Tiny garden

目撃者かく語りき(1)

 春が終わり夏が訪れると、俺達の仕事は次第に忙しくなってくる。
 社会人十年目ともなれば繁忙期のやり過ごし方くらい身についていそうなものだが、勤続年数を重ねるごとに仕事が増えていくせいで一向に慣れる気がしないのが困りものだった。とは言え今年度からは伊都が一緒だ。忙しい時期も夏の暑さも二人で助け合って乗り越えていくつもりだった。
 同棲を始めてもうじき三ヶ月になる頃合いだった。
 これまでは楽しいばかりだったが、二人で暮らすことの大切さも大変さも、思い知るのはこれからなのだろう。

「今月はまだ大丈夫だけど、七月、八月はちょっと厳しいかも」
 伊都が俺の分の弁当箱を包みながら言った。相変わらず朝は俺よりも早起きで、弁当も驚くほどの手際のよさで用意してしまう。
「でも、おにぎりくらいは作るからよろしくね」
「無理しなくていいよ。そりゃ作ってくれるのはありがたいけど」
 俺は彼女から弁当を受け取ってから語を継ぐ。
「いつも助かってるけど、忙しい時期に無理させてまでとは思ってない」
 広報だって夏は十分多忙なはずだ。去年だって食堂にも行かず広報課の自分の机でサンドイッチをくわえる伊都の姿を目撃していた。俺だって昼飯くらい一人で調達できるし、気を遣わないでいいのだが――。
「ううん、私も持っていきたいからついでだよ。コンビニで買うのはちょっとね」
 去年散々食べたからだろうか、少し憂鬱そうに言って、伊都は眉尻を下げる。
「それに巡くん、忙しくなるとカップ麺ばかりでしょ? 大丈夫かなって思って」
「まあ……否定はしないよ」
 去年散々食べたのはむしろこっちの方だった。忙しくなると外へ買いに行くのも億劫で、買い置きのカップ麺に頼ってしまってばかりだった。あの社食で何度わびしく麺を啜ったか、もはや数え切れないほどだ。
「ご実家でも言われてたもんね、気をつけないと」
 俺が認めたからか、彼女は冷やかすみたいに笑った。
「私と一緒に暮らしてるのに栄養失調になったら、私の責任だからね」
 全く頼もしい主婦っぷりである。
 来年の今頃には彼女を妻と呼んでいるのかと思うと楽しみな一方、まだ実感が湧いていないのも事実だった。しかしこれから一生彼女の手料理を食べ続けられるという幸せは何物にも代えがたく、栄養失調なんぞになって倒れている暇はないと確かに思う。ここは彼女の好意に甘えておくことにしよう。
 そして同じく来年の今頃には彼女の夫となっている俺もまた、二人暮らしにおいて果たすべき責任をきちんと果たすことにしている。休みの日の掃除、ゴミの日のゴミ出し、毎朝洗濯機にスイッチを入れること、先に帰ってこれたら洗濯物を干して風呂掃除。それから。
「伊都、今日は午後から雨だって。一緒に出よう」
 天気予報を見て、必要とあらば彼女を会社まで乗せていくこと。
 これは責任というより役得と言ってもいいかもしれない。雨の日は彼女も自転車に乗れないし、いつもより長い時間一緒にいられる。車の中で楽しく話でもしながら出勤することができる。
「雨かあ。これってやっぱ梅雨入りなのかな」
 伊都は週間天気予報を見て溜息をついていたが、俺は去年と同じように、雨の日がそれほど嫌ではなかった。

 今日の弁当のメインおかずは豆腐とアボカドのステーキだった。
 薄く衣をつけた豆腐とこんがり焼かれたアボカドに甘辛い味つけがされていて、ご飯が進む味だった。俺は伊都と付き合うまで焼いたアボカドなんて食べたこともなかったが、今では焼いてある方がほっくりしていて好きだ。豆腐もそうだが、食材の新しい可能性を引き出して教えてくれるのが彼女だ。
「……ごちそうさま」
 人のいない昼下がりの社員食堂で、俺は空っぽの弁当箱に向かって両手を合わせた。
 今日も美味い弁当だった。帰ったら伊都に感想、そしてお礼を言おう。
 それから一服しようと煎茶を入れ、自分の席へ戻ったところで、社食に見慣れた顔が現れた。背が高くて吊り目がちな営業課主任――言うまでもないが石田だ。
「よう安井、今日も『彼女』の手作り弁当食ってんのか?」
 石田は俺を認めるが早いかにやりとしたが、かく言う自分も可愛い水色の弁当箱を携えていた。冷やかし返して欲しいのだろうか。
「お前こそ今日も愛妻弁当か、結婚前だっていうのに新婚気分だな」
 お望み通り冷やかし返してやると、石田はあっさりと相好を崩す。
「まあな! もう九月が待ち遠しくて待ち遠しくて仕方なくてな」
「心配しなくても、黙ってたって九月は来るだろ」
 俺が茶に息を吹きかけつつ応じると、真向かいに座った石田はかぶりを振った。
「待ち切れんから言ってんだ! あと三ヶ月だぞ、のんびり待ってられるか!」
「放っといたら自分から九月を迎えに行きそうな勢いだな……」

 結婚式を九月に控えた石田から、俺は既に招待状を受け取っていた。
 式では歌を歌ってやる約束もしていたし、長くつるんできた同期としてできる限りのことはしてやろうと思っている。めでたい話だ、精一杯祝うつもりでいた。
 あとはまあ、自分の結婚式の参考にしてやろうかとも思っている。俺も伊都も結婚式自体にはさほど乗り気ではなく、あんな式を挙げたいこんなことをしたいといったビジョンも浮かんでいないところだったからだ。石田と小坂さんはプランナーと打ち合わせを重ねて式次第を決めたそうだし、どんなことをやるか見せてもらおうと思っている。
 それに石田はさておき、小坂さんはさぞかし可愛らしい花嫁になることだろう。見に行くのが楽しみだった。

「一日でもいい、早く結婚したい。そして毎朝藍子の寝顔が見たい」
 花婿の方はこの通り、だらしない顔で腑抜けたことを口走りながら愛妻弁当を食している。
「寝顔はともかく、顔だけなら既に毎日見てるだろ、同じ職場なんだから」
 慰めにもならないことを言ってやれば、石田は恋する乙女みたいな愁嘆の溜息をついた。
「それもなあ……藍子と一緒に働けるのもあと三ヶ月だしな……」
 お前が辞めさせるんだろ、と営業課一同から総ツッコミを受けそうな呟きだ。
 実際、今回の結婚に当たって小坂さんは寿退社をすることと相成り、石田は営業課のアイドルを攫っていく大悪党の扱いを受けているそうだ。霧島辺りは本気で『赤ずきんちゃんを悪い狼に連れ去られる気分です』と言って憚らない。会社としても営業課の貴重な戦力が奪われるのは痛いし、あの明るいお嬢さんの姿を見られなくなるのも寂しいものだった。
 それにしても、石田もとうとう独身卒業か。霧島が結婚したのも去年の話だが、遂に残ったのは俺だけか。寂しさはないが、各々の結婚までを見届けるほどの付き合いになるとは思わなかったから、今更ながら驚いている。
 そこでふと、霧島と言えばと思い出したことがあり――、
「霧島から聞いてるよな? 今月集まる話」
 俺が尋ねると、石田はすぐさま頷いた。
「聞いてる聞いてる。悪いな、気遣わせて」
「別に遣ってないよ、霧島の時だってやっただろ」
 石田と小坂さんの結婚前に、いつもの面子で集まって祝賀会を開こうと計画していた。俺と霧島夫妻で話を進め、既に店の目星もつけた段階で、あとは主役達のスケジュールを押さえるだけだった。七月に入ってしまうと皆が忙しくなって集まれなくなるから、六月のうちにと考えている。
「祝いたいと思ってやるんだから、そっちこそ気を遣うなよ。で、いつなら都合いい?」
「俺達はいつでもいい。今月なら土日は大体空いてる」
 新婚気分の石田はこちらの確認に、『俺』ではなく『俺達』と答えた。
 それを聞いて俺が思わずにやりとすれば、石田は涼しい顔で口を開く。
「それより、お前はいいのか? 五人の集まりで」
「いいのかって……いつも五人で集まってるだろ、今更だ」
 石田が何を言いたいのかは大体わかっていた。奴の目がちらちらと、俺の前にある閉じられた弁当箱に向けられていたからだ。
「その弁当、前に作ってくれた子と同じか? まさか違う相手なのか?」
 探りを入れるというよりはほぼ直球の問いかけだった。

 どう答えていいのか、一瞬悩んだ。
 石田にはまだ伊都のことを打ち明けていなかった。言わなかったのは奴が結婚式の準備で忙しそうだったから、そして俺が楽しい同棲生活で忙しかったからなのだが――言うならこんな与太話の合間ではなく、ちゃんとした席でという思いもあった。ただでさえ石田には例の見合いの件を誤解させたままだ。その辺りの説明もしなければならないし、場合によっては何年も遡って説明する必要もある。そんなことを考えるうちにもう夏になっていた。さすがに引っ張りすぎたかもしれない。
 それに、ここで言えば次の飲み会、石田達の祝賀会が『五人の集まり』ではなくなる。俺としては将来的に六人の集まりにしたいという願望があったが、今回は石田達が主役の祝賀会だ。そこに便乗して伊都を連れていくというのは、お祝いの席を乗っ取るようで気が引けた。

「前と同じ子だよ」
 少し考えてから、俺は正直に答えた。
 途端に石田が目を瞠り、それから意味ありげに唇の端を吊り上げた。
「なら紹介くらいしろよ、俺はいつでもお前を祝う用意があるぜ」
「祝うじゃなくて茶化すの間違いじゃないのか」
「祝う気あるって。何だよ、信用ねえな」
「いや、信用してないわけじゃない」
 俺はとっさに否定したが、これだけ長い間黙っていればそう受け取られても仕方ない。
 それでも石田なら、あれこれ言いつつ祝ってくれるのはわかっている。だからこそ日を改めて打ち明けたい。
「いろいろ片づいたら、一度飲みに行かないか。今回の集まりとは別件で」
 そう持ちかけると、石田はすぐに頷いた。
「いいぜ。独身のうちに男だらけの飲み会もやっときたいからな」
 今の返答を聞くに、俺の誘いを石田はいつもの――俺と石田と霧島でやる飲み会だと思ったようだった。
 俺としても霧島を蔑ろにするつもりはないし、後々報告するつもりではいるが、誰よりも先に散々心配をかけた石田に話すべきだと思っている。誘うのはあくまで石田だけだ。
 さしあたっては去年の見合いについての誤解をどう説明するか、考えておかなくてはなるまい。
「ただし九月からの俺は新婚さんだから、行くならその前にな」
 俺が思案を始める傍で、石田は弁当の蓋を開けている。向こうの本日の愛妻弁当は焼き鮭がメインのようだ。
「結婚したら付き合いが悪くなると言われそうだがしょうがないよな。何せ目に入れても痛くないほど可愛い嫁を貰うんだ、そんなもんだろ?」
 昼間から盛大に惚気始める石田を、俺は半笑いで見守ることにした。奴の頭は既にハネムーン期間に突入しているようだ。
 と言うか、『目に入れても痛くない』って嫁に対して使うことわざじゃなくないか。石田ならいかにも言いそうだが。

 俺も結婚が近づけばこんなふうになるのだろうか。
 他人の前ででれでれと相好を崩し、口を開けば嫁の惚気と一刻も早く結婚したいという言葉ばかり。頭の中は数ヶ月も先の新婚期間でいっぱいで、その日が待ち切れないあまり今にもすっ飛んでいきそうに見える――俺はもうちょっと落ち着いていたいものだと思っているのだが、果たしてどうなるだろう。

「わかってる、新婚さんの邪魔はしないよ」
 笑いながら俺が応じると、石田はでれでれとだらしない顔で話を続けた。
「にしても待ち遠しいな、部屋に帰ったら藍子が待っててくれる生活! もうおはようからおやすみまで一緒とか最高だよな。繁忙期とかすっ飛ばして早いこと九月になってくれりゃいいのになあ」
 その顔の緩みっぷりはどうかと思うが、しかしながら石田の気持ちは十分にわかった。
 俺はこの春からまさに『おはようからおやすみまで』伊都と一緒の生活をしているから、それがまさに最高であることもつくづく実感している。そして彼女が俺の部屋へ越してくる前夜、わくわくしすぎて眠れなかったことを思い返せば、俺は決して今の石田を笑うことなどできないのである。
「なあ石田。今からそんな緩みっ放しの顔してて大丈夫か?」
「何がだよ」
「肝心の式でもその顔だと格好つかないだろ、せっかく若くて可愛い嫁さん貰うのに」
「平気だって、俺はやればできる子だからな。ばっちり男前に決めてみせる」
 言いながら石田は必死になってその顔を引き締めようとしていたが、普段は吊り目がちな目尻が下がりきり、口元は笑みを堪えきれない様子で絶えずにやにやしている。何かいいことがあったなと誰が見てもわかる顔だ。そしてその『いいこと』は一時のものではなく、数ヶ月後に始まった後ずっと続いていくものだと思うと、俺は本気で石田の人相が変わってしまうのではないかと危惧したくなった。
 いや、人相だけならまだいい。この分だと人の形を保っていられるかどうかすら怪しい。
「式当日の石田が締まりなさすぎてゲル状になってやしないか心配だよ」
 冗談でもなく、俺は石田の身を案じた。
「そんな緩んでねえだろ」
 と言いつつも、石田は締まりのない顔を手で押さえている。不安になったのかもしれない。
 俺は茶を啜りながら、石田に惚気てやる日が来てもこうまで緩んだ顔はするものかと心に決めた。

 その日は予報通りに雨が降ったので、伊都と退勤時間を合わせて一緒に帰ることにした。
「結構降ってるね。これは明日も自転車無理かなあ」
 車のフロントガラスを洗う雨を睨む伊都が、溜息まじりにぼやく。
 だが俺は雨が嫌いではなかったし、彼女と一緒に帰宅できたことにちょっと浮かれていた。と言っても昼間の石田ほどではないが、それなりにいい気分だった。
「なら明日も一緒に行こう。俺はそれも楽しいよ」
 彼女に持ちかけると、伊都はすぐに声を立てて笑った。
「そうだね。そう思うと雨の日もあんまり嫌じゃないかも」
 伊都にも同じように思ってもらえたなら、より嬉しい。
 おまけに今夜はまだ午後七時だった。帰ってから軽く食事をする余裕も、風呂に入ってゆっくりする余裕もある。もちろん二人でのんびりくつろいで疲れを癒すことだってできるだろう。どうやって夜を過ごそうか、考えるだけで楽しくなるのも二人暮らしのいいところだった。
「帰ったら風呂に湯張るよ」
 ハンドルを握る俺の言葉に、彼女も心得たように応じた。
「ありがとう。じゃあ私、ご飯作るね」
「軽いものでいいよ」
「うん、そうする。巡くんは洗濯物お願いね」
「任せろ、皺一つなく干してみせるよ」
 俺が頷くと、雨とタイヤが水を掻く音に紛れて、伊都がまたくすくす笑う。
「私も美味しいご飯作ろっと。あ、ねえ、今日のお弁当どうだった?」
「すごく美味かったよ。豆腐ステーキは特にご飯が進んだ」
「そっか、よかった! 明日は豆腐のふんわりつくねにしようと思うんだ」
「いいな、それも美味そうだ。楽しみにしてるよ」
 伊都が明日の弁当の献立を明かしたので、無性に腹が減ってきた。昼飯は遅めに食べたはずなんだが、仕方ないか。
 それから社食で石田と話したことを思い出し、俺は彼女にお伺いを立てる。
「近々、石田と二人で飲んで来ようと思う。いいかな」
「別にいいよ。私のことは気にしないで、いつでもどうぞ」
 伊都は快諾してくれたが、今月に開く例の祝賀会でも留守番をしてもらうことになっていたから少々心苦しかった。だが石田に打ち明けないことには先に進めない。あいつには迷惑も心配もかけたし――そのことでしばらくからかわれそうな気はするが、仕方ないことだ。
「ごめんな。石田には事の次第をちゃんと説明してくるから」
「うん、頑張ってね。石田さんにからかわれないように」
「それは無理だな……」
「でも石田さんだってもうじき結婚じゃない。巡くんもからかい返せばいいんだよ」

 それが通用する相手なら苦労しない。
 石田をつっつくにはもっと奴にとって恥ずかしいネタでも掴まないと太刀打ちできない。
 そして今回は奴以上に俺が恥ずかしくなるであろうネタをがっちり掴まれてしまっている状態だ。もう何を言われても構わない覚悟で挑まないとならないだろう。

「お前のこと話したら、石田になんて言われるかな」
 アパートの駐車場に車を停めながら、俺は彼女に尋ねた。
 エンジンを切り、聞こえてくるのが雨音だけになったタイミングで、伊都は静かに答えた。
「どうかな……石田さんならすごく祝ってくれるとは思うよ」
「それ以前に散々からかわれて冷やかされるだろうけどな」
「そうかもね。そういうのだって巡くんは嬉しいんでしょ?」
「別に嬉しくはないよ」
 俺は素直に言ったつもりだったが、もしかしたら嬉しいかもなとすぐに思い直した。
 何年も抱え続けて、付き合い始めた日も振られた日も、長らく口も利けなかった日もようやく話せるようになった日も、そして再び彼女の手を取ることができた日も――ずっと誰にも打ち明けられなかった。そういう話を一番話したかった奴に打ち明けられるというだけでも、嬉しくなるかもしれなかった。それを惚気というのだと突っ込まれるかもしれないが、構うものか。お互い様だ。
「嘘。巡くんの顔、緩んでるよ」
 シートベルトを外した伊都が頬をつついてきたので、俺は思わずバックミラーを覗いてしまう。
 そこには石田ほどではないにせよ、だらしなく幸せそうな笑みを浮かべた俺が映っていた。
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