あなただけを(1)
足音は十分に忍ばせたつもりだった。けれど爪先がスニーカーに入り込んだ瞬間、靴底が土間床に擦れた。ざらっと音がした。息を呑んだ直後にすぐ傍のふすまが開く。
とっさに振り向き、提げていた紙袋を後ろ手に隠した。
「――春。どこへ行くの?」
姿を現した母親は、緊張を孕んだ声で尋ねる。硬い表情がこちらを見据えている。春はおずおずと答えた。
「友達の家に行こうと……」
嘘だった。看破されるのも承知の上だが、こう答えなくてはならなかった。
母親は表情を変えずに応じる。
「元日からよそのお家へ行くのは感心しないわね。お止しなさい」
見つかったが最後、止められるだろうこともわかっていた。それでも容易く諦めはしない。元日だからこそ、春はどうしても出掛けなければならなかった。
「すぐ戻ってきます」
食い下がった。
「十分……いえ、五分でいいです。お願い、お母さん」
どうせ五分もあれば事足りた。堂崎の家まで自転車を飛ばし、屋敷と呼ぶに相応しいあの家の、高い石塀の向こうへ紙袋を投げ込むだけだ。そうすれば庭の隅に落ちるから、後で俺が拾ってやると堂崎自身が言ってくれた。中にもっともらしい言葉を並べたメッセージカードでも仕込んでおけば、たとえ俺以外の人間に見つかっても手元に届くだろう。そうも言っていた。
もちろん初めは反対していた。元日ではなくて、冬休み明けに落ち合って渡せばいいじゃねえかとしかめっつらで言っていた。頑なになっていたのは春の方だった。どうしても一月一日のうちに渡したいと主張した。春の頑迷さに堂崎が折れた格好で、この度の作戦決行と相成った。
しかし第一関門すら突破出来ないとは、よもや考えもしなかった。
「駄目です」
春の母親はにべもなく言い切った。
「部屋へ戻りなさい」
「でも――」
言い募る春を遮り、尚も続ける。
「もうすぐお父さんが帰ってくるわ」
父親は今、堂崎の家にいる。彼の十六歳を祝う誕生パーティの場で、使用人として働いているはずだった。春を養い育てている父親は、せめてもの温情と形容すべきか、元日だけは帰りが早かった。
「三人揃ったら、一緒にあなたのお誕生日パーティをしましょう。それまでは部屋にいなさい」
頑なさでは母親の方が勝っていた。その口調から緊張の色を読み取ると、さしもの春も折れずにはいられなかった。兄よりも、養母の方がずっと手強かった。
「……わかりました」
春は力なく頷く。それを見て、母親も居間へ戻っていく。ふすまが閉まり、玄関はしんと静まり返る。
今の春に、部屋に戻る以外の選択肢はない。
堂崎新と桂木春の誕生日は一月一日だ。
二人は今日、十六歳になった。
誕生日を一緒に祝いたい。堂崎はそう言い、春も内心では同じように願っていた。
叶わないことは知っている。堂崎家では今頃、『一人息子』の誕生日を祝う盛大なパーティが催されているはずだった。そこに主役の堂崎がいなくてはどうにもならない。抜け出してくると彼は言ったが、春は兄の評判をこれ以上下げたくはなかった。
だから、代わりにプレゼントの約束をした。
一月一日に必ず届けると約束した。その代わり、堂崎にも約束させた。パーティには真面目に出ること。決して抜け出したりしないこと。一見不満げに、それでも照れ笑いを隠せなかった堂崎と指切りをしたのは、去年の十二月、終業式の日だった。
自室に戻った春は、ややもせず畳の上へ座り込んだ。膝を抱えて目を伏せる。瞼の裏には先程の、母親の表情がちらついた。
堂崎が春と出会い、この家に足を運ぶようになってから、養父母の態度が明らかに変わった。表向きは今まで同様に穏やかで生真面目な両親だったが、時折ただならぬ緊張や怯えを見せた。二人は春に対して厳格に接し、外出や電話の使用を禁じることさえあった。春は両親の胸中を酌み、なるべく従順にしていた。それでも今日のような日は、自分の胸中だって酌んでくれたらと思ってしまう。
両親が何を恐れているのかはわかる。春が『堂崎春』に戻ってしまわないか、その可能性を危惧しているのだろう。あり得ないのに、あり得ないと春に教えたのは他ならぬ両親だというのに。
二人が血の繋がらない娘を、深い愛情をもって育ててくれたこともわかっている。春にも二人を裏切る気はまるでなかった。ただ、二人を想うように双子の兄をも想いたい。それだけだった。春には慈しんでくれる家族がいるが、兄には――。
堂崎には、血の繋がった両親がいる。案じてくれる使用人たちがいる。堂崎を慕う人間もたくさんいる。けれど彼の目には、たった一人しか映っていない。今日だってきっとそうだろう。あの大きなお屋敷にいて、大勢の人たちに祝福されながらも、堂崎は窮屈さを覚えていることだろう。抜け出したいと思っているだろう。春の元へ来たいと、そう願ってくれているに違いなかった。
春は思っている。本当は、堂崎に気付いて欲しい。彼のことを想う人たちのこと。彼を想っているのが春だけではないこと。気付かせる為に、自分は兄の傍にいるのだと思っている。それが再会と引き換えに与えられた、自らの役目だ。
でも、今日だけは。今日は双子の兄妹が揃って生を受けた日だ。春は自分の手で堂崎を祝いたかった。妹としてではなくてもいいから、せめてクラスメイトとしてでも。
「……駄目、かな」
声になるかならないかくらいの吐息を、春はそっと零した。
そして、握り締めたままだった紙袋――兄への誕生日プレゼントを目の端に見た。中身はタオルと小さなメッセージカードだけ。春が少ない小遣いから捻り出した贈り物だった。
窓の外はもう日が傾き始めている。一月一日も他の日と同じように、二十四時間しかない。父親が仕事に行っている間、母親の隙を突いて出掛けようと思っていた。あれだけ強く咎められれば、反抗する気ももう起こらない。
その時、家の呼び鈴が鳴った。
旧式の呼び鈴は震えるような低い音を立て、すぐに母親が玄関へ出て行くのが聞こえた。玄関の戸が開き、微かな話し声がする。来客はどうやら男のようだ。それだけで春はびくりとした。
まさかと思う。まさか、堂崎が来てくれたのではないだろうか。春との約束を破って。いや、春の方こそが約束を破ろうとしているのを察したのかもしれない。もしくは端から、春が約束を守れるとも思っていなかったのだろうか。彼は春の養父母をも信用していないそぶりを見せていたから、もしかするとこの状況も予測していて――。
「春」
部屋の前で母親の、強張った声がした。
「あなたにお客様よ。吉川さんって方」
「え?」
告げられたのは予想に反して、まるで聞き覚えのない名前だった。
吉川と名乗った少年は、玄関にはいなかった。
戸を開けてすぐのところに立っていて、春が出て行くとはっとしたように顔を上げた。体格がよく、安っぽいベンチコートが不似合いに見える。長めの前髪の隙間から、春を検分するようにじろじろ見ていた。年の頃は春と同じくらいのようだったが、春には吉川という名前に思い当たる節がない。顔にもあまり覚えがなかった。
戸惑っていれば、少年の方が口を開いた。
「桂木……春、だよな? 堂崎さんと、同じクラスの」
吐く息が白い。
物言いから察するに、彼も春のことをよく知らないようだ。春はぎくしゃく頷き、吉川はまた無遠慮な視線を向けてくる。
「堂崎さんに頼まれた。これ、渡してくれって」
目線は外さず、彼がビニールの包みを押しつけてくる。慌てて両手で受け取ってから、ようやく声が出せた。
「これ、何?」
「知らねえ」
吉川は自分の前髪を気にするように、指先でつまんでいた。
「俺はただ、堂崎さんに頼まれただけだからな。住所とあんたの名前だけ聞いてた。後は何にも知らねえから」
少し意外な思いで、春は吉川を注視した。兄が頼み事をする相手だ、気にならないはずがない。それでなくとも堂崎は、他人をあまり信用していないそぶりだったから。
「あなたは誰? 堂崎とは、友達?」
春が尋ねると、吉川は大急ぎでかぶりを振った。
「違えよ。俺は堂崎さんに舎弟にしてもらってんだ。友達なんてそんなの、畏れ多いっての」
「……ふうん」
舎弟、という単語には引っ掛かりを覚えた。堂崎新は札付きの不良として有名だ。友人はいなくとも、そういう付き合いはあるらしい。兄の素行を憂う妹としては、いささか複雑に思う。
そういえば、クラスメイトの美和あたりが言っていたような気がする。堂崎の腰巾着が何人かいて、校内を闊歩する時にはいつも付き従っているらしいと。そのうちの一人は確か、吉川という名だったような――。
当の吉川が、手持ち無沙汰な様子で前髪をかき上げた。その瞬間の顔には覚えがあるような気もした。普段は不良らしく、髪を下ろしてはいないのだろう。
腑に落ちた春は、ようやくビニール袋の中身を覗いた。入っていたのは携帯電話だ。ぴかぴかの新品だった。そしてメッセージカードが添えられていた。そこには堂崎の字で一文だけ、記されていた。
――午後四時に電話をするから、必ず出ろ。