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優しい嘘に呑まれないように(6)

 着替えに時間がかかっているのか、兄はなかなか戻ってこなかった。
 この部屋には時計がない。今は何時だろうか、ここへ来てからどのくらい経っただろうか、どちらの疑問も確かめる術は目下ない。春は腕時計を持っていなかったし、そういえば携帯電話はジーンズのポケットに入れたままだ。普段からカバンにしまっておく癖がついているせいか、着替えた時に持ち出すということもせず、今の今まですっかり失念していた。これが学校に置き忘れたのなら急いで取りに戻るところだが、この屋敷を一人でうろつく気にはなれない。
 ――誰かに、会ってしまうかもしれないし。
 心の中で呟く春は、まだ『誰か』の気配を意識していた。向こうもそのことに、気づいているかのようにじっとしている。耳を澄ませても聞こえてくるのは静かな雨音だけで、後は何もわからない。
 不気味だと思う。
 兄といる時は考えないようなことも、一人きりだと次々思い浮かんでしまう。堂崎家のきょうだいたちがここでどんな人生を送ったか。どんな、不幸な目に遭ったのか。誰がどんな風に亡くなっていったのか、あるいは誰が、誰に、どんな恐ろしい手を用いてこの家で――。

 ふと、薄い影が白いふすまに一つ、映った。
 雨音のせいか、あるいはよそに気を取られていたせいか。廊下からは気配も何も感じられなかったので不意を打たれた春は思わずびくりとし、後ずさる。
 が、直後にふすまはあっさり開いて、
「悪い、待たせた」
 現れた兄は和装だった。表情は詫びている風でもない笑顔。それが、掛け軸の前で棒立ちになっている春を見てからは苦笑半分、残りはやや不審げな色に変わる。
「どうした? 顔、引きつってる」
 聞かれたから、春は答えた。
「……びっくり、した」
 たどたどしい言葉になった。心臓がやけに速い。堂崎がまだ不審さを消さないので不器用に言い足す。
「あ、足音」
「ん?」
「足音、聞こえなくて……」
「ああ。着物の時は音立てんなって言われてんだ。そういうの、うるせえから」
 うるさく言われている割に、堂崎は背後のふすまを後ろ手で、片手だけで閉めた。改めて浮かべた笑みも着物一つでは代わり映えしない。お召しちりめんの紺色は似合わないわけではないのだが、春の目にはいつもの兄が珍しく着物を着ている、という風にしか映らない。美和や温子が見たらそれぞれ別の感想を抱くのかもしれない、春はそんなことをぼんやり思う。
 堂崎は妹の視線に居心地悪そうな顔をする。
「何だよ。じろじろ見んな……いや、見てもいいけど何か言え」
「あ、うん」
 兄が照れているらしいのはわかっているのに、とっさの言葉が出てこない。先程の動悸をまだ引きずっていて、兄の顔を見た後も収まらない。むしろ不安が一層増した気さえする。
 あの『誰か』はまだ近くにいるのだろうか。
 自分と兄との会話にも、耳を澄ませているのだろうか。
 一度意識を逸らせば、潜んでいる気配も感じ取れなくなってしまう。いるのか、いないのかすらわからない。春は言い知れない不安を抱いたが、そんな妹に堂崎もまた落ち着かないそぶりを見せた。
「なあ、どうした?」
 真正面から尋ねられ、ひとまず首を横を振っておく。
「ううん、別に……」
「別にって風じゃないから聞いてんだ。さっきから妙にそわそわしてるし、俺のこと見てねえし」
「見てるよ、ちゃんと」
 春は笑った。その後で作り笑いの下手さを自覚し、それらしいことを言い訳してみる。
「あのね、携帯忘れてきちゃったの、それで」
 兄も即座に突っ込んで聞いてくる。
「どこにだよ。桂木の家か?」
「……服のポケット。さっき脱いだ時」
「なら大丈夫だ、あの離れには誰も近づかない。盗まれる心配はねえよ」
 ささやかな駆け引き混じりの会話を、堂崎は軽い口調で打ち切ろうとする。
「どうしても気になんなら誰かに取りに行かせるけど、どうする?」
「えっと、そこまでは、いい」
 春は慌てて遠慮した。春の方もこの流れを――表面上は何でもないのに、どことなく不穏な予感がする会話を断ち切ってしまいたい気持ちでいたのだが、堂崎はどういうわけかもう一度尋ねてきた。
「でも気になってんだろ? 大事なもんだし、手元に置いときたいだろ?」
「そうだけど、心配ないならいいよ。今は使わないし」
「俺があげたやつなのに、放っといていいのかよ」
「よ、よくないけど」
 あの携帯電話は宝物だ。春と堂崎とを繋ぐよすがだ。大事なものには違いない、だが。
「じゃあ取りに行かせるって」
 堂崎は言うなり袂から自分の携帯電話を取り出し、はっとした春は両手を振りながら制止する。
「本当にいいってば、私、気にしてないし」
「嘘だろ。相当気にしてるくせに」
「でもいいの、いいから」
「遠慮してんならやめとけよ。ここはお前の家でもあるんだから、遠慮なんて要らねえ」
 そう言った時、堂崎は唇だけで笑った。
「お前が使用人たちをこき使ったって、誰もお前を責めはしねえよ。お前は堂崎家の人間なんだからな」
 細く、鋭い目は全く笑っていなかった。そこにはいつかのような冷たさも、もちろん悪意や憎しみもなかったものの、追い詰めたがっている意思だけははっきりと読み取れた。
 堂崎は、知りたがっている。
「――平気、だから」
 もはや何について主張しているのかもわからないまま、春は訴えた。それでも堂崎は聞き流すように息をつき、
「一度、ちゃんと聞いときたかったんだ」
 その前置きに春は、もう一度後ずさりする。聞かれたくはなかった。
「春。お前がどう思ってんのか」
 真面目な顔をしても堂崎はあの父親と似ていない。穏和な印象はなく、かといって感情的でもなく、冷静であろうとしているのか張り詰めた表情でいる。春よりも背が高く、体格もいい兄は、春ともあまり似ていなかった。
「この家で、俺と暮らしたいって思ってくれてんのか」
 堂崎は首の後ろを掻く仕種の後、
「はっきり聞いたことなかったよな。いい機会だから、確かめときたい」
 立ち尽くす妹の傍まで歩み寄り、床の間の掛け軸の前で正対した。
 春は反射的に背筋を伸ばす。着物のせいで余計息苦しさを覚えた。
「今までは確かめるまでもねえって思ってたんだ。お前の気持ちは当然、俺と同じだろうって。でも――何となくだけどな、はぐらかされてんのかなって気もしてた。お前、いつもはっきりとは言ってくれなかったし」
 兄の、様々な感情を抑え込んだ声。
「桂木の家のこと、自分の家みたいに言ってることもあったしな。そういうのも気にかかった。お前、本当はあっちの家にずっといるつもりなんじゃねえかって。自分の家がちゃんと、ここにあるのに、帰ってこない――いや、帰ってこれないって思い込んでんじゃねえかって」
 あくまで淡々としている。言葉も出せず、呼吸さえ震えている春とはまるで違った。
「聞かせろ。春、お前はどう思ってる?」
 堂崎は問う。
「お前、帰ってくるよな? 俺と一緒にここで暮らす気、あるよな? 俺たちなら前の連中とは違って、絶対上手くやれるはずだ。幸せにだってなれる。お前もそう思うだろ?」
 春が容易には答えられないことを、続けざまに問う。
「桂木の家にずっといようなんて、思ってねえよな? お前の家族はあいつじゃなくて、俺の方なのに――」
 状況がもっと違っていたら、春は上手く切り抜けられたはずだった。はぐらかしていると指摘された通り、兄のそういった質問をいつも曖昧な言葉で、時に甘えるような態度で掻い潜ってきた。妹の顔をしていれば、たとえはっきり答えを口にしなくても兄は受け止めてくれたし、許してもくれた。
 でも今は、それも難しい。この部屋の傍に誰かがいるとしたら、春が堂崎と、兄妹でいられないとしたら。
 一人きりのときは確かに感じていた気配を、春はもう捕まえることが出来なくなっていた。目の前にいる兄に意識の全てを取り上げられていて、兄を裏切りたくない、傷つけたくない気持ちと、ずっと育ててくれた桂木の両親に対する罪悪感と、自分のすべきことを思い出そうとする意識とが必死の攻防を続けていた。
 春にとっての『家族』は誰だろう。
 暮らしたい家はどこだろう。
 わからなかった。 
「答えて、くれねえのか」
 落胆を滲ませる堂崎の呟きが聞こえ、春はいつしか俯いていた顔を上げた。しかしその時既に堂崎は別の表情をひらめかせていて、手にした携帯電話を掲げるようにした。
「じゃあ今から、桂木をここに呼ぶ」
「――ど、うして」
 動揺のあまりようやく声を発した春に、堂崎は目を伏せてみせる。
「だって、そうでもしなきゃわからねえだろ。お前がここの人間だってこと。あいつはお前の父親じゃなくて、ただの使用人なんだってこと。あいつ、俺の命令なら何だって聞く」
 その視線が再び妹へと向けられた時、兄は確かに憤っていた。
「きっとお前の命令だって聞く。それを確かめたら、お前だってわかるはずだ」
 わかる、だろうか。春は既に混乱していたし、養父とここで、そういう形で顔を合わせたいとは思っていなかった。むしろ嫌だった。逃げ出したくなった。
 兄のことは好きだ。誰よりも深く想っている。だが春の帰るところは桂木の家しかないと思っていたし、そこを失うわけにはいかない。堂崎の父も春に、この家で暮らしてもいいとは言わなかった――。
「わ、私、やだ」
 春は強くかぶりを振った。絶対に嫌だ。見たくない。会いたくない。
「呼ばないで。そんなの確かめたくない」
「確かめてえのは俺だ。そうでもしなきゃお前、答えてもくれねえだろ」
「だって答えられない!」
 叫ぶように答えると、堂崎は春を逃がすまいとしてか、携帯電話を投げ出して両手で春の肩を掴んだ。とうとう感情が堰を切って表に溢れた。焦りをあらわにして訴える。
「答えろよ! お前が嫌ならもう言わねえ、俺と暮らしたくねえって思ってんならそれでいい、でもお前、どっちとも言ってねえだろ! どっちかでも言ってくんなきゃ、俺だって諦めつかねえんだよ! 俺は……っ!」
 水色の着物に堂崎の指が食い込む。春は微かに呻き、堂崎はそれでも力を緩めず、揺さぶりながら繰り返す。
「俺はずっと、お前と一緒にいたかった! ずっと昔からだ、お前が必要で、欲しくて欲しくてしょうがなかった! 当たり前だろ、兄妹なんだから!」
 春は兄の面差しを、絶望の淵から見上げている。かつては強く心惹かれたその言葉を、どうとも受け止めきれずにいた。答えを出せない自分自身に苛立ってもいた。
 どうすべきか、がわからないのはまだいい。
 どうしたいのかがわからないのは、なぜか。
「答えてくれ、春!」
 堂崎が強く促してきた時、春は絶望から瞼を閉じ、
「――待って。問い詰めたりしないで、新」
 どこかからは声がした。
 目を閉じていたせいか、母の声に聞こえた。
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