願い事はひとつだけ(3)
放課後、美和や温子は『気分転換になるから』と言って寄り道しようと誘ってくれた。残念ながらそれは断らなければいけなかったが、春はむしろ嬉しい気持ちでいた。また誘って、と笑顔で答えた。思えば今まで、自らの悩みを他人と比較する機会はなかった。春は自身の出生をやや特殊なものだと受け止めてきたし、家庭環境や育てられ方も普通とは違うらしい。人とは違うのが当たり前だと思っていたから、自分と似たような悩みを誰かが――同じく特殊な環境にある兄以外にも誰かが、持っているとは考えもつかなかった。
しかし美和たちは春の告白に共感を示してくれた。程度は違えど彼女たちもまた、春のように思い悩んだ経験があるようだ。そこから察するに、今ある環境への不満や鬱屈はそう珍しいものでもないのだろうし、むしろ抱くべき自然な感情なのかもしれない。何もかもが満ち足りた人生なんてそうあるはずもなく、現状に対して不満があるからこそ解消へ向けて動いたり、考えたりできるからだ。少なくとも春はこの状況を、桂木の両親や堂崎新との関係を、どうにかして変えたいと思っている。
仕方がない、と放り出すのは簡単かもしれない。自分のせいだと唱え続ければまた元通りになるのかもしれない。だがもう、元に戻ることを望みはしない。春にはどうしようもないことも一人の力では叶わないこともたくさんあるが、今となっては取り返しのつかないこともあるが、だからと言って全てを諦め、息詰まるような今を受け入れることはできない。動かなければならない。考えなくてはならない。
「考えるって、大事なことなんだよね」
春が呟くと、隣にいた静乃が小首を傾げた。ありふれた青春映画みたいな台詞だと思いながら、苦笑気味に続ける。
「今までは目を逸らしてきたけど……どうにかなる、とか。どうにもならないから仕方がない、とか。そんな風に思ってたけど、それってただの逃げだったのかなって、今回のことで思って」
いつだって、先のことはわからなかった。兄妹二人で暮らそうと言ってくれた兄に対し、春は未来の不透明さを理由に曖昧な返答を繰り返してきた。だが今こそ考えるべきだと思う。
「私、もっと考えてみる」
だから、春は決めた。
「考えるのもすごく、何だか気が重いけど、辛いけど、逃げてもいられないから。考えることを止めたら、皆に悪いから」
兄も両親も、自分のことを好いてくれている。それだけは間違いのない事実だ。そういう人たちの為にまずできるのは、考えることだ。
考えて、それから兄と、両親とも話をしようと決めた。ある限りの言葉を尽くし、まだ不完全な胸のうちをできるだけでも伝えなければ。
考えるだけでも苦しいことだ、口にするのはもっと勇気がいるだろうし、上手く伝えるのも難しいだろう。それでも立ち止まることはもうしない。
まだ、どうしていいのかわからないけれど――。
「わからなくても考えなきゃ、いつまで経っても答えに辿り着けないから」
そう告げると、静乃には生真面目に頷かれた。
「うん。そうだね」
その生真面目さのお蔭でちょっと照れた。今のも、いかにも青春ぶった台詞だったような。
「何か恥ずかしいな……美和たちが聞いてたら、突っ込まれたかな?」
「案外と二人も、こういうの好きそう。むしろ一緒に言ってくれたかも」
「それはそれで恥ずかしいかな……」
美和と温子はもういない。二人とも春を気にしながらも下校していった。次にこの話をする時は、少しでも前に進めたと報告したいものだ。
下校時刻をとうに過ぎた教室には、春と静乃の他にも四、五人の生徒が残っていた。春たちが二人でぼそぼそと話をしているように、彼らもまた穏やかに、取り留めのない会話に興じているようだ。あまり騒がしくないのは人数のせいだけではなく、三月だからというのもあるのかもしれない。
教室からも窓越しに見える、校庭の桜の芽は日に日に膨らんでいる。あの公園の桜はどうだろうか。
「進路って、確かに難しいよね」
静乃が口を開いたので、春は視線を窓から彼女へと移す。おっとりした性格の友人は、物憂げな表情でさえも不思議と柔らかい。
「私もね、進路のことでお父さんと喧嘩したことあるの。お父さんは大学に行けって言うんだけど……」
「静乃は進学希望じゃないの?」
「ううん、まだ決めてないだけ。だってお父さん、『結婚する時有利だから』進学しろって言うんだもん」
四人の中で唯一『外様』ではない静乃は、それなりに裕福な家庭に育ったらしい。彼女の口からたまに語られる父親は実にワンマンで、頑固な人物のようだった。
「私、そういうの嫌だから……」
静乃は零したが、すぐに難しい表情になって、
「でも、お父さんの言うとおりにしたくないからって理由だけでは決められないもんね。言いなりが嫌だから進学しないっていうのもおかしいし、何より自分がどうしたいか、何になりたいかわかってなくて。だからいつも、上手く言い返せないんだ」
同じだ、と春は思う。
自分がどうしたいのかわからない。だから誰にも打ち明けられなかった。でも考えなければならない、高校を出たらどうするか。大人になったらどうするか。自分はどんな大人になって、兄とはどんな関係でいたいのか。
「春も、そんな感じ?」
確かめるように聞かれて、深く頷いた。
「うん。まさにそんな感じ」
それで静乃はどことなく安心したようなそぶりで応じる。
「そっか……。答え、見つかるといいね」
「ありがとう。頑張る」
差し当たっては今日、この後すぐだ。堂崎と会い、話をしなければ。
春は教室と、開けっ放しの戸口の先、廊下の方を眺めてみた。差し込む夕日のせいで影の色になった生徒たちがちらちらと歩き過ぎていくのがわかる。人気がなくなるのはもう少し経ってから、だろうか。それでも考える為の時間はごく少ない。
「春はもう帰るの?」
こちらの動作から何かを察してか、ふと静乃が尋ねてきた。今日の彼女は夕方から塾があるとのことで、それまでの時間を教室で潰すつもりらしい。もっとも、普段なら寄り道にも乗らずに塾へ向かっているようだったから、思案に暮れる春を気遣ってくれているのだろう。
そんな友人にどう嘘をつくべきか。春は一瞬だけ考えてからこう答えた。
「図書室に寄ってこうと思ってる」
「図書室? 本借りるの?」
「考え事するのには静かなとこがいいから」
「ふうん……確かにそうかもしれないね」
静乃は僅かにだけ怪訝そうな顔をしたが、突っ込んでくることはなかった。その反応を見た春も、そういえば今日は木曜じゃない、貸し出しのある日のはずだ、と思い出す。なのに以前と同じく図書室を指定してきたのは、いかにも兄らしい頑なさだ。
頑なな堂崎新はクラスに溶け込めないまま、一年次を終えようとしている。この一年間、ずっと兄のことばかり考えてきた春にも、それを解決する手立ては浮かばなかった。兄自身がそれを望んでいないのだから手の打ちようがない。
でも、本当にいいのだろうか。本当に何も、解決策はないのだろうか。
「もうすぐ、一年生も終わりだね」
とりとめのないことを春は呟き、
「うん……」
頷く静乃の目は教室の窓に向けられる。横顔はやや不安げだ。
「また四人で同じクラスになれたらいいよね」
「そうだね」
今度は春が頷く。
心からそう思う。そんなに上手く行くと期待はしていないが、夢を見るくらいは自由だ。せっかくいい友達が出来たのだから、また皆でクラスメイトになりたい――そこに堂崎を加えたいと望んでいるのは春と、せいぜい温子くらいのものだろうが。
静乃と同じように思ったらしく、そこでくすっと笑った。
「温子はきっと、堂崎くんと一緒がいいって言うよね」
その言葉は存外に優しく、春は意外さを覚える。美和ほどではないにしろ、温子もまた堂崎にいい感情を持っていないのだと踏んでいた。こと彼女は普段から、堂崎の言動に怯えるようなふしがあったから。
つい目を瞬かせた春に気づいてか、静乃はちょっと慌てたようだ。
「あ……あのね、私、堂崎くんのことそんなに嫌いってわけじゃないんだ。好きでもないけど……ううん、温子と同じ意味で好きにはならないけど、それに、やっぱり、怖いけど」
しどろもどろになり視線を逸らした後、急に小さな声になる。
「でもわかるような気がしてきたんだ、最近。同じクラスになったせいかな」
「堂崎のこと?」
春もつられてささやき声になってしまう。静乃がうん、と答える。
「私、堂崎くんとは中等科の頃から一緒だったから……その頃からずっと堂崎くんはあんな感じで、私はそれまで同じクラスになったこともなかったから、ただ暴れる怖い人ってイメージだった」
中学生の頃の堂崎を、春は写真でしか知らない。それでもあの目つきだけは忘れられなかった。
「でも高等科に来て、同じクラスになって、堂崎くんの印象、ちょっとだけ変わった」
静乃はやはり優しく言った。
「怖いのは今もだけど……仲のいい子、ほら、美和がよく巾着っていう子とか、そういう子とは普通に話したりもするし、それに勉強も必要な時はちゃんとする人なんだなって。最近は特に、最後まで授業受けてる日もあるし、何かイメージと違ったなって……」
黙って、春は語り続ける友人を見つめた。その視線をはにかみながら受け取った静乃が、
「だから思ったの。堂崎くんは私たちと、実は同じなんじゃないかって。堂崎くんにも考えたくないけど考えなくちゃいけないことがあって、仕方なくしなくちゃいけないこともあって、でも人に言われると素直に従ったりできなくて……そういうのがあるから、苦しいんじゃないかって」
一息に語り終えてから、ふと寂しげにしてみせた。
「全部、私の勝手な想像なんだけどね。きっと堂崎くんはそういう風に、人には思われたくないだろうし」
きっとそうだろう。春もその点には同意する。
だが春は、兄のことを考えてくれる人の存在を、無性に嬉しく思うのだ。
同じだ。兄も、静乃も、美和や温子も、それから自分も。もしかするとこのクラスにいる誰も彼もが似たような苦しみを抱えているのかもしれない。でも誰も、考えないわけにはいかないし、止まったままでもいられない。いつかは皆が動かなくてはならない。
そして春は一人ではないし、堂崎もまた然りだ。
自分のことを考えてくれている人がいる。
やがて、残っていた他のクラスメイトたちが、ぽつりぽつりと去っていく。いつしか春は静乃と二人きりになり、教室の窓から三月の校庭を眺めていた。
静乃は打ち明け話の後、ずっと黙り込んでいる。横目に見ても、俯いているので表情は窺えない。
何か言わなければと思った春は、しばらく悩んだ挙句、これも正直に告げた。
「堂崎にも、幸せになって欲しいよね」
言ってから微妙な言い回しだと思った。青春映画らしいといえばそうかもしれない。静乃はどう思ったか、すぐさま顔を上げた。
「そうだね。……温子だったら、すごく幸せにしてくれると思うんだけどな」
「うん、私も思う」
堂崎を幸せにしたいと願う人はきっと多いことだろう。そういう人たちを堂崎が、自然と頼るようになってくれたらいいのかもしれない。兄が望んでいるのは妹たる自分の存在だが、兄を幸せにする為の力はとてもとても大きくなければいけないから、自身のあり方にさえ悩む春一人では心もとない。
兄のことを案じる人はたくさんいるのに――温子や静乃だけではなく、もっとたくさん。春が考え出した時だ。
「あっ」
隣で静乃がびくりとした。何かを見つけたような反応。不思議に思いながらその視線を追えば、廊下に人影が見えた。主役よりも目立っているエキストラみたいに、この教室の前をゆっくり、行ったり来たりしている。それは体格のいい男子生徒で、差し込む夕日に、てかてかしたオールバックの髪が照りよく映えていた。
吉川だ。
「……ええと、巾着の人」
いやにたどたどしく口走った静乃は、その後でびくつきつつ疑問を投げかけてきた。
「何か、うろうろしてない? どうしたんだろう……」
吉川は廊下を不自然に往復しつつもこちらを見ない。声をかけたらまずいと思っているらしい、実際静乃がいる今は少し、まずい。ともあれどんな用事があって現れたのかは明白だ。
だから春は静乃に告げた。
「そろそろ、行こっか」