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願い事はひとつだけ(4)

 教室を出た後、生徒玄関に向かう静乃とはすぐに別れた。
 階段を下りていく友人の気配が消えてから、春が図書室へと歩き始めた十秒後、背後からばたばたと足音が近づいてきた。どうやら向こうも見計らっていたらしい。気づいた春が立ち止まれば、振り向いた先に吉川の声が怒鳴った。
「遅ぇよ桂木!」
 振り向いた春の目には、怒りを通り越して困り果てた顔が留まる。両手を握り締め、今にも飛びかかってきそうな体勢の吉川は、しかしその拳を振り下ろす気まではないらしい。ただ苛立ちは隠さず喚く。
「お前何もたもたしてんだよ本当にもう! こんな時間まで教室で駄弁ってる場合かよ、俺が廊下でうろうろしてんのにも全然気づかねぇし! どこ見てんのマジで! つかそれより先に時計見てろよ、ったく!」
「あ、ごめんなさい」
 春は小さくなって頭を下げる。それから、思い切って尋ねてみた。
「ところで吉川さん、いつから廊下にいたの?」
「『いつから』!? それ聞きますかずっと廊下に張ってた俺に対して!」
「じゃあもしかして結構前から……?」
「悪いけど大分十五分以上いたんだからな、教室から出てくる連中にじろじろ見られてたってのに、肝心のお前がこっち見てねぇんだから!」
 クラスメイトたちが教室から去っていくのにも気づかなかったくらいだ、廊下なんて気にも留めなかった。もしかすると相当粘っていてくれたのかもしれない。
 それだけ、堂崎が痺れを切らしているのかもしれない。
「堂崎、怒ってる?」
 次にそう尋ねると、吉川の表情から感情の波が幾分か引いた。溜息をつきながら春の肩を押しやり、
「とりあえず急げよ。立ち止まってないでほら」
 急かされた春もとりあえず、また歩き出す。
 吉川は春の肩から手を離すと、早足と駆け足の中間くらいで併走を始める。むしろ先導するつもりなのかもしれない、ついていこうとすると小走りになってしまう。遅い時分なのが幸いしたが、もし教師に見つかればうるさく言われそうだ。憚りのない足音も名門校の廊下にはふさわしくなかった。
 人気がなくなってから来い、と堂崎はメールで言った。その注文通りにはしたつもりだったが、現実には堂崎を待たせる結果となったようだ。そうでもなければわざわざ吉川を迎えに寄越さないだろう。廊下を走るのは気が引けたが、なるべく急いだ方がいい。
 息が切れてしまう前に、図書室に着いてしまう前に、春はもう一度問いかけた。
「堂崎、怒ってた?」
 吉川は項垂れるように視線を落とす。頷いたのかどうかはよくわからなかった。反応に困った春が答えを諦めようとすると、
「桂木、さん」
 さっきよりも改まった口調。取ってつけたような『さん』付けが妙に耳に残る。
「……はい」
 びくびくしながら春は答える。
「この際だから、もう聞いちゃうけど」
 併走スピードのせいか、聞こえてきた吉川の声も若干揺れていた。
「一昨日。堂崎さんに、何か、言ったのか」
 刺々しい問いだった。それで春も兄の様子を薄々察し、乱れた溜息をつく。
「やっぱり、怒ってるんだ」
「やっぱりお前か」
 吉川もスピードは緩めずに、真横から噛みついてくる。
「だから言ったろ俺、間違っても振るなよって。家に呼ばれてのこのこ出て行く時点で普通脈ありだって思うだろうがよ。鈍そうって思ってたけど本当に救えねえな」
 そんなことを言われても、春にはいい弁解が思い浮かばない。自分が鈍感だからとか、振ったからとか、そういう問題ではそもそもないのだ。だがありのままを告げるわけにもいかない。
「大体お前だって、好きじゃない男の家とか行かねえだろ? 真面目そうだし、いくらなんでもそこまで天然じゃねえよな?」
 彼の言い分は正しい。確かに――好きな人の家だから行った。それは間違いない。
 自分の家だから、ではなかった。
「何で、堂崎さんを怒らせたんだよ」
 吉川は尚も問い詰める。
「その気じゃなかったなら、何でわざわざ行ったんだよ」
 春はますます答えにくくなり、考え込んだせいで走るスピードがいくらか落ちた。
 途端、隣からは慌てたような声がする。言い過ぎたとでも思ったのだろうか。
「あー……いや別に、それを洗いざらい俺に言えってわけじゃねえからな。ただ考えといて欲しいっつーか、俺が堂崎さんの事情に首突っ込むのもあれだけど、お前が何にも考えてねえなら釘刺しときたかったっつーか」
 吉川は堂崎のことが心配らしい。弁解もそこそこに訴えかけてくる。
「お前だってわかるだろ? 堂崎さんは、女のことだけで悩んでていい人じゃねえんだ」
 走りながら語る声は真剣だった。
 彼を、春は横目で見る。向こうは強い眼差しで見つめ返してくる。
「あんなでかい家に生まれりゃいろいろめんどいことだってあるし、最近はそれで結構時間取られてて、自由にできてねえみたいだしさ。学校じゃ俺以外にも舎弟連れてるだろ? 教師どもにも目つけられてるしさ。考えなきゃなんねえこといっぱいあんだよ、あの人には。だからって女にかまけてちゃ駄目ってわけでもねえけどさ、それがぐだついて、他のことの支障になってたりすんのは不毛だ。だから――」
 そこで、春は足を止めた。
 一秒遅れて吉川が、つんのめるように立ち止まる。すかさずこちらへ向き直り、縋るような顔をして付け加えてくる。
「だから、俺が口挟むのも何だろうけど、桂木……さんももうちょい相手のこと考えて欲しいんだよ」
「考えてるよ」
 廊下に、弾む吐息と返事を放つ。春は肩で息をしていた。
 二人が止まったのは視聴覚室の前で、ここまで来れば図書室まではもう目と鼻の先だ。吉川はまた急かしてくるのではないかと思ったが、意外にもそうせず、更に釘を差してきた。よほど、心配らしい。
「お前だって、好きなんだろ? 堂崎さんのこと」
 吉川がなぜそう確信しているか、論拠は至って明快だ。家に行ったから。呼び出しに応じているから。堂崎のことを春が、何だかんだでしきりと気にしているようだから。きっとそんなところだろう。
 春は正直に肯定した。
「好きだよ」
 それで吉川は安堵の色を見せ、しかしすぐに呆れた顔つきになった。大方、『だったらどうして付き合わないのか』というようなことを思ったに違いない。だから春は素早く言い添えた。
「でも、私が好きなのは堂崎だけじゃないから」
 一転して、吉川が愕然とする。
「は? いや、ちょっ、待てって、まさか二股とかじゃねえだろうな?」
「そうじゃなくて」
 彼の発想は案外と漫画的だ。割と読んでいるのかもしれない。
「私は堂崎のこと好きだけど、多分、一番好きだけど。でも一番じゃなくても他にも好きな人がたくさんいるし、その人たちのことも考えるよ。堂崎だけじゃなくて、皆のこと、考えたい。そう思うから」
 考えなくてはならないことが多いのは、堂崎に限った話でもない。春だって同じだ。
「それに堂崎のこと好きなの、私だけじゃないから。あなたもそうでしょ?」
 水を向けると吉川は我に返り、
「や、好きっつーか……まあ尊敬してる、ってとこだけど」
 と真面目に答えた後で、不満げに眉を顰めてみせた。
「けど、それとこれとは話が別だ。お前の場合はそういう『好き』とは違うし……違うよな? いわゆるお友達的な意味での『好き』じゃねえんだろ? だよな?」
 期待を込めた確認に、春は少し苦笑する。
「友達にすらなれてないよ、私たち」
「え? いや、おい……」
「だって話したことないもん、教室とか廊下とか、他の誰かのいるところでは。友達ならできることもできてなかったよ」
 教室ではいつも、無関心なふりをしていた。
 いくら堂崎のことを考えても、いくら目で追ってみても、あの教室にいる間はただのクラスメイトだった。友達のように話したり、視線を合わせたり、手を振ったりすることは一度もなかった。他のクラスメイトと同じように遠巻きにして、腫れ物に触るように扱ってきた。血の繋がりがあっても、どれほど兄を想っても、現実にはそんな壁さえ乗り越えられなかった。
 教室の外では兄と繋がっていられた。しっかりと触れることもできた。兄のことが好きだから、それだけでいいと思っていた。
「好きな人の為に、って何かするの、難しい。私と堂崎はお互いに、教室では話さないようにするのが正しいって思ってたけど、そうじゃなかったのかもって今は思う。私たち、ずっと間違えてたのかもしれない」
 そう思う春は今も、兄のことが好きだ。多分誰よりも一番。
 好きだから、これから話そうと思う。素直な気持ちを。どういう風にありたいかを。
「吉川さんは、だから、すごいよね」
 春の言葉に吉川は実にうろんげな顔をした。
「すごいって何が」
「堂崎の為にいろいろできて。一生懸命になれて」
「別に……したくてしてるだけだし」
 吉川はあまり関心なさそうに呟いてから、視聴覚室から更に先、廊下の奥を顎で、重々しく示した。
「とりあえず、堂崎さん、待ってっから」
「うん」
「……あ、の。もう何か俺、口挟まねえ方がいいのかもだけど。でも、その」
 そして堂崎のこととなればやはり真剣になって、
「何つうか……もし、振る、にしてもさ。こう、なるべくお手柔らかにってか、あんまり手酷くはしないで欲しいっつーか……」
「頑張るね」
 春も真面目に頷いておく。『振る』のとは違う気がするが、兄の意に沿わないことにはなるかもしれない。けどそうなってしまったら、むしろ吉川の手を借りなければいけないだろう。彼もまた堂崎を大切に思っている。

 図書室までの何十歩かを、春は呼吸を整えながら進んだ。
 ただ途中でふと思い出して、相変わらず隣にいる吉川に尋ねた。
「そういえば、風邪引かなかった?」
「は? ……何、俺?」
「一昨日、雨に打たれてたから。大丈夫かなって」
「何ともねえよ、あのくらい」
 案の定、吉川は春の心配なんて興味もなさそうだったし、それどころか呆れたように睨んでさえきた。
「つか俺のこと気遣う余裕あんなら堂崎さんのこと考えろって」
 春はその言葉に答えなかった。
 自分でも不思議なくらいだった。ほんのちょっと前までは、兄のことしか見ていなかったはずなのに。
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