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夜を駆ける

 夏の暑さが苦手だから、日中はあまり外に出たくない。
 例えばコンビニに行くみたいなちょっとした用なら、日が落ちてから出かけることにしている。
 今夜もアイスが食べたくなって、家族に告げて外へ出た。家からコンビニまでは歩いて十分もかからない距離だ。夜の道はじめじめと蒸し暑いけど、日差しがない分だけ全然ましだった。夜でも眩しい照明が点る店内に入ったところで、財布と一緒に持ってきたケータイが鳴った。
 鈴木からだった。
 あたしはお店の入り口でUターンをすると、駐車場まで引き返してから電話に出る。
『上野、今ひま? ちょっと声聞きたい』
 鈴木からの電話はいつも唐突だ。メールなり何なりで『電話していい?』なんて聞いてくることがない。あたしと繋がらなければそれでいいし、たとえあたしが忙しくて『今は無理』と言ったって、その声が聞けただけでいいと言う。
 あたしもそういう突発的な連絡にはすっかり慣れてしまって、暇な時はできるだけ付き合うようにしている。
「暇だけど、今買い物に出てるんだよね」
 かけ直そうかと尋ねる前に鈴木が質問を被せてくる。
『買い物? どこに?』
「コンビニ」
『どこの?』
「国道沿いの。隣にお弁当屋さんあるとこ」
『ああ、そこか。んじゃちょうどいい、俺も行くわ』
「えっ、来るの? もう夜遅いのに」
 別に来て欲しくないわけでも、会いたくないわけでもない。ただこんな時間に会ったってあんまり話せないんじゃないかと思っただけだ。あたしはアイス買ったらすぐ帰るつもりだったし、あんまり遅くなったら親も心配するだろうし。
『そこのコンビニだったら走れば五分で着くし、すぐ行くから立ち読みでもしてろよ』
 既に来ることは決定済みのようで、鈴木は宥める口調で言った。
 あたしとしても、しつこいようだけど会いたくないわけじゃないから、嬉しさを押し隠しつつ答えておく。
「走んなくていいから気をつけてきてね」
『了解! 走んないで超速急ぎ足で行く!』
「だから急がなくていいってば」
『一刻も早く会いたいんだからしょうがないだろ。じゃ、あとで!』
 鈴木は声を弾ませて応じると、電話を切った。

 あたしは言われた通りにコンビニの中で雑誌を読んでいた。
 すると電話をしてから五分経ったか経たないかという頃合いで自動ドアが開き、肩で息をする鈴木が店の中に入ってきた。おでこの汗を拭いながらもすぐに雑誌コーナーに目を向けたかと思うと、あたしに気づいて満面の笑みを浮かべる。
「お待たせ、上野。ありがとな、付き合ってくれて」
 甘やかすような優しい声だった。
「あ、うん」
 読んでいた雑誌を棚に戻し、あたしは何となく首を竦める。
 学校以外でも鈴木と会うようになって少し経つけど、未だに顔を合わせると微妙な気持ちになる。何かこそばゆいって言うか、どんな顔してればいいのかさっぱりわかんないって言うか。
 こういう時ってなんて言って出迎えればいいんだろ。待ってたよっていうのも変だし、いらっしゃいっていうのも、別にここあたしの家じゃないからもっと変だ。
「鈴木は何か買う?」
 挨拶を考えるのが面倒になって尋ねると、鈴木はちらっと店内を見回して、
「せっかく来たんだし、冷たいもんでも買って帰ろっかな。上野は?」
「あたしもアイス買いに来てた」
「そっか。じゃ、一緒に選ぶか」
 あたし達は頷き合い、アイスがたくさん入った冷凍ケースのコーナーへと店内を移動した。
 コンビニのアイスはスーパーで買うよりも割高だけど、お店は二十四時間開いているからいつでも好きなときに買いに来られるのがいい。最近はコンビニでしか買えない限定品も多くて、それがまたとびきり美味しいので買いに来る度目移りしてしまうのが困った。
「何にしよっかな。こんなにいっぱいあると迷うな、どれも美味そうだし」
 鈴木もそう言いながら、冷気漂うアイスケースを覗き込んでいる。黒いTシャツの袖から伸びる意外としっかりした腕が、ケースの中からアイスを一つ引き上げた。青いパッケージに入ったソーダのアイスだった。
「まあでも、迷ったらこれだよな。夏と言えばソーダ味!」
 言われてみるとソーダは夏のイメージだ。冬にアイスを食べたくなっても、不思議とソーダ味には手が伸びない。
「じゃあ、あたしもこれにする」
 宣言してからケースに手を突っ込もうとしたら、それより先に鈴木が二本目を引き上げて、私に手渡してくれた。
「ありがと」
 お礼を言うと鈴木は当然って顔で笑う。
「もう買うもんないよな。溶ける前に会計しよ」
 それであたしと鈴木はコンビニのレジに並び、ソーダアイスを購入した。二人とも、コンビニの白いビニール袋は断って、アイスにシールを貼ってもらった。
 そして二人でお店を出ると、鈴木は早速アイスのパッケージを開けてソーダアイスを取り出し、パッケージはお店の前のゴミ箱に捨てた。
「食べてくの?」
「持って帰っても家に着く前に溶けそうだし。上野もそうすれば?」
 鈴木はもちろん、あたしもお行儀にうるさい方じゃない。鈴木の真似をしてアイスのパッケージを開けた。
 そんなあたしを見て、鈴木は嬉しそうに目を細めながら青いアイスにかじりつく。しゃくっと冷たそうな音がした。
 あたしもすぐに後に続いた。鈴木に釣られるように買ったソーダアイスは、期待通りの夏らしい味がした。口の中いっぱいに冷たさが広がり、飲み込むと喉の奥からお腹まで一気に涼しくなっていくように感じた。
「食べながら歩こ。上野ん家まで送ってくから」
「いいの? 遠回りでしょ、鈴木」
「平気平気、大した距離じゃないって。さー行くぞ、上野」
 このコンビニからあたしの家までは約十分。ちょうど反対方向にある鈴木の家までも多分、そんなもんだと思う。つまりあたしの家まで二人で行けば、鈴木は家へ帰るのに三十分もかけてしまうことになる。それを大した距離じゃないと言い切られると反応に困る。
「つか声聞きたくて電話したんだし、一緒にいられるなら何でもいいんだよ」
 鈴木はさらりと言って、コンビニから離れるようにゆっくり歩き出す。
 あたしはむしろその声に手を引かれる気分で、黒いTシャツの背中を追った。

 正直に言えば、鈴木が一緒に帰ってくれるのは心強かった。
 あたしももう高校生だし、何を怖がる歳でもない。でもコンビニ前の道路から逸れて住宅街の奥に踏み込むと、街灯がぽつぽつ立っているだけの静かな夜道だけが家まで続く。こんな時間だと家ばかりの街並みはどこもかしこも静まり返っていて、履いてきたサンダルの硬い足音がいやに響くから不気味だった。昼間は明るく咲き誇って見えるどこかの家のひまわりの行列も、夜に見るとこちらをじっと凝視する知らない人々みたいで妙に怖かった。
 心強いと言うなら夜道に限った話じゃない。近頃は鈴木が傍にいるとなぜかほっとした。鈴木がちょくちょく電話をかけてくれたり、声が聞きたいといってくれたり、今夜みたいに会いに来てくれることに何とも言えない安心感を覚えた。安心、と言うとちょっと違う気がするけど、他にふさわしい単語をあたしの頭では思いつけない。
 ただ、コンビニを離れた直後はお互い口数が少なかった。放っておくとアイスが溶けて、棒から滑り落ちてしまうからだ。
「なーんだ、外れかあ」
 鈴木は既にソーダアイスを半分まで食べてしまって、棒に何も書かれていないことを嘆いていた。
 それから並んで歩くあたしの口元に目をやる。
「上野は? 当たった?」
 残念ながらあたしは当たり外れが確認できるところまで食べられていなかった。慌てて大きくかじりついたら、鈴木が声を立てて笑う。
「ああ、そんな急がなくていいって。頭がきーんってなっちゃうぞ」
 ゆっくり食べたいのはやまやまだけど、夜でも蒸し暑い空気のせいでアイスは早くも柔らかくなり始めていた。だからあたしは頭痛を恐れずに食べ進め、時折冷たい息を吐き、そしてお腹まで冷たくなったところで棒を確かめた。鈴木と同じく、そこには何も書かれていなかった。
「あたしも外れ」
「ならお揃いだ」
「そだね。あんま揃っても嬉しくないけど」
「まあな、確かに」
 でも鈴木は嬉しそうにしている。あたしがアイスを半分食べた頃にはもうすっかり食べ終えて、平べったいアイスの棒だけを指先でふらふら振り回している。
 明かりの少ない夜道だからだろうか。そんな鈴木の横顔も、夜のひまわりと同じように昼間とは違って見えた。話し声も笑顔も妙に落ち着いていて、ちょっとだけ大人っぽい。夜も遅いからいつもみたいに騒いだりしないで、静かにしているせいかもしれない。
 思えば、鈴木と夜に会うのは初めてだった。二人で会うようになったのはこの夏からだし、門限があるから暗くなるまで一緒にいたことはなかった。
「……ん?」
 鈴木があたしの視線に気づいて、不思議そうにする。
 その頃にはあたしのアイスも残り一口になっていた。それを食べてしまってから、切り出した。
「鈴木と、夜に会うのって初めてだよね」
 すると鈴木は夜空を見上げるようにして考え込み、
「そう言やそうだな」
「でしょ?」
 あたしも鈴木の真似をして、アイスの棒をペンみたいに振り回す。
「だから何か変な感じ。普段は会えない時間に会えてるって」
 変、というのも違う気がする。でもこれも上手く言えない。
 そのせいで鈴木はちょっと複雑そうにしていた。
「変かなあ。嬉しくない? 俺はこの初めてのシチュエーション、すっげー喜んでるのに」
「嬉しくないなんて言ってない。珍しいから変って言っただけ」
「あ、そっか。ならいいや」
 あたしが否定すればころりと機嫌を直して、鈴木はまた空を見る。
 夏の夜空にはいくつかの星が浮かんでいる。街が明るいせいで天の川がどこに流れているかはわからないけど、織姫と彦星の位置はわかる。見えないだけで二つの星を隔てる天の川はちゃんとあるそうだから、あの二人は今でも一年に一度しか会えない決まりなんだろう。
 あたしだったら年に一度しか会えないなんて嫌だけど。鈴木だってそうだろうな。
「でも、夜に会えたら大人って感じがするよな」
 ふと、鈴木がそんなことを呟いた。
 一回聞いただけではぴんと来ない言葉だった。
「……そう?」
 思わず聞き返すと、鈴木は何だか困ったような顔をする。
「え、しない? 夜って大人の時間だろ。そこで会えるのって大人ならではの特権って感じ」
 特権、かな。まあ『大人のデート』ってバーみたいなところでお酒飲む的な、とにかく夜に会うものってイメージあるし、そう言われれば全くわからないってこともないかもしれない。
「門限があるからとか、そういうことだよね」
「そんなとこ。子供のうちは夜に会うとかできないじゃん」
「言われてみればそうかも。お祭りとか、特別なイベントでもない限りは」
「そうそう、何か理由でもないとさ。単に会いたいからってだけじゃなっかなか会えない」
 鈴木は頷き、黒いTシャツの胸元を掴んで、風を扇ぎ入れるようにぱたぱた動かす。本当に蒸し暑い夜だった。
 あたしもアイスを食べている最中の涼しさはもう消え失せていて、全身にじっとりまとわりつくような汗をかいていた。家まではあと少し、でも早く涼みたいという気持ちより、もっと鈴木と一緒にいたい気持ちの方が勝っている。
「俺なんて家にいる時とか、ウェンディ構ってる時でも、何かこう無性に上野に会いたいなって思うけど、こんな時間に会いに行ったら迷惑だから、いつもは電話で我慢してる。声だけでも聞けるだけ幸せだし、上野と話すの楽しいし」
 そう語る鈴木は、やっぱり彦星にはなれないタイプだ。
 でもあたしは鈴木のそういうところに、どうしてかすごく安心してしまう。
「電話くらいいつでもいいよ。できる時は付き合ったげるよ」
 ほっとした勢いであたしは言った。
 すると意外なことに、鈴木も軽く胸を撫で下ろしてみせたように見えた。
「ありがとな。こういう時、上野と俺が両想いだって実感しちゃうな」
 いきなり何を言うか。
 夜だから、いつものテンションじゃないから、鈴木はそういうことを言わないだろうって油断しきっていた。不意打ちを食らったあたしは内心焦ったけど、鈴木は何にも気にせずに続けた。
「でもさ、直に会いたくなる時もあるだろ。声だけじゃ足りないって言うか……」
 言いながら、鈴木はアイスの棒を持っていない方の手で、同じく何も持たないあたしの手を掠め取った。
 感触をよく知っている大きな手は、夏らしい熱さであたしのちっぽけな手を包み込む。
 あたしがそちらを見たからか、鈴木は低く抑え込んだ声で言った。
「少しだけ。もうすぐ着くのわかってるから、繋がせといて」
 思いつめたような余裕のなさを感じ取り、あたしは少し迷ってから、ためらいつつもその手を握り返した。
 鈴木の手のひらが熱くて、その熱がこっちにまで移ってきて、気持ちいいような落ち着かないような逃げ出したいようなずっと離したくないような、変な気分だった。
 だけど残念ながら、あたし達はまだ子供だ。夜にこうして会えたとしても、すぐに家へ帰らなくちゃいけない。離れたくないと思っても離れないわけにはいかない。そういう当たり前のルールを煩わしいと思うけど、でもどんなに急いだって今すぐ大人になれないこともわかってる。高校生活はまだ二年と半分以上もあるし、その先にも進学なり就職なりあって、いろいろ乗り越えなければいけないはずだ。
 それまでの数年間、あたし達は何度くらい『離れたくない』って思うだろう。
「早く、大人になりたいな……」
 鈴木がぽつんと呟いた。
 あたしも似たようなことを思わなくはなかったけど、口にするのはやめといた。なぜかって、ちょっと恥ずかしいし――今すぐ大人になってもいいという覚悟も、まだなかったからだ。
 そこに踏み込んだらもう二度と、今の自分には戻れない。
 そのくらいはあたしにだってわかっていた。

 手を繋いでから家の前に辿り着くまでには、最大限ゆっくり歩いても三分だってかからなかった。
 あまり遅くなると家から電話がかかってきて、かえって気まずくなるだろう。
「送ってくれてありがと。じゃあここで」
 あたしは鈴木の手を離し、鈴木も残念そうにしながらもそれを受け入れた。
 でも、代わりにとでも言いたげに、その大きな手をあたしの肩に置いて、いやに真面目な顔で身を屈めた。
「どういたしまして。上野、最後に目つむって」
 顔と顔が近づいた。
 鈴木だけが目をつむった。
「……あっ」
 唇に唇を押し当てられた時、多少の予想はできていたにもかかわらず、初めてじゃないのに声が出た。声が出てしまったことが死にそうなほど恥ずかしかった。
 しかも鈴木がなかなか離れてくれないから、あたしはもがきながらその鎖骨の辺りを手でばしばし叩いた。鈴木は微動だにしないどころか痛がるそぶりもなく、顔を離してからあたしを見て、してやったりという表情をした。
「今の反応、めちゃくちゃ可愛かった。夜にでも夢に見そう」
「うっ、うるさい。そういうこと言わないで」
「やだ」
 鈴木は短く、子供っぽく答える。さっきは大人になりたいって言ってたくせに!
 それであたしがむくれたからか、鈴木はあたしの熱を持ったような頬を撫で、癖のある髪も撫でてからそっと、言った。
「じゃあ、おやすみ。大人になったらもっといっぱい、夜にも会おうな」
「うん……おやすみ」
 溜息をつくあたしの前で鈴木は回れ右をして、急に弾かれたように駆け出した。
 黒いTシャツの後ろ姿はあっという間に夜道に溶けて、見えなくなる。何もかも振り切るような速さだった。

 一人になったあたしはすぐに家には入らずに、ちょっとの間、夜空を見上げていた。
 見えない天の川を挟んで向き合う織姫と彦星を、意味もなくぼんやり眺めていた。
 ちょっと前まではあんなに困っていたのに、今はなぜだかほっとする。鈴木があたしを好きでいてくれることに安心する。安心といっていいのか自分でもわからないけど、でもあたしはそれだけあれば、鈴木があたしを好きでいてくれる限り、他の不安や恐れや苦痛をやり過ごせるような気がしている。
 だからいつか、あたしも大人になるんだろう。
 その時あたしと鈴木が、どんなふうに夜に会うのか、全く想像つかないけど――二人でいることだけは確かだと信じている。
 きっと、何があっても安心だ。
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