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優しい嘘に呑まれないように(3)

 十分ほど歩けば、やがて住宅街の中に佇む堂崎の家が現れる。
 広々伸びる石塀は霧雨にしっとりと濡れている。その上に覗く瓦屋根を雨水が伝い落ちると、二階部分の虫籠窓には水の格子を重ねているように見えた。

 石塀の周辺はただただ水音に満ちていて、人のいる気配はない。春と吉川が足を止めればより一層静かになった。アスファルトの路面には紺色の傘と透明な傘の、色つきの影が並んで映る。
「そういえば、聞いてなかったの」
 石塀を見上げる吉川に、春は小声で話しかける。途端に怪訝な顔をされる。
「何を?」
「私、どうやって中に入ったらいいのか。堂崎は玄関からじゃない、って言ってたけど」
「そっからだよ」
 石塀を顎で示し、吉川はビニール傘を畳んだ。たちまち長い前髪やスタジャンの肩が雨に打たれて湿り出したが、彼は構わず傘を塀に立てかける。そしてこちらへ向き直るや否や、何とはなしの不安を覚えた春に対してこう言った。
「心配すんな。後は堂崎さんがしっかりやってくれっからさ」
「ええと、心配って言うか……」
 春からすればそれ以前の問題だ。この辺の石塀には特に通用口も見当たらず、吉川の言った『そっから』がどこのことなのか、皆目見当もつかない。
 だが吉川は春の疑問も放ったらかしで、ジーンズの尻ポケットから携帯を取り出すとどこかへ掛けた。通話はせず、短く鳴らしただけで切ったようだ。春が自分の傘を差しかけようとすれば、困惑した様子で手を振ってくる。
「いいから。もうすぐ堂崎さん来るから」
「でも吉川さん、髪濡れてる。風邪引いちゃうよ」
「いいんだって。お前と相合傘なんてしてたら俺マジでやべーから。死ぬから」
 疎ましげな顔をした吉川は、そこで声を潜め、
「何か、さっきからわかってねえ感じの態度してっけどさ」
 どう切り出すべきか考えに考えたらしい間を置いてから、
「桂木……さんって、あれだろ、普段は少女漫画並みに鈍感とか言われちゃう子だろ」
「そんなの言われたことない」
「嘘つけ。とにかくな、少しは考えてみろよ。何で堂崎さんがお前を家に呼んだのかって」
 なぜかと言えば、妹だから。――なのだが、それはもちろん吉川相手には言えないし、言えないとなると春は答えようもないから微妙な顔をしているしかなく、その顔がまた彼にはいかにも鈍そうな、わかっていない表情に映ったらしい。はらはらした様子でぼやかれてしまった。
「大丈夫かよ……。間違っても振るなよ、堂崎さんのこと」
 勘違いはしていても、吉川が堂崎を案じているのは事実のようだ。兄が彼を傍に置く理由もわかるような気がする。
 しかし釘を刺されるのは困る。
 春が再び答えに詰まった時、石塀の向こうからはふと声がした。
「――来たか、春」
 兄の声は、降り染む雨の中に低く響いた。
 すぐに春は顔を上げ、まだ姿の見えない兄のいるところへ、声のした方へと目を向ける。お兄ちゃん、と呼びかけたくなるのを堪えて、返事をした。
「うん。来たよ」
「じゃあ早速だけど、こっちに来い」
 続けて堂崎がそう言い、春がその方法を尋ねようとした瞬間、更に言われた。
「吉川の肩借りて、塀を乗り越えろ。上に乗っかれたら後はこっちから下ろしてやる」
「……えっ」
 絶句した。石塀の高さは春の背丈をゆうに越えているし、堂崎の頭だって見えないほどだ。それを越えろとは兄も無茶を言う。
 春がぽかんとしている間にも、吉川は石塀の傍にしゃがみ込み、首だけで振り向くと『乗れ』とばかりに自らの肩を指差す。
 さすがに従えず、春は兄に向かって確かめた。
「本当にするの?」
「ああ」
「でも私、軽くないよ。それに靴底濡れてるし」
「吉川のことなら気にしなくていい、遠慮せず踏め」
 堂崎がそう言ったところで春は到底納得しかねたが、堂崎にとっても、吉川にとってもどうということはないらしい。それどころか吉川本人が急かすように春を睨みつけてきたので、しょうがなく従うことにする。
「じゃあ、……行くから」
 覚悟を決めて、宣言した。
 塀越しの声が少しだけ柔らかくなった。
「待ってる」

 紺色の傘を畳み、まずそれを石塀の中へ投げ入れた。
 すぐ向こう側には茂みがあるらしく、傘はがさがさ言う音に受け止められた後、兄の手によって確保された。後は、春だけだ。
 吉川の背中はすっかり色が変わってしまっていて、髪も湯上がりのように水分を含んでいた。春は靴底をまだ若干気にしていたものの、結局はその肩を借りた。彼の広い肩に片足を乗せ、支えてもらいながらもう片方の足も乗せ、そこで一旦ふらつきつつも塀に手をつき身体を支えた。手のひらにざらっとした、冷たい感触がある。
「大丈夫か?」
 吉川が尋ねてきた。
「う、うん。何とか」
「ゆっくり立つから落っこちるな――いや、落っこちないでください桂木さん」
 急に丁寧に言い直してから、吉川は本当にゆっくりと、むしろこわごわと立ち上がる。春の上体は不自然に浮き上がり、石塀に這うような動きで掴まれば、爪が硬い壁面を何度か引っ掻いた後、ようやく指先が塀の頂上部分を掴んだ。
 そこからが大変だった。春はどうにかして塀に乗ろうとしたが、普段ろくに鍛えていない腕では自分の身体を持ち上げることもままならず、二の腕が震えてびりびりしたし、一度濡れた塀で頬を擦ってしまった。その頃にはもう雨は着衣にも染み込み始めていたから、辛いのと痛いのと冷たいのとで、春は実に情けない気分でいた。まるで間抜けな泥棒みたいだ。
 それでも吉川が下から押し上げようとしてくれたので、その力を借りて数分後、どうにか登り切ることは出来た。
 塀の上の景色は地上と違った。視界の真ん中を通る塀を挟んで左側が先程までいたアスファルトの道路。役目を終えた吉川がさすがにくたびれた様子で、ぎくしゃく立ち上がるのが見えた。
 右側は背の低い立ち木が植えられた庭で、すぐそこには堂崎が立っている。こちらを見上げている。
 今日初めて会った兄は青いレインコートを身に着け、フードを被っていた。傘は差していなかった。目が合うとわずかにはにかみつつも、抑えた声を発してくる。
「よし、いいぞ。降りて来い」
「え、ど……どうやって?」
 こんな高いところから飛び降りる度胸はない。怯える春は塀の上で身を起こすのがやっとだ。降りろと言われたら眼下の景色が急に遠く感じられて、めまいがする。
 一方、堂崎は落ち着き払って、春に見えるように両手を広げた。
「落ちてもいい。受け止めてやる」
 春は、兄の申し出には素直に従った。迷わなかった。
 本当はジャンプして飛び込もうとしたのだが上手くはいかず、塀からほぼ垂直に落下する羽目になった。それでも堂崎はしっかりと受け止めてくれたし、既にずぶ濡れの春を強く抱き締めてもくれた。
「よく来てくれたな」
「……うん」
 頷く春の足元はもうアスファルトの路面でも、傘の色が映る水たまりでもない。靴底にもわかる土の柔らかさを感じ、背の低い木の枝がふくらはぎに軽く刺さるのもわかった。顔を上げればいやでも見えるだろう、瓦屋根の、古い日本家屋の佇まいが。この辺りでも一番大きい、永い歴史を生きてきた屋敷の姿が。
 とうとう、こちらへ来てしまった。
「傘差すから、少し待ってろ」
 堂崎は言って春の身体を軽く離すと、茂みに寄りかからせていた春の紺色の傘を拾い、それを開いて手渡してくれた。その後で塀の外へ声を掛ける。
「吉川。今日はご苦労だったな」
「いえっ、お役に立てて光栄っす!」
 吉川の声も塀越しに聞けば、妙にしゃきっと明るく響いた。堂崎は薄く笑い、
「恩に着る。気をつけて帰れよ」
「はい! お疲れっした!」
 威勢のいい、しかし心なしかボリュームを絞った挨拶の後、傘を開く音がして、次に走り去っていく水気を含んだ足音が、だんだんと小さくなりやがて聞こえなくなった。
 春は冷たい色の石塀を見つめている。外の景色を遮られてにわかに心細さを覚える。
 妹の胸中を慮ってか、兄はそっと肩を抱いてくれた。
「よく来たな、春。とりあえず中に案内する」
 肩を抱いたまま、堂崎は春を伴い雨の庭を歩いていく。春は兄に傘を差しかけてあげたものの、辺りを見回す余裕は皆無だった。ずっと俯いて、足元ばかり気にしていたから、兄が長靴を履いていることだけは確認出来た。

 そのうちに堂崎はどこか建物の傍で足を止め、目の前の引き戸をためらいも警戒もなくがらりと開ける。
「ここ、離れなんだ。まずはここに入れ」
「離れ?」
「ああ。先に支度とかあるしな、お前もそのままだと身体冷やすだろうし」
 どんなところに通されるのかと、春が恐る恐る視線を上げれば、ちょうど堂崎も妹の顔を覗き込もうとしていた。少し気遣わしげにも見える兄の目は、しばらく春に見入った後、不意打ちで質問をぶつけてきた。
「ところでお前、着物一人で着れるか?」
 春は少し考えてから、答えの代わりに聞き返す。
「……どうしてそんなこと聞くの?」
「用意してあるから」
「何を?」
「お前の分の着物。着れないんだったら俺が着つけてやるけど」
 後半の台詞を、堂崎は真顔で口にした。
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