みたいに思って、自分のものだって思い込んでいた。だから姉さんには取られたくなかった。あなたを奪ったのは、本当は私の方なのに。今は姉さんだけじゃなく、新さんからも奪おうとしているのに」
一月一日生まれのきょうだいには、いかにもらしい名前がつけられた。
新と春。割符のように繋がり意味を持つ、けれど一つずつでもそう珍しくない名前。
「ごめんなさい……」
母はまだ、泣いていた。
「ごめんなさい、春。私はあなたを、私と同じ目に遭わせるところだった……!」
そうして打ち明けられた心を、春はしっかりと聞いていた。
同じ目、とは思わない。この家はあの小さな離れとは違う。普通の家庭とは少し違っていたかもしれない、本物の親子よりぎこちなくて不器用だったかもしれない、だが不幸せでは決してなかった。
この家に育ったからこそ、兄を羨むことも妬むこともなかった。
春の心はもう決まっている。母がどう思っていたとしてもだ。
「お母さん」
本来は叔母であるその人に、春は恐る恐る呼びかけた。
涙で汚れた不安げな面差しが留まる。そういう風に呼ばれることさえ恐れるような顔だった。古い時計の秒針みたいにずっとしゃくり上げている。
いつも見上げるばかりだったこの人が、こんなに小さく弱々しく見えるのか。春は驚いていた。
「あの……私、ここにいたいです。この家に、お父さんとお母さんと一緒にいたいんです」
春の言葉に、両親はそれ以上の驚きを見せた。
「迷惑じゃなかったら、ですけど……」
そう付け加えると母親が、一拍置いてから強くかぶりを振る。次いで父親も短く首を横に振ったから、春は少し安堵した。
「私、まだ十六だから、どうするのが正しいのかってよくわかりません。でも、どうしたいのかはわかるんです。ここにいたい。ずっと暮らしてきた、育ってきた家にいたい。お父さんとお母さんが好きだから、これからも一緒がいい。そう思ってます」
さすがに、ずっとというわけにはいかないものの――いつかはこの家を出る日が来る。それは春だけではなく、どんな家に生まれた子供も同じことだ。いつかは誰もが生まれ育った家を、あるいは両親の傍を離れるさだめだ。そうして自分の足で立つようになる。別の家庭を築いたりもする。
いつまでも一緒にいられないのは、親子も、きょうだいも同じだ。
それまではこの人たちの娘でありたい。
「新さんのことは好きです。本当のお兄ちゃんみたいに……ううん、本当のお兄ちゃんだって、当たり前だけど思ってます。でも新さんには新さんの育ってきた家があるし、私だってそうです。今からどちらかに移って暮らすなんてきっと大変だから、お互いにいたい場所が違っていたから、これからも別々でもいいって決めたんです。私はそう思ってて、今日、新さんにもそう伝えました」
母が真っ赤に充血した目を瞠る。見開かれても細いその瞳の形は、確かに堂崎の母と、堂崎自身ともよく似ていた。
あれから兄が泣いていなければいい、春は密かに思った。
「一昨日は嘘をついてごめんなさい」
あの日から随分と時間が経ってしまったような気がする。
目まぐるしく様々なことが移り変わり、いくつか失うものもあって、ようやく春は答えを得た。
「私はまだ幼いし、進路のこととか何にも考えていなくて頼りない子供かもしれないけど……これからもお父さんとお母さんの娘でいさせてください。お願いします」
春の問いかけに対する母の答えは、飛びつくような抱擁で返った。
両腕でしかと娘を抱き締めた母が、また号泣を始める。むしろ子供のような泣き声で何かを訴えかけてくる。春、はる、と名前を呼んでくれているのはかろうじて聞き取れたが、他はもう単語にすらなっていなかった。耳の奥にこだまする自分自身の名前に、春は思わず口元を綻ばせる。
いい名前だと思っている。一つでも足りなくなんかない、十分な名だ。
普段から口数の多くない父は、娘にしがみついて泣く母の背をさすっていた。母よりはずっと落ち着いて見えたし、皺の目立つ顔は今、とても優しげだった。この人は確かに、母の王子様だったのかもしれない。春は確信めいた予感を胸に抱く。
その父と、不意に目が合った。
微笑む娘を前に、父はにわかに緊張し始めたようだ。一度視線を泳がせ、直に戻し、嘆息してから慎重に切り出してきた。
「春。……私たちはこれから、今よりもずっといい親になろう。いつもお前のことを考えて、お前の為になることをできるような親に」
それらの点については特に不満も、不安もない。ここ最近は心細く思うことは何度かあったが、それでも十六年間をトータルで見れば文句のつけようもないとてもいい両親だったと思うし、これからもそうに違いない。
「私は、今のお父さんとお母さんで十分です」
だから春はそう答えたが、父の方は娘の回答に何らかの不安を覚えたらしい。すぐに言い添えられた。
「しかし、今までお前には、わがままも言わせてこなかったから……。お前はとてもいい子だが、私たちにも遠慮するところがあるだろう? そうさせてきたのも私たちの責任だ」
その時、やっとのことで泣き止んだ母も、父の言葉に深く頷いた。
春からすれば、そうだろうかと首を捻りたくもなるのだが――少なくとも自分はいい子ではない。今日だって帰りが遅かった。余分に心配もかけた。
「何か、して欲しいことがあったら言いなさい。欲しいものでもいい。あんまり甘やかすのもよくないだろうが、たまにならいい。これからはお前の子供らしいところも見たいんだ、ほら、何か言ってみなさい」
罪悪感でも抱いているのか、それとも、ずっとそうしたかったのだろうか。ともかく父が熱心に促してくるので、仕方なく春は考えてみた。
しばらくして、そういえば一つ浮かんで、でも、と両親の顔色をうかがいたくなる。二人は娘が何か言うのを身じろぎもせずに待っている。期待しているようでも、懇願されているようでもある。
「じゃあ、あの……お父さん、お母さん」
思い出したのはいつだったか、温子から受けたレクチャーだ。
皆が持っているから、持っていないと遊びに行く時不便だから。それらしい理由は揃っている。ただなにぶん高級品だから、許してもらえるかどうかはわからない。許してもらえなくてもまあ、それはそれでいい。今までだって持っていなかったも同然だったのだし。
「欲しいものがあるんだけど……」