優しい嘘に呑まれないように(7)
――まさか。いるはずのない人の声に、春はとっさに目を開けた。
もちろん、声から想像した人物の姿は視界になかった。雨の日の淡い光の中、現れたのは知らない顔の中年女性だ。クリーム色のツーピースを着た上品そうなその人は、ふすまを支えに立つようにして、春と堂崎を不安げに見つめていた。
誰だろう。まず、そう思った。
次に思ったのは、でもさっきの声は確かに似てた、ということだった。
「何で……」
堂崎が春を捕まえたまま、女性を静かに睨みつける。
「何で、出てきた?」
問われた女性は一瞬言葉に詰まったようだったが、直に重い口調で答えた。
「喧嘩をさせたくなかったから。あなたたちにはこの家で争いになって欲しくなかった」
「放っとけよ。関係ねえだろ」
「ないことはないでしょう?」
「うるせえな」
堂崎は舌打ちし、ふと春の方を横目で見た後、いささか気まずげな顔になる。同時に肩を掴んでいた手の力が抜けて、支えをなくす格好になった春の身体がふらついた。どうにか体勢を立て直しつつ、内心でも春は混乱していた。
二言目以降にも思った。あの女性の声はやはり、自分の養母にそっくりだ。淡々とした話し方もどことなく。
姿かたちが似ているというほどではない気がする。確かにこの人も女性にしては割と長身だし、目は細く、顎は尖っている。年の頃も近いようだったから、きっと些細な共通点もより強調されて目に留まるだろう。でも顔つきは春の養母よりも、こんな時でも柔らかく見えたし、丁寧にまとめた髪にはつやもある。何よりこの人からは母よりも張り詰めたような余裕のなさを感じない。堂崎を見据える姿は落ち着き払っていて、隙のないようにも感じられた。
似ていない。――密かな観察を終えた春は、そう結論づけた。
似ているはずがない。――繰り返す言葉は自己暗示めいていた。
「新。私に話をさせてちょうだい」
女性は母親の声で言った。春は息を呑んだが、堂崎の反応も同じだった。
「なっ……何言ってんだよ。お前が春と、この期に及んで何を話すって?」
「少なくともあなたのように、春さんを問い詰めることはしないわ」
切り返された言葉に堂崎がぐっと詰まる。女性もそこで視線を外し、
「もっとも、今更だというのは否定出来ない。……あなたたちを苦しめている要因の、私はその一つなのに」
「……うるせえって。引っ込んでろ」
言いながらも、春の目の前で堂崎は俯く。そうしていると兄が急に小さくなってしまったようで、春は直視に堪えかねた。苦しいのかどうかはよくわからない、でも兄が苦しんでいるのは十分すぎるほど伝わってくる。
さっきの問いにも、せめてちゃんと答えが出せていたらよかったのに。
「私が話をするから」
女性は頑ななまでに言い募った。
「新、いつも言われているでしょう。あなたは答えを早急に求めすぎてる。でもあんなに問い詰めたら、春さんだって何を言っていいのかわからなくなってしまうわ。今だってきっと、何が何だかわからないって思ってしまっているはずだもの」
そこで春は頷こうかどうか迷ったが、結局黙ったままでいた。
わからないことはたくさんある。一番は、この人が誰かということだ。薄々察しはついていたが、それを認めてしまうともっと訳がわからなくなりそうだった。
「春さん」
こちらへ向き直った女性が、初めて聞いたはずの、なのに聞き慣れた声で呼びかけてくる。
「急なことでごめんなさい。でもあなたにもきっと、知りたいことがたくさんあるでしょうから……今日は私に時間をくれない? 私と話をしてちょうだい?」
「私、ですか。ええと……」
戸惑う春はもう一度兄を見る。
兄は春を見ない。俯いたまま唇を噛んでいる。
紺色の着物は似合わないわけではなく、だがこの姿で茶を点ててもらう機会は失われたのだろう。空気はすっかり変わってしまった。さっき、もう少し柔軟に答えられていたら叶ったのかもしれないが、春には出来なかった。
自分が悔やんでいるのかどうかも掴みかねていた。兄に対し、上手い答え方をしたところでそれが正しいはずはない。多分。
ひとまず、今の自分に選択権がないことだけはわかっている。
「……構いません。新さんさえよければ」
やがて、春は女性に対し、そう言った。
女性は表情を変えず堂崎へと問う。
「いいわね、新?」
堂崎は黙り込み、尚もしばらく俯いていた。怒りとも落胆とも知れない内心が、顔を隠す姿勢から窺える。春の反応をどう思ったのか、春自身には少しも読み取れなかった。
「あ、その……」
人前で兄を兄とは呼べず、春はそこで口ごもる。
途端に堂崎は弾かれたように身を翻した。女性のすぐ傍をすり抜けて廊下へ飛び出し、一言も残さぬまま走り去ってしまった。
足音は間もなく静寂に呑み込まれる。
「――ごめんなさい」
堂崎の姿を見送った後、女性がぽつりと呟く。
「私たち、結局はあなたたちを苦しめてる。こんなのは私たちで終わりにしようと決めてたのに」
春はまだ混乱していたし、兄が走り去ったことにショックを受けてもいる。そしてこの女性に対してどういう態度を取っていいのかも測れずにいた。ただ挨拶すらまだだということだけはかろうじて思い出せたから、慎重に切り出してみた。
「あの……あなたは、どなたですか」
女性はようやく、初めて微笑む。
「あ、そうだったわね。――私は新の母親よ。それから……」
何か言いかけたのか、その先を言うつもりは端からなかったのか。堂崎の母親は不自然に言葉を切ると、室内へ一歩踏み出してきた。行儀よくふすまを閉めてから、改めて春と相対する。
春を見つめる眼差しは優しく、やはり落ち着いていた。
「あの子、あなたにお茶を出したいと言ってた。本当はまだあまり上手くないんだけど、どうしてもって聞かなくて」
微かな笑いが湯の沸く音に掻き消される。
釜はずっと火にかけられたままだ。春がそちらを気にすると、堂崎の母親もフォローするように言った。
「後で片付けさせるから……話、しましょうね。手短にするわ」
それから控えめに尋ねられた。
「嫌でなければ、もう少し近くでお顔を見てもいいかしら」
そう聞かれて春は困ったものの、嫌だとまでは思わなかったから、恐る恐る首肯する。
「……はい」
「ありがとう」
感謝を述べた堂崎の母親が近づいてくる。最初の印象通りに背が高く、春は見下ろされる格好となった。細い目は一層細められて、それでもしげしげと眺めてくる。
そわそわと浮ついた気持ちを春は覚えた。照れとはまた違う、たとえようもない複雑さ。
この人にこうして会う日が来ようとは。
「写真で見ていた通り。やっぱり、あなたたちもあまり似ていないのね」
堂崎の母は感慨深げに言った。
「この家のきょうだいは皆一緒なのかもしれないわね。たとえ同じ日に生まれたってそっくりにはならない。だから、なのかどうかはわからないけど」
それからためらいがちに俯く。そうしていると堂崎の母は、堂崎には似ているような気もした。背の高い人なのに、時々酷く小さく見えてしまうところなど。
「私も、双子だったの。不思議なことにね」
声は別の人に似ている。
本当によく似ていた。十六年間育ててもらった春にさえ、区別がつかないくらいに。
「あなたのお母さんと、私。この家で同じ日に、同じ人から生まれた双子」
真実を口にした時、堂崎の母は痛みを覚えたように目をつむった。
春は逆に、目を見開いた。
「双子だった私が、また双子を、あなたたちを産むなんて、怖いくらいに不思議よね。私自身、とても怖かった」
腹部の前で両手をぎゅっと握り合わせて、
「あなたたちにはせめて、幸せになって欲しかった。私たちは決して幸せな双子ではなかったから……私たちはお互いにそう願って、幸せにしようって約束もしていたのだけど」
耳に馴染んだ声は次第に震え始める。
「でも、そうではないわね。私たちの約束はかえってあなたたちを引き合わせて、苦しめていただけだった。同じ目に遭わせないようにって考えだけに凝り固まってしまったせいで、あなたたちの気持ちまで察することが出来なかった……」