君だけが
「うーえのっ!」生徒玄関で靴を履き替えたあたしの目の前、急に鈴木が現れた。
例によってあたしが登校してくるのを待ち構えていたんだと思うけど、瞬間移動みたいな唐突さであの笑顔が飛び出てきたから、それはもうびっくりした。
思わずその場に硬直したあたしに、構うことなく鈴木は話しかけてくる。
「おはよー上野! 明日の約束忘れてないよな? キャンセルとかもないよな?」
立て続けに挨拶と質問をぶつけてくるのは止めてほしい。どこから答えていいのかわからなくなるから。とりあえず最後の質問にだけは答えられた。
「ないよ。大丈夫」
今日は金曜で、明日は土曜日だ。つまりお休み。
あたしは明日、鈴木と約束をしている。つまり、何と言うか、あれだ。
「だよなー、よかった!」
こっちの返事を聞くや否や、屈託なく笑う鈴木。
こいつはいつもこんな調子だけど、今日はことのほかテンション高くて圧倒されてしまう。あたしが廊下を歩き出せば当たり前のようについてきて、盛んに話しかけてくる。
「じゃあ約束通り、昼の一時に俺ん家な!」
「う、うん。わかってるってば」
「あ、そうだ。お前おやつとか何がいい? クリームパン?」
「パンはおやつじゃないでしょ。お構いなく」
「えーでもお前クリームパン好きだろ、遠慮すんなって!」
「別にパンしか食べないって訳じゃないし……」
「なら俺チョイスでいいか? あーあと飲み物も注文あったら言えよ買っとくから!」
「だから構わなくていいったら……それより、もう少し小声で喋って」
鈴木の声は廊下中に筒抜けだ。横を通り抜けていく生徒たちがちらちらと振り返っていくのが恥ずかしい。おまけにもううちのクラス前まで辿り着いていたから、先に来ていた友達が数人、戸口に鈴なりでにまにまこっちを見ている。死にそうなほど恥ずかしい。
でも鈴木はお構いなしに、そうだ、と手を叩いて、
「言い忘れてたけど明日、俺の親どっちもいないから。気兼ねなく遊びに来いよ」
あたしの頭を爆発させかねない発言をかました。
――え、え、何それ。親がいないって、どこに? 鈴木の家に?
鈴木は笑っている。教室からきゃーとどよめきが起こる。あたしはみるみるうちに思考停止して、そのくせ明日の予定をフルスピードフルパワーで意識し始めて、もうどうしていいのかもわからなくなって、
「ど、土曜日なのに?」
すっごい間抜けなことを聞き返した、と思う。
でも鈴木はやっぱり笑顔で頷いた。
「おう。俺とウェンディだけ」
「……そう、なんだ」
納得したふりをしつつ、ちっとも飲み込めてなかった。
だって鈴木の家に二人きりとか。いやウェンディはいるけど犬だ、『二人きり』の人員を増やすことには貢献してくれない。つまり、本当の本当に。
「じゃあそういうことで。また昼休みにな!」
言いたいことだけ言って満足したような顔で、鈴木は自分のクラスへ戻っていく。
ざわめく廊下に取り残されたあたしは、爆発寸前の頭であれこれ忙しなく考える。――どうして鈴木はわざわざ、家族のいないことを教えていったんだろう。肝に銘じておけってことじゃない、よね? これが初めてのデートなのに、いきなり家で二人きりってハードル高くない? てっきりご両親がいるんだと思って、誘われた時はこれっぽっちも身構えてなかったけど、今になって緊張してきた。どうしよう。
っていうか昼休みにも会うのに、どうして朝のうちにこんなこと言いに来たんだろう。
「上野ちゃーん、聞いたよーっ!」
ふらつきながら教室へ入っていけば、たちまち友達に取り囲まれて、
「なになになに、今のどういうこと! 初デートはいきなり彼の家ってこと?」
「えーそれ初耳。上野ちゃん全然教えてくれないんだもんなー」
「是非とも詳細な説明を求めまーす! あと事後報告もよろしくね」
「いきなり家に呼んじゃうとか、さすが鈴木くんやることが大胆!」
散々にからかわれて冷やかされて洗いざらい言わされそうになったので、あたしは両手で顔を覆って防戦一方の試合運びとなった。
そういうことは、それこそ二人きりの時に言って欲しかった。
鈴木と付き合い始めてから二週間が経ち――今のところは喧嘩もトラブルもないものの、あたしと鈴木の認識の違いは微妙にずれたままだ。
向こうはあたしと春先のうちから『付き合ってる』気になってて、こっちは鈴木の態度を飼い主馬鹿的な犬可愛がりだとしか思ってなくて、そのせいなんだと思う。鈴木の態度と来たら付き合う前と何ら変わらず、容赦のない構いたがりっぷりだって相変わらずなのに、なぜか以前よりも苦手だと感じるようになっていた。
友達から冷やかされるのも以前なら困っただけだったのに、最近じゃ勝手に頬っぺたが赤くなったり、ろれつが回らなくなったりするからすごく嫌だ。
そして二人きりで過ごすのは昼休みだけじゃなくなり、鈴木の部活が休みの日には一緒に下校したり、そのままちょっとした寄り道をしたりもするようになった。そして明日のデートの約束まで漕ぎ着けたわけだけど。
やっぱりまだ慣れてない。
鈴木の彼女でいるのも、鈴木のことを好きでいるのも。
もちろんあたしだって、苦手だとか嫌だとかそういう風に思いたいわけじゃなくて、出来ることなら普通にしてたい。せっかくこういう、友達が冷やかす通り、皆の目に映っている通りの関係になれたんだし、今度は二人でいるのが当たり前だって思えるようになりたい。だから滑り出しの今のうちはもうちょい、せめてもう少し穏やかなお付き合いをしたいのに、鈴木と来たらあんな調子で人目もあたしの緊張も気にしてくれない。
今朝の一件だって、昼休みに会った時にぶつけてみた。――友達の聞いてるところでああいうこと言うの止めてくれない? 恥ずかしいんだけど。
それについての鈴木の答えはこうだった。
『そんなの今更だろ。俺たちの場合、人前でいちゃつかなくなった方が心配されるって。喧嘩でもしたのかってな』
思う。鈴木は大胆なんじゃなくて、単に空気が読めてないだけだ。
土曜日。あたしはそこそこお気に入りのワンピースを着て、いつもは結んでる髪を下ろして鈴木の家へ向かった。
ワンピースにしたのは、きっと床に座らされるだろうから皺にならないようにと思ったまでで、デートだからじゃない。でも髪を結ばなかったのはデートだからだ。こんな日に鈴木に髪をいじられたら、あたしは呆気なくぶっ倒れてしまうだろう。
ウェンディに負けず劣らず癖のあるあたしの髪は、夏の天気のいい日になるとまるで保温材のような役目を果たす。夏休みも近い七月、鈴木の家に辿り着く頃にはいい具合に蒸されていて、眩暈がした。
鈴木の家がどこにあるかは知っていた。何度か一緒に帰っていて、その時に教えてもらっていたし、そもそも鈴木とは中学校が一緒で、歩いても二十分くらいで行ける。近いんだからこれからは頻繁に行き来しようなと言われていたけど、それより先にすることがあると思う。二人でいることにあたしが慣れられるよう考えてくれたっていいのに。少なくとも初デートが彼の家で二人きりとか、普通しないんじゃないだろうか。意識しすぎ?
ともあれ、着いてしまったものは仕方ない。あたしは一呼吸置いてから鈴木家のチャイムを鳴らす。五秒もしないうちに玄関のドアが開いて、
「上野!」
顔を出した鈴木が、あたしを呼んだ。
ポロシャツ姿の鈴木は剥き出しの腕にウェンディを抱えていた。鈴木の私服を見るのが初めてならウェンディを生で見るのも初めてで、男の子っぽい硬そうな腕の中でへっへへっへと舌を出すその犬を、しばらく棒立ちになって眺めていた。
可愛くないってほどじゃなかった。でも、ずんぐりむっくりだった。
「……上野? どした?」
「あ、ううん。別に」
ぼけっとしていたあたしを、鈴木は怪訝そうに見る。かぶりを振って答えれば、その顔もあっという間に綻んだ。
「へえ、髪下ろしてきたのか」
こういう時、素直にでれでれするのが鈴木らしい。あたしとは大違いだ。
「うん、まあ……お、おかしくない?」
「全然! 可愛い!」
「そっかな……」
あたしは褒められても素直に喜んだり出来なかったけど、そんなことすらお構いなしに鈴木は、上がれよと言って招き入れてくれた。ウェンディを抱えたまま。
鈴木の部屋は二階にあって、意外にもすっきり片づいていた。
急場しのぎの掃除をしたという片づき方とは違って、普段から余分なものを置いてない感じだった。本棚はこじゃれた吊り棚だし、CDも壁に板を張って飾っている。勉強机は外国の子供部屋にありそうな、木造の蓋が閉まるタイプ。空気の読めないあの性格とは違うイメージの内装に、ちょっと驚かされた。
「きれいにしとかないと、ウェンディが引っ掻き回すからさ」
まるきり保護者の顔になって語る鈴木。
「普段は割とおりこうさんなんだけど、俺がいない時とか、あとお客さんが来た時とかは落ち着きなくなったりするんだ。ま、そういうとこも可愛いんだけど」
でれっとする飼い主の背後では、当のウェンディが落ち着きなく椅子に上ったり下りたりしている。あたしがいるせいなんだろう。無闇に吠えたりしない辺りは本当にいい子だなと思う。
部屋の真ん中には木目のローテーブルがあって、そこに五百ミリのペットボトルが二本、スナック菓子の袋が一つ、それからウェンディ用と思しきジャーキーがあった。鈴木はそのペットボトルを指差して、
「上野、好きな方選んで。ボトルのまんま渡すの行儀悪いけど、ウェンディが引っ繰り返しちゃうと困るから」
それであたしは二本のうち、ストレートの紅茶を選ぶ。直前まで冷蔵庫に入っていたのか、受け取った手にひんやり、気持ちよかった。
「絨毯掃除してあるし、座れば?」
「うん」
促され、床に足を崩して座る。
するとすぐ隣、膝がぶつかりそうなくらい傍に鈴木が座った。
ぎくっとした。
「な、何で、隣座るの」
鈴木の部屋はすごく広いというわけじゃなかったけど、人間が二人座って膝を突き合せなきゃいけないほどでは決してない。むしろせっかくローテーブルがあるんだから、挟んで向き合う座り方もアリだと思う。いやそれはそれで目が合ったりしたら気まずいかもだけど、とにかく。
よりによって何ですぐ隣に座るの。夏なのに。
「何でって、離れて座るのもつまんないし」
もっともらしく答えた鈴木の膝の上、ウェンディがたたっと駆け寄り、飛び乗る。その毛並みを癖みたいに撫でながら、鈴木はそこでおかしそうな顔をした。
「それに学校でも、いつもこのくらいくっついて座ってるだろ。今日に限って嫌そうにすんのは何で?」
絶対わかってて聞いてる。わざとらしい。
「別に、今日だけってわけじゃないよ。いつもだって」
「嘘だ。上野、いつもは全然嫌がってない」
「……嫌ではないけど、ちょっと、どうかなと思うことはあるよ。鈴木は人目とか気にしてくれないし」
あたしはこういうの、あんまり得意じゃない。まだ二週間とちょっとしか経ってないし、冷やかされるのも慣れてないし、なのに鈴木の態度は前とちっとも変わってないし――ついてけないのも当然だ。
「人目なら、今はないよ」
そこで鈴木が妙にきっぱり言い切った。
いきなり笑うのも止めて、続ける。
「家には俺たちの他に誰もいないし、他にお客が来るってこともないし。誰かに覗かれてるってことも絶対ないって言える。……他に俺が、気にしとくべきことって何かあるか?」
真面目に聞かれると答えづらい。
あたしは人目を気にするのと同じように鈴木と二人きりでいることも気になっていて、つまり今みたいにまっすぐ見つめられると嫌だ。嫌というか、どうしていいのかわからなくなる。
家の中は実際、ものすごく静かだった。暑さに弱そうなウェンディの為かしっかりエアコンが効いていて、外にいる蝉の声さえ聞こえてこない。ただウェンディの荒い呼吸はすぐ近くでしていた。鈴木の膝の上にちょこんと収まっていた。
あたしが目を逸らしたから、だろうか。
「……緊張するなよ」
鈴木がぼやいた。
無茶言うな、とあたしは思う。付き合って二週間ちょっとでようやく迎えた初デートなのに彼氏の家に二人きり、この状況で緊張しない女の子がいるだろうか。というより鈴木はどうして緊張しないんだろう。変だ。空気読めてない。
「上野」
だから真面目な声で呼ばないでってば。
「何?」
聞き返すたった一言が震えたあたしに対して、鈴木は両手で差し出してくる。
ウェンディを。
「抱っこしてみる?」
ずんぐりむっくりの愛犬を大きな手で支える鈴木。その顔にはでれっとした笑いが戻っている。そしてこっちは、一瞬呆気に取られた。
「あ、あたしが?」
「うん。ウェンディとも仲良くしてやってくれよ」
簡単に言うけど、あたしは犬を抱っこしたことがない。
別に犬が苦手とか嫌いってわけじゃなく、今までそういう機会がなかっただけだ。大きな犬に吠えられたら怖いけど、ウェンディを怖いとは思わない。ただ抱っことなると、どこをどう持っていいのかわからないから、うんとも言えずにしばらく鈴木とウェンディを見つめていた。
ウェンディもあたしを見ていた。黒々とした丸い目がじいっとこっちを捉えて、あたしがちゃんと抱っこ出来るかどうか品定めしているようだった。
「ほら、手出して」
鈴木は返事を待たずに促し、あたしは恐る恐るそれに従う。両手を慎重に差し伸べると、ウェンディはあたしの手じゃなく、胸に預けるようにして手渡された。自然と両腕で抱きかかえる格好になる。ウェンディは落ち着きなくきょろきょろしている。
「わあ……」
温かい。まず最初にそう思った。
それから意外とふにゃふにゃしてる。ふかふか柔らかい毛皮の奥の方にごりっと骨がある感じ。緩くウェーブがかった毛並みが顎に当たるとくすぐったい。犬の鼻が湿ってるっていうのは本当で、二の腕にめり込んだ時は正直どきっとした。ウェンディ自身もしまったと思ったのか、自分で鼻を舐めてみせた。その仕種がおかしくて、ちょっと笑ってしまう。
「可愛いだろ?」
鈴木が惜しげもなく飼い主馬鹿の顔をする。
でも馬鹿になったって仕方ないと思う。この子は本当に可愛い。
「うん」
あたしは今度こそ素直に頷いて、認めたら欲が出てきた。抱きかかえたままでウェンディのふわふわした毛並みに触りたくなった。片手をぎこちなく動かしてどうにか撫でようと試みた時、
「あっ」
ウェンディが逃げた。あたしの腕からするっと抜け出し、飼い主の元へと帰っていく。
だけどその時、飼い主の膝は元の場所になかった。
がたんと、開けてないペットボトルの倒れる音。鈴木は両膝を絨毯について、ちょうど犬が一歩前に踏み出した時みたいな体勢でいた。元々ごく近くで隣り合っていたから、そうして近づかれると本当に、顔が目の前に来た。鈴木の、今はでれっとしてない顔がごく至近距離にあって、ぶつかると思ったあたしが反射的に目を閉じた時、息を呑むのさえ不可能になった。
例によって、鈴木は空気を読んでくれなかった。
「な……何っ、何を!」
顔が離れてから抗議しようとしたけど、何をするのかと聞きたかったあたしの声は自由が利かない。感触が残ってる。柔らかかった、骨はなかった。
離れてもまだ鼻先五センチのところにいる鈴木は、犯罪者の神妙さで語る、
「だって可愛かったから」
多分、罪状認否を。
「そんな理由ある!?」
「あるよ。俺はずっと、ずっと前から上野が可愛いって思ってた」
鈴木は時間を強調するように言葉を重ねる。ずっと前からって、そう言った。
「お前は、上野はまだ二週間ちょいって捉えてるかもしれないけど、俺はそうじゃない。もう何ヶ月も付き合ってるつもりでいたから」
そうだった。鈴木とあたしの認識には微妙なずれがある。時間にすれば三ヶ月分くらいのずれが。
「俺が好きだって言っても上野は何にも言ってくれないし、誘ったって遊びにも来てくれないし、そのくせ満更でもなさそうにするしさ」
いや待て。言っときますけど普通に満更でした。そこは勘違いしないで。
「だから、ずっと触りたかった。上野に」
犯罪者は発言内容も犯罪的だった。もう本当にこいつは何を言うのかとこっちがうろたえた。
だけど鈴木の顔は笑ってないし、でれっともしてない。向き合う目つきも表情もひたすら真剣だった。
「髪とか、手だけじゃなくて。もっと一杯触りたかった。俺が上野をどのくらい好きか、可愛いって思ってるか、言葉以外でもちゃんと伝えたかった。そしたらもっとわかってもらえるんじゃないかって、そう思って」
言葉以外の伝える手段に、どこまで効果があるのか知らないけど。
確かに、今はちょっとだけわかった。
少なくとも、鈴木とあたしが正式に『付き合う』までの数ヶ月、鈴木がどんなに複雑な気持ちでいたかはわかった。あたしはこいつの飼い主馬鹿的な態度を不可解に思っていたけど、その裏で鈴木はあたしの無愛想さ、素っ気なさを不可解だと感じていたはずだ。多分、すごく、辛かったはずだ。
満更かそうでないかなんてどうでもいい。
ただ、思う。もっと早く気づいてればよかったって。
鈴木だけに辛い思いをさせてた事実が、今になってあたしを苦しくさせた。胸が痛んでしょうがなくなって、今更だって思い知りながらも謝った。
「ごめん、鈴木」
この言葉だって本当は、もっと早く言っておくべきだったのかな。
「鈴木の気持ち、わかってなくてごめん」
わかりやすい奴だと思ってたし、わかってるつもりでいたけど、違ったんだ。好きだってことをお互い知ってれば十分だって思ってたけど、そうじゃないんだ。好きな相手だからこそ、もっといろんな気持ちも伝えていかなくちゃいけないし、知っておかなきゃいけない。
あたしにとっても、一応、好きな人だもん。
辛い思いも寂しい思いも金輪際させたくない。
「上野……」
奴はびっくりしたように両目を見開いてから、改めて、一番鈴木らしい顔で笑った。
「いいよ。結果オーライだもんな」
それからあたしの隣に座り直して、肩を抱こうとしてきたものだから、あたしはその手を跳ね除けるべきか、脊髄反射的に迷った。でも謝った後だしここは殊勝にしておこうと、とりあえず抱き寄せられてから睨むだけにした。
「上野、もう一回」
睨まれようと気にしちゃいない鈴木が、さも当然のように要求してくる。
何をだ。わかってるけど。
「やだ」
「何でだよ。いいだろ減るもんじゃなし、こっちは何ヶ月もお預けだったのに」
「そ、そんなこと言ったって、初デートだから! だからやだ!」
そうだ。お互いの認識がずれてようと鈴木だけが数ヶ月辛い思いをしていようと、そこに関する認識だけは合ってなきゃおかしい。今日はあたしたちにとっての初めてのデートだ、二人きりで彼の家なんて本当はすごく大胆なことだし、あるいは空気読めてないことだし、そこでファーストキスなんてもってのほかだ! もう済んじゃったけど!
「可愛いなあ、上野」
途端にでれでれし始める鈴木。あたしが怒っても拗ねても何してもこんな調子なんだから本当にどうしていいのか。ずるい。
「じゃあさ、抱っこならいいか?」
「何それ! あたしはウェンディじゃないんですけど!」
「どっちも可愛いのは一緒だろ。ほら、今なら膝の上も空いてるし」
「やだったら! ちょっ……許可もなくそういうこと……鈴木!」
貧弱なあたしは意外と怪力の鈴木に全く敵わず、挙句、膝の上で抱っこされる羽目になった。夏の暑い盛りだっていうのに、エアコンが効いてるからいいだろ、とのことです。ふざけてる。
傍ではウェンディがやきもちでも焼いてるみたいにうろちょろしている。鈴木は後でな、と声を掛けていたけど、そう言うならあたしを下ろせばいいのに。
でも、苦手だとか嫌だとかそういう風に思いたいわけじゃなくて。鈴木の胸に頭を預けていると、意地を張るのも馬鹿馬鹿しい気にさえなってくる。何より鈴木だけが幸せそうにしてるだなんてずるいもの、あたしだってそう思っておきたい。
この男の子っぽい腕に毎日抱っこしてもらえるウェンディが、ちょっと羨ましいかもしれない。ちょっとだけ。