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短気な男子学生と無関心なクラスメイト(2)

 畳敷きの部屋は二人が黙ると、不気味なくらいに静まり返る。両親は家の中にいるのに、息を潜めているみたいに気配がない。春はそういう不気味さをなるべく気に留めまいとしている。
「ね、約束して」
 春は堂崎の額を撫で、それから指先で髪を梳いた。整髪料の要らない短い髪は、毎日いい匂いがしている。堂崎が反射的に瞼を伏せたのがわかった。
「冬休みが始まるまでは、せめてちゃんと授業を受けるって」
「じゃあ、冬休み明け以降はいいんだな?」
 口では生意気なことを言いつつ、目を閉じている堂崎に教室での険しさはない。猫の喉元を撫でてやっているようなものだ。春は密かに笑いを噛み殺す。
「もちろん、ずっと真面目に授業を受けてくれた方がいいよ。でも、すぐにやってって言っても難しいでしょう? 順繰りに慣らしていけばいいよ」
 こうして二人でいる時は、堂崎もこの上なく素直だった。教室でも普通に言葉が交わせたら、今日のような出来事もなくなるのだろう。でもそういう訳には、どうしても、いかなかった。
「それと、先生には乱暴な口を利かないこと。物を殴ったりしないこと。いらいらしてもぐっと堪えること」
 続けて羅列すると、堂崎の目が開いた。睨まれた。
「春、注文が多い。同い年の癖に偉そうに」
「別に偉そうにしてるつもりはないけど」
「一つにしろ」
「じゃあまず、授業のことだけでも守って」
 自分と同じ十五歳の堂崎に対して、まるで小さな子にするように、春は小指を差し出した。膝の上の表情が一瞬むっつりと不機嫌そうになっる。しかし結局は不満を唱えることもなく、自発的に小指を絡めてきた。
「指きりげんまん」
 思わず春は微笑む。
 堂崎もほんの僅かにだけ口元を緩めた。そういう微々たる変化は春だからこそ見つけられるのかもしれない。
 そして、堂崎が穏やかなトーンで言う。
「交換条件だ。俺も春に、約束して欲しいことがある」
「なあに?」
「もうすぐ誕生日だろ。来年の正月」
 堂崎新は一月一日生まれだ。温子を始め、多くの女の子たちが誕生日プレゼントを考えていることだろう。春はそんなことを思いつつ、彼の言葉の続きを聞く。
「出来れば一緒に過ごしたいんだ、春と」
 告げられた内容に、今度は春の方が目を伏せた。
「……無理だよ。そっちの家ではパーティもあるんでしょう?」
「そんなの、お前の為ならいくらでも抜け出してくる」
「駄目。そんなことしたら私が叱られるんだから」
「誰だ、春を叱る奴って。そいつは俺がぶっ飛ばしてやる」
 あながち冗談でもない口調で堂崎が言ったから、春は彼をたしなめなければいけなくなった。こういう時の最終手段は『魔法の言葉』しかない。
「――お兄ちゃん」
 最も正しい呼び方を、春は口にしてみせた。もう一度。
「駄目だよ、お兄ちゃん」
 春が堂崎をそう呼ぶと、堂崎は全ての思考を放棄したように諦めの溜息をつく。
「そう、だよな」
 それからようやく、春の膝の上から状態を起こした。
「しょうがねえよな」
 確かに、しょうがない。堂崎の気持ちがわかる分だけ、掛ける言葉も見つからない。しょうがないとかどうしても駄目なんだとか、そんなフレーズだけで納得出来るような兄ではないのに。
 押し黙る春を見てか、彼は取り成すように言い出した。
「ノート、見せてくれよ。写すから」

 桂木春の誕生日は一月一日だ。
 堂崎新と桂木春は、同じ日に、ほんの数十分の差で生まれた。父親も、母親も同じだった。数十分の差ではあったが、堂崎が兄で、春が妹だということははっきりしていた。
 堂崎家は古くから連綿と続く名家であり、非常に多くの資産を有してもいた。だからだろう、後継者争いという影は常に付きまとい、過去には怪死を遂げた者もいたようだ。争いの火種を元から絶とうとしたのか、いつしかこの家には一つのしきたりが生まれた。
 すなわち、跡取りとなる子どもは一人だけにすること。二人目以降が生まれた場合は使用人の家へ養子に出すこと。
 堂崎と春はほんの数十分の差で命運が分かれた。二人の母親は双子を身ごもったと知った時、産むことに迷ったという。しかし結果として二人はこの世に生を受け、生まれてすぐに春は、妹だからという理由だけで桂木家の養女になった。
 幸いにして春の養父母は、子どもの育て方に長けていた。夫婦揃って従順な、物静かな性質で、春にもそういう生き方をするよう説いた。物心ついた時、春は自らの出生について養父母から聞かされた。そしてその上で、堂崎家を出されたこと、桂木家に来たこと、自分に堂崎家の後継者としての資格はないことを理解させられた。幼い春が全てを飲み込むには十五歳になるまで掛かったが、今はおおよそを理解し、納得もしていた。春にとっては養父母こそが家族であり、顔も知らない両親や双子の兄について深く考えることはなかった。
 しかし、堂崎新は違った。彼がどういう経緯で双子の妹の存在を知ったのかは春にもわからない。誰かが何らかの意図を持って告げたのかもしれないし、あるいは全くの偶然で知ってしまったのかもしれない。どちらにせよ、わがまま放題で育った堂崎新にとって、しきたりという不可抗力の存在は怒りと憎しみの対象となった。同時に春のことをそれまで隠し続けてきた周囲に対し、疑いの目を向けるようになった。そのせいか中学時代の堂崎は自暴自棄になり、手のつけようがないほどに荒れていたと聞く。
 素行不良の堂崎新に対する特効薬として、高校受験を控えていた春に、初めて堂崎家の人間が接触してきた。そして兄と同じ高校へ進学すること、兄のお目付け役となることを依頼された。話を聞いた春の養父母は不安げにしていたが、従順かつ物わかりのいい春は、その依頼に唯々諾々と従った。
 もちろん決して楽な役目ではなかった。周囲の人間には兄妹であることを、堂崎新には仕組まれた再会であることを決して悟られてはならなかった。春は兄と同じ高校に入学し、そして偶然を装いクラスメイトとして接触した。兄の方は一目見るなり春を双子の妹だと見抜き、再会を心から喜んでみせた。妹を古いしきたりの被害者だと思い込み、共感と信頼を寄せる兄。兄の更生を務めとし、運命に従順に生きる妹。二人が打ち解けるのにそう時間は掛からなかった。二人は周囲に知られぬよう、校外で密かに会うようになった。そして――。

 畳の上に座卓を置き、堂崎がノートを取っている。
 シャープペンシルの走りは滑らかで、文面を追う眼差しは真剣だった。こうして見るととてもではないが札付きの不良とは思えない。成績も素行も優秀な生徒に見えて、春は少しの痛みを覚える。
 彼が道を外れてしまったのも、元はと言えば春の存在を知ったからだ。そのことさえなければ多少わがまま坊主だろうと甘ったれだろうと、大人になるうちに分別もつき、堂崎家当主として相応しい人間になれただろう。でも今の彼ではそうはなれない。だからこそ堂崎家の人間も、自分に助けを求めてきたのだ。
 実のところ、特効薬としての春も言うほど目覚しい効果を上げている訳ではなかった。授業中はもちろん、校内では堂崎に声を掛けることも出来ない。堂崎が短気な行動を起こした場合も、春は校舎の中では無力で、無関心を装っているばかりだった。そして堂崎は、歪なほどに春しか見ていない。双子の妹以外の人間を気に留めるそぶりもなければ、信用してみせることもなかった。
 堂崎には春が必要だ。春自身、そのことはわかっている。数十分違いとは言え兄は堂崎の方なのに、甘えられるのはいつも春の方だった。彼に必要なものを与えられるのが春だけであってはいけないのだとも、わかっている。なのに春以外の誰もがそれを与えようとしない。だから。
「……何だよ、じろじろ見て」
 春の視線に気付き、堂崎がこそばゆそうに声を上げる。はっとした春は慌てて首を横に振る。
「ううん、何でもない」
 作られた偶然であっても、ようやく再会出来た双子たち。この関係ですらいつまでも続くものではないだろうが、だからこそ全てが終わってしまう前に、彼が変われたらいいと思う。堂崎家の当主として相応しい人間になってくれたら。
 妹の心は知らないだろう、兄がふと小さく呟く。
「いつか、だけどな」
「……え?」
「俺たち……一緒に暮らせるようになったらいいよな」
 彼のペンが止まっている。春も、呼吸を止めた。
「誕生日を一緒に祝えるようになれたら。血の繋がった家族なんだし、本当はそうすべきだ。春もそう思うだろ?」
 言った後で堂崎は、照れ笑いを噛み殺すように唇を結んだ。春の方を見ようとしない。今の言葉も、口にするのに相当の勇気が要ったはずだ。
 しかし春には、その言葉を肯定する力はない。
 返事の代わりに告げるのは、いつだって魔法の言葉、だけだった。
「お兄ちゃん」
 たしなめる為の呼び方。短くそう呼ぶだけで、彼の表情が変わる。諦念の色が過ぎる。
「無理な話じゃねえと思ってるけどな」
 それでも、堂崎は言い募る。指先でペンをくるくる回しながら。
「俺が当主になったら、あんなしきたりなんて変えてやるから。な?」
 当主の座を継げるほどに大人になっていたら、その頃にはきっと、彼も気付いているだろう。
 桂木春が『堂崎春』に戻ることを許される日は、堂崎新がいる限り、決してやって来ないのだと。呼び戻される時が来るとすれば、それは――新ではない後継者が必要とされる場合だけだ。
 その日が来て欲しくはないと、春は思っている。
 心からそう願っている。

 日が暮れる頃になると、春の養母が部屋を覗きに来た。
 養父母は堂崎がいると妙によそよそしくなり、そして緊張を隠さなくなる。今日も、彼の帰宅が遅くなっては大事だと、声を掛けにきたらしかった。お帰りになってはどうですかと使用人の口調で告げられて、堂崎は不機嫌そうに立ち上がった。
「長居するとお前が叱られるだろうから」
 彼は春にそう言ってきた。春は黙ったまま、否定はしなかった。
 玄関まで付き添い、堂崎がスニーカーを履く姿を背後から見守った。兄の背中は広く、なのに春のしがみつく余裕はなかった。
「さっきの言葉、冗談じゃねえからな」
 靴を履き終えた後で彼は言った。ノートを写す時と同じく、真剣な眼差しをしていた。
「誕生日だって本当は、一緒に過ごしたい」
 縋るような口調をされると、春も上手く笑えなくなる。まだ十五歳だ。理解出来たばかりの運命の、理不尽さはわかっている。ようやく飲み込めるようになったばかりだ。
「……ごめんね、お兄ちゃん」
 養父母に聞こえないよう、囁き声で春は告げる。
 囁く時もたしなめる呼び方にしかならなかった。本当はもっと違う呼び方がしたかった。甘えるように呼んでみたいと思っていた。縋るように呼んでみたいと思っていた。そうするには、春は運命に従順過ぎた。理不尽であっても、兄の望む通りではなくとも、従わなくてはならない。
 妹の答えを聞き、兄は首を竦めた。
「別に、気にすんなよ。今はしょうがねえってわかってるし」
 そして穏やかに笑いかけてくる。
「いつか、な」
 彼の言う『いつか』はいつ、やってくるのだろう。
 十五歳の春にはわからない。来るのかどうかも。来ないように、自分がふるまえるかどうかも。
「それより、約束守ってね」
「約束? 何だっけ」
「もうっ、授業のことだよ。冬休みまで真面目に出てってこと」
「ああ、そうだそうだ。すっかり忘れてた」
 先程とはうって変わった不真面目そうな笑みを、堂崎は浮かべた。すかさず春も言い返す。
「守ってくれないと、誕生日プレゼントはサボった分の授業のノートになるよ」
「それ最悪だろ。絶対守るわ」
 堂崎は、春の言葉には従順だ。果たして運命にはどうだろうか。

 十五歳の春にはわからない。先のことはわからない。春もまた、歪なくらいに堂崎しか見ていなかった。
 もうすぐ双子は十六歳になる。
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