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優しい嘘に呑まれないように(4)

「お正月はいつも着てるよ」
 春は兄の質問にそう答える。
「まだ自分一人では着れないけど……伊達締めくらいまでなら何とか、出来るかも」
 桂木家の正月はそのまま春の誕生祝いの日だったから、毎年母が着物を出して、春を着飾らせてくれた。綸子の着物は淡いクリーム色をしていて、梅と鶯を描いた落ち着いた柄行だった。それは母が嫁入りの時に持ってきた品らしく、春がお下がりを着られるようになった年、母は細い目を一層細めてとても喜んでくれたものだった。
 春も母の着物を着るのは好きだった。だが着付けとなると全てを自分でするのは難しく、着せてもらった際の記憶もあやふやだ。母の手際がいいことだけは覚えている。
 自信のなさは兄にも十分伝わったようで、途端に吹き出された。
「いいよ、無理すんなよ。俺が着せてやるから」
「私、着物を着るの?」
「ああ。もう用意してある」
 言うと堂崎は離れの玄関に入り、レインコートを脱いだ。コートの下は薄手のトレーナーにジーンズというラフないでたちで、それが春に違和感を抱かせる。
 どうして、着物に着替えなくてはいけないのだろう。そもそも自分用の着物がここにあるのだろうか。堂崎は洋服なのに、自分だけ着物になるというのも妙だ。
「とりあえず、上がれよ」
 ゴム長靴を脱いだ堂崎に促され、おずおずと春も離れに上がる。
「着物出すから、それまで髪拭いとけ」
 渡されたタオルを受け取り、髪を覆いながら辺りを見回す。

 そこは八畳ほどのこじんまりとした空間で、中に入るとなぜか懐かしい匂いがした。
 どういう用途で建てられたものかはわからないが、そこかしこにどことなく生活感がある。それも今ではなく、少し昔に誰かが住んでいたような――桐の文机は細かな傷が目立ち、鏡台の鏡掛けはいかにも年季の入った着物地だ。本棚の本は背表紙が色褪せており、並んでいるのは外国のおとぎ話が多かった。シンデレラ、いばら姫、白雪姫にラプンツェル。主な調度はその程度で、あとは堂崎が手を伸ばして点けたばかりの電灯と、これから開けようとしている押入れとがある。
 板紙の衣裳箱を引っ張り出した堂崎の背中に、春は髪を拭きながら尋ねた。
「ここって、お兄ちゃんの部屋?」
「違う。今は誰も住んでないから、俺が勝手に使ってる」
 堂崎は振り向かずに短く笑った。
「あっちが居心地悪い時はな。ここ、何か落ち着くんだ。引きこもるのにはちょうどいい」
 わかる気がした。不思議な匂いがするからか、初めて見た場所なのに、初めて来たようには思えない。それが日に焼けた畳のせいか、古びた本のせいか、あるいは降り続く雨のせいかははっきりしなかったが、春も奇妙に安らいだ気分になる。
 その春の足元に、堂崎は腰を落として衣裳箱を置いた。ちらと妹を見上げてから蓋を開け、更に布地を包む和紙も開いてみせる。
 中には長襦袢に帯、そして着物が一揃いしまわれていた。生地は水色に貝合わせの柄、帯は白地に桜の柄だった。一見して春はとてもきれいだと思ったが、その着物の真新しさには不安も覚えた。
「これ、どうしたの」
「買った」
 何でもないことのように兄は答える。妹がうろたえたのを見てか、微かに笑んで立ち上がる。今度は見下ろす位置から告げられた。
「お前の為に買った。今日、着て欲しかったから」
「で、でも、安いものじゃないんでしょう? こういうのって」
 予感はしていたが、本当に自分の為に買ってくれた品だったようだ。春にも着物の値段くらいは、詳しくはわからないにしてもある程度察しはつく。少なくとも自分の小遣いくらいでは、五年掛かったって手の届かない代物だろう。
「それはお前の気にすることじゃねえ」
 ばっさりと切り捨てた堂崎が、有無を言わさぬ調子で続ける。
「着てくれるよな?」
「お兄ちゃん……」
 春は答えに窮し、兄を呼ぶ。
 誕生日に貰った携帯電話だって高価だったのに、その上着物まで用意するとは、兄の金の使い方には理解しかねるところも多い。確かに堂崎家はこの土地でも指折りの財産家だろうが、それにしても。
「こういうの、よくないよ。私、別に普通の格好でもいいのに」
「俺だってこれから着物着るんだよ。お前が普段着だと変だろ」
「なら、お互いに普段着でもいいじゃない。わざわざ買うことないよ」
「買っちゃったもんはしょうがねえだろ。いちいち気にすんな」
「気にするよ! だって、お兄ちゃんにお金使わせちゃったなんて……」
「いいんだってば」
 堂崎はそこで、困った顔をしながら片手を挙げた。言いにくそうに、
「それ、金出したの俺だけじゃねえしな」
 またしても春は驚く。
「どういうこと?」
「だから、俺一人で買ったんじゃねえってこと。他に金出した奴もいる」
 そう語った時、堂崎は忌々しげにしかめっつらを作ってみせたから、春は堂崎の父の言葉をにわかに思い出してしまう。
 ――せめて歓迎させて欲しい。君が何の憂いもなく、我が家を訪ねてこられるように。
 あれは、もしかするとこういう意味だったのかもしれない。
 春は視線を足元に落とし、衣裳箱の中から顔を覗かせる水色の着物をしばらく見つめた。堂崎家で用意した品なら安価なものではないだろう。それを自分が身にまとうのはいささか場違いな気もした。
 でも、兄たちが自分の為に揃えてくれた品であるのもまた事実だ。むげにする方が失礼なのは間違いない。堂崎や堂崎の父に対し、失礼のないように、といつも春の両親は言っている。
「私がこれを着たら、お兄ちゃんはうれしい?」
 やがて春は兄にそんな問いを向け、兄の方はそれだけでぱっと顔を輝かせた。もっとも口ぶりはまだ疑わしげに、
「まあな。着てくれんのか」
「……うん。そうする」
 そしてしっかり頷けば、次の口調はたちまち穏和になる。
「ありがとな、春」
「お礼を言うのは私の方だよ。ありがとう、お兄ちゃん」
 内心ではまだ感謝よりも動揺を強く覚えている最中だったが、兄のしょげる顔は見たくないし、喜んでもらえるならそっちの方がずっといい。兄の気持ちにはなるべく応えたかった。今日は、特別に。
 ここへ来てしまった以上は、とことん兄の望むようにすべきだ。
「お前の礼は後にしろよ。着てみてからな」
 堂崎は少なからず浮かれたそぶりで長襦袢を取り出すと、春の身体の前面に宛がうようにした。一度顔を引いて眺めて、満足げな面持ちになる。
「よし……じゃ、早速だけど着るか」
「うん。えっと、長襦袢なら自分でも着れるよ」
「無理すんなって。俺が手伝ってやるから、まず服脱げよ」
 兄はあっさりと、その上あっけらかんと春に告げたが、十六歳の春はもちろん了承しなかった。兄の手から長襦袢をさらうようにして、
「自分で着れるったら」
「遠慮すんなって。どうせ慣れてねえんだろ、一から着付けてやるよ」
「そうだけど、でもいい。自分で着るから、おかしなとこだけ後で直して」
「お前な、こういう時こそ俺を頼れよ。お兄ちゃんだぞ」
 普段は頼もしく兄らしい堂崎新も、こういう局面ではいささか頼りないというか、鈍感だった。春は困り果て、わざと拗ねたように告げる。
「違うよ。恥ずかしいの」
「は?」
「脱ぐから、見ないで。あっち向いてて」
 そこでようやく堂崎は何か気づいた顔になり、じきにぱっと赤くなって、やたら慌てたように言ってきた。
「ちがっ、そうじゃねえって馬鹿! 俺はそういうんじゃなくて――そもそも俺たち兄妹だろ! 何を恥ずかしがることあんだよ!」
 でも春からすれば、たとえ双子の兄だろうと嫌なものは嫌だった。これが桂木の父だったとしても同じことで、つまりは春もお年頃なのである。
「駄目。見ちゃ駄目」
 本当に拗ねた春は頑として言い張り、根負けした兄の方は、釈然としない様子ながらもこちらへ背を向けた。

 堂崎の着付けは、春の母に負けるとも劣らないくらい手際がよかった。
 春が着た長襦袢の襟や緩みを手早く直し、水色の着物を羽織らせる。
「やっぱ俺が着せてた方が早かったんじゃねえか」
「恥ずかしかったんだもん」
「で、今は平気なのかよ。女って面倒くせえな」
 呆れたようにしながらも、春に触れる堂崎の手は気配りと優しさに溢れていた。襟を合わせるのも腰紐を結ぶのも、春が苦しくないかどうかをいちいち確かめてくれた。おはしょりの作り方や脇の整え方は実に見事で、そこまで来ると春は恥ずかしがっている暇もなかった。兄の大きな手が自分を着飾らせていくのを、まるで夢のように眺めていた。
 桜の柄の帯を貝の口で結んだ後、堂崎は鏡台の鏡掛けを外し、そこに春の姿を映した。水色の着物は目に眩しく、鏡の中の春は面映そうな顔をしている。堂崎は春の後ろに回り込み、乾きかけの髪を何度か手で梳いてから、ポケットから何かを取り出し春の髪にそれを飾った。――淡いピンクのトンボ玉が揺れる、可愛らしいヘアピンだった。
「よかった。似合うな、春」
 春の短い髪を飾ったトンボ玉を眺めて、堂崎は目を細める。春も思わずそこに触れながら、ころころした感触と鏡の中の淡い色合いを楽しんだ。
「これも、お兄ちゃんが買ってくれたの?」
「まあな。……これは俺が選んだ」
 それから春の顔を肩越しに覗き込み、からかうように囁いてくる。
「そんなにうれしそうな顔するなら、最初っから素直に着とけよな」

 古い鏡台には確かに、春のうれしそうな顔が映っていた。
 でも並んだ兄の顔だって同じことだ。同じくらいうれしそうに妹の晴れ姿を見つめている。
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