Tiny garden

あかいいと(2)

 実家の前には既に二台の車が停まっていた。
 グレーのセダンが親父のものであることはメーカーからわかった。その手前に置かれた白のミニバンは兄貴の家のだろう。
 俺の車は小さいのでぎりぎり停めるスペースがあったが、このまま停めておくと兄貴の車が出られなくなる。酒が入る前に入れ替える必要がありそうだ。

 車を停めると、すかさず伊都が興味深げに窓の外を覗く。
「ここが安井さんのご実家?」
「そうだよ。玄関に表札が出てるだろ」
「あ、本当だ。にしても大きな家だねえ」
 ドアを開けて車から降りた伊都は、驚いたようにうちの実家を見上げた。
 築年数ゆうに三十年を過ぎてはいるが、親父が建てた一軒家は我が父親ながら見事なものだった。こうして社会に出てみればその甲斐性というやつが骨身に染みてわかる。家を建てる際も母さんの要望を全て聞き入れてセントラルヒーティングにしたり、ピアノ用の防音室を作ったり、あるいはレコードを置いておくためだけの小部屋を設けたりと、その尽くし方たるや息子達三人が揃って感心するほどだった。そのせいで子供部屋は満足のいく出来にはならず、俺は兄貴が家を出るまで窮屈な暮らしを強いられる羽目にもなった。
 しかし現在、この家からは子供達全員が巣立っている。
 近頃では二階の居室を持て余しているらしく、俺と伊都には是非泊まっていくようにと母さんから言われていた。思えば実家に泊まるのも、四年前に翔を連れて帰省して以来だ。
「安井さん、荷物下ろす?」
 伊都が尋ねてきたので、俺は答える代わりに意味ありげに笑っておく。
 彼女もちょくちょく間違う割に気がつくのは早く、すぐに訂正してきた。
「巡くん、って呼ばないと駄目か、これから『安井さん』ばかりのところにお邪魔するんだし」
「ああ。安井さんなんて呼んだら皆一斉に返事するぞ」
 脅かすように言うと伊都はくすくす笑ったが、そんな彼女も来年の今頃には『安井さん』になっているのだろう。そう思うと何となく不思議な気持ちになる。

 トランクを開けて荷物を下ろしていると、待ちくたびれたのか玄関のドアが開いて、
「めぐ兄ちゃん、遅いよ。何のんびりやってんの?」
 サンダルをつっかけた翔が一人で現れた。
 翔の顔を見るのは約一年ぶりだ。その時も結婚を知らせるハガキで正装している姿を見ただけで、直に顔を合わせるのはやはり四年ぶりということになる。結婚したからと言って急に落ち着くわけもなく、まだ老け込むような歳でもなく、二十代の弟は相変わらず世の中を舐めたような楽天家の顔をしていた。
「遅くなるって言っただろ。連休初日で道混んでんだから」
 俺が反論すると、翔は呆れたように応じる。
「そうじゃなくて。車停めたんだったらさっさと入っといでってことだよ、皆待ってんだし」
 そこまで言ったところで、俺の隣ではにかむ伊都に気がついたようだ。途端ににやりとした。
「あ、例の彼女さん。初めまして、弟の翔です。いつも兄がお世話になってます」
 お辞儀だけは社会人らしくきちんと決めて、しかし口調はどうにも訳知り風なのが腹立たしい。
 むかむかする俺をよそに、伊都も笑顔で挨拶をする。
「初めまして、園田伊都です。これからよろしくお願いします」
「いと、さん? 珍しい名前だね、漢字どうやって書くの?」
「えっと、伊藤博文の伊に京都の都で――」
 伊都が説明しようとしたので、俺は手を振って制した。
「自己紹介は後でいいよ。まとめてやった方が早い」
 これから身内に会う度に『伊藤博文の伊に京都の都、一月十日生まれだから伊都です』っていちいち説明するのも億劫だろう。こういうことはいっぺんに済ませてしまうに限る。
「それより兄貴は? このままだと帰る時車出せないだろうし、入れ替えたいんだけど」
「中にいるよ。呼んでくる?」
「いや、挨拶ついでに一旦入る。伊都も休ませてやりたいし」
 俺はそう言うと、彼女を促し実家へ入ることにした。
 翔も当然ついてきて、サンダル履きで危なっかしい後ろ歩きをしながら伊都を眺めている。
「にしても……伊都さん、若いっすねえ。前に写真見た時と全然変わってないし」
「あはは、どうも」
 伊都は笑ったが、翔が一足先に玄関へ入った後、俺にこっそり聞いてきた。
「……私の写真、弟さんに見せたことあったの?」
「一応、前に」
 曖昧に答えておく。
 その辺りを深く突っ込まれると答えにくいからなるべくなら追及しないで欲しかった。
 彼女も俺の気持ちを酌んでくれたのか、深くは聞いてこなかった。ただすごく楽しげな顔をして言った。
「巡くんと弟さんって激似だね。見ただけで兄弟だってわかるよ!」
 他人からはよく言われるので実際そうなのかもしれないが、俺の方が男前である。少なくとも伊都にはそう思っていてもらいたい。

 懐かしい匂いのする実家には、うちの両親と兄貴一家、それに弟夫婦が全員集合していた。
 俺と伊都を加えると総勢九人の大所帯だ。さすがにリビングが狭く感じた。
「めぐは放っておくとちっとも帰ってこないどころか、連絡一つ寄越さないからな」
 白髪が目立ち始めた親父が溜息交じりにぼやく。
「こうして皆で揃う機会は、それこそめぐの結婚までないと思ってたよ」
「仕事が忙しいんだよ。そうそう気軽に帰れる距離でもないし」
 俺はお決まりの言い訳でそのぼやきをかわそうとした。
「それに兄貴も翔も結婚してるのに、俺一人で寂しく帰ってくるのもな」
 こっちの言い訳は嘘でもない。
 今回は伊都がいてくれたからよかったものの、そうじゃない時の帰省なんて気が乗らないことこの上なかった。兄貴は結婚して子供もいる幸せっぷり、翔も去年結婚したばかりの新婚さんだ。そこにいくつになっても仲睦まじい両親が加わると俺の居場所はないも同然だ。
 ただ、俺の言葉に親父は顔を顰めた。
「実家に戻ってくるのに寂しいも何もあるか」
「まあ、そうだけどさ」
 俺は曖昧に答え、隣に座る伊都にちらりと目をやる。
 視線の意味を察してか、彼女はどこか恥ずかしそうに笑った。
「お父さん、今回はめぐが可愛いお嬢さん連れで帰ってきてくれたんですから、お小言はいいじゃありませんか」
 歳を取り、昔よりも丸くなったらしい母さんがそこで親父を宥めに入る。
 そして伊都に向かって優しく声をかけた。
「はるばる遠くまで大変でしたでしょう。狭いところですけど、ゆっくりなさってくださいね、伊都さん」
「そうそう、こうして集まるとむさ苦しい家だけどね」
 そこに翔が乗っかると、兄貴が親父とよく似た調子で溜息をつく。
「自分で言うなよ……。男ばかり三兄弟じゃ、むさ苦しいのもしょうがない」
 それから兄貴も伊都の方を見て、穏やかに笑いかけた。
「改めて、初めまして。巡の兄の稔です。これからよろしく」
「園田伊都です。よろしくお願いいたします」
 伊都は兄貴に挨拶を返した後、思わずといったふうに目を瞠る。
「すごく驚きました。本当にご兄弟そっくりなんですね」
 途端に俺も翔も、そして兄貴も揃って苦笑いを浮かべた。この言葉は言われ慣れていたし、言われた際に抱く感想も兄弟間で全く同じだ。
「よく言われるんですよ。俺は全然似てないって思うんですけどね」
「えー、似てるよう」
 兄貴の奥さんの膝の上にいた甥が、子供らしい無邪気な声で口を挟む。甥も既に幼稚園の年長さんだそうで、しばらく会わないうちに随分喋るようになっていた。俺の顔を忘れたんじゃないかと危惧していたが、その点はあまり心配要らなかったようだ。
 やはり四年ぶりに顔を合わせた兄貴はすっかり落ち着いていて、自分の数年後を見るような気分だった。前に会った時は新米パパという調子でおむつ替えもままならなかったが、今はすっかり父親の顔をしてお喋り上手な息子に苦笑いを向けている。それでいて、俺達の前で兄貴ぶるところは相変わらずだ。
「積もる話もあるけど、めぐも伊都さんも疲れてるだろう。まず夕飯にしたらどうかな」
「あら、そうね。ご飯ならもうできてるから」
 そこで母さんが立ち上がり、皆に向かって尋ねた。
「皆さん、何をお飲みになります?」
「俺、ビール!」
 真っ先に翔が答え、隣に座る嫁さんに目をやる。
「あ、うちの嫁は飲んじゃいけないんで、何か健康にいいやつを」
 翔の嫁さんは現在妊娠中なのだと聞いていた。見た目にはまだ膨らんでおらず、腹はすんなりとしていたが、今が大事な時期なのだそうだ。今夜も挨拶と食事を終えたら先に帰るつもりだと言っていた。
「俺もビールにしようかな……帰り、運転頼んでいい?」
 兄貴が奥さんにお伺いを立てている。奥さんが差し許すという顔で頷いたので、どうやらビールが飲めるようだ。
「めぐは泊まってくんだろ? 飲むよな、ビール」
 それから兄貴は俺に水を向けてくる。
「俺は飲まないよ、潰れたくない」
「何でだよ。実家にいるんだから潰れたって問題ないだろ」
「めぐ兄ちゃん、まだ酒弱いんだ。治んないよなあ」
 率直に答えたらたちまち兄と弟に突っ込まれたが、こういうのは体質の問題だ。治るようなもんじゃない。
 それにいくら実家だからといって伊都の前で潰れて、醜態を晒すのも嫌だ。どうせ兄貴も翔も俺から失言を引き出したくて飲ませようとしているのだろうし、ここは回避するに限る。
「たまにしか帰ってこないんだから、一杯くらい付き合えよ」
 兄貴が逃すまいとするみたいに誘いをかけてくる。
 どう答えたもんかと俺が伊都に視線を投げると、伊都は何か思い出したような顔になって言った。
「あっ、巡くん。飲むのはいいけど車の入れ替えはいいの?」
 そうだった。車の入れ替えをやっておかないと兄貴一家が帰れなくなる。
「兄貴、俺の車停めたらスペースぎりぎりだったんだ。あのままだと車出らんないぞ」
「ああ、なら飲む前にやっとくか」
 すぐに兄貴も頷いて、俺達は二人ですっかり暮れた戸外へと繰り出した。

 俺の車は小さいから何かと小回りが利くが、兄貴のどでかい車は入れ替えるのにも手間がかかった。何度か切り返して、ようやく並べ替える頃には五分以上が経過していた。
「子持ちともなると、ちっちゃい車乗ってられないんだな」
 俺が兄貴のミニバンを冷やかすと、そのミニバンから降りた兄貴は平然と答えた。
「そりゃそうだよ。めぐ、お前だってそのうち車買い換えたくなるさ」
「なるかね……。俺はでかいの乗り回すの、あんま好きじゃないんだよ」
 石田が通勤に使ってるSUV車には何度も乗せてもらっているが、あのでかさと言い車高と言い、自分で運転したいとはちっとも思わなかった。あいつは登山が趣味だからああいう車を好んでいるんだろうが――あと四ヶ月もすれば石田も所帯持ちだ。いつか、もっと所帯持ち向けの車に乗る日が来るのだろうか。
「なるよ。奥さんだって免許持ってるんだろ?」
 兄貴が伊都をそういうふうに呼ぶのは初めてではなかった。だが面と向かって言われると、今更のように少し照れた。
「持ってるけど彼女、ペーパーだからな。車より自転車が好きって子でさ」
「へえ。活発そうに見えてたけど、実際活発な子なんだな」
 納得した様子の兄貴が、その後で俺に生真面目な口調で言った。
「翔の言ってた通り、明るく笑う可愛い子じゃないか。振られてもしがみついて正解だったな、めぐ」
 そういうことも帰省したら言われるんじゃないかと覚悟していた。
 ここで下手に誤魔化したら一層突っ込まれることはわかっていたから、俺はあえて肯定した。
「……お蔭様で」
「翔とも話してたんだけど、めぐが女の子に振られて、それでも追っ駆け回すなんてちょっと想像つかないよな」
 兄貴の目には、そういうことはしない弟として映っていたらしい。俺は別に諦めが早かったり堪え性がなかったりという性格ではないはずなのだが、これは信用がないと言っていいのかどうか。
「そんだけいい子だったからだよ。諦められなかった」
 俺はそこだけ正直に答えた後、兄貴にきっちり釘を刺しておく。
「言っとくけど兄貴、伊都の前でそういう話はするなよ」
「何で? 是非お二人に馴れ初めを伺おうと思ってたのに」
「別れた時の話なんて誰も思い出したくないだろ。せっかく幸せになったってのに」
 そう告げると兄貴は昔から弟を見る時にするような、年上ぶった兄貴面を浮かべてみせた。
「めぐ、ちょっと雰囲気変わったな」
 懐かしい実家の上には静かな夜空が広がっている。家の中からは大勢の笑い声が聞こえてくる。また翔が馬鹿みたいなことを言って、皆を笑わせているらしい。何か美味そうな料理の匂いも漂ってきて、もう何年も食べていなかった母さんの得意料理を思い出す。
 帰ってきたんだな、と今更のように思いつつ、俺は兄貴の言葉に応える。
「どうだろうな。もう三十過ぎたし、多少はおっさんになったかもな」
「めぐは若い嫁さん貰うんだし、まだまだ老けてらんないだろ」
「若いっつったって二つしか違わないよ……」
 俺は苦笑したが、兄貴にとっては意外だったようだ。そこで目を剥かれた。
「そんなもんなのか? もっと歳離れてるかと思ったよ」
「まあ、伊都は昔からそんなに変わってないからな。いつもあんな感じで」
 恋人の両親に会うっていうのに、今日の伊都からは気負いも緊張もまるで感じない。さすがにいつもより口数は少ないみたいだが、俺のフォローも必要ないみたいに堂々としている。広報の仕事で初対面の相手と会うのにも慣れてるせいか。
「そこに惚れたってとこか」
 兄貴が馬鹿みたいに真面目にそういう台詞を口にしたから、俺は照れ隠しに顔を顰めて答えなかった。だが言うまでもないのはわかっている。兄貴も俺の表情を見て、得心した様子だった。

 それから家の中へ戻ろうとすると、笑い声がより鮮明に聞こえてきた。
「えっ、じゃあ一月十日生まれだから『伊都さん』なんですか!?」
「そうなんですよー。ちなみに姉の名前は実摘っていうんです」
「みつみ……もしかして三月二十三日生まれ?」
「そうです! 姉妹揃って単純な名づけをされちゃいまして」
「うわ、面白ぇ! 伊都さん家のセンスすごいっすね!」
 翔がげらげら笑う横で、翔の嫁さんや兄貴の奥さんまで笑っている。それからもちろん当の伊都も、既に溶け込んで朗らかに笑っているようだ。

 俺と兄貴がリビングへ戻ると、
「おお、お帰り」
 黙って若者らの話を聞いていたらしい親父まで、笑顔で俺達を出迎えた。
「今、伊都さんの名前の由来を聞いてたんだよ。気さくに何でも話してくれてね」
「あ、巡くんお帰り!」
 伊都も俺に向かって、明るく手を振る。
「今ね、皆さんにも私の持ちネタ披露してたとこだったの! 大うけだったよ!」
 さすがは広報課員、コミュ力には何の心配もないようだ。緊張とかいう次元の話でもなかった。
 呆気に取られる俺を、同じように驚く兄貴が肘でつついてくる。
「お前の奥さん、明るくてすごいな。毎日楽しいだろ?」
 その点については全面的に肯定しよう。
 俺が彼女のこういう明るさに惚れたんだってこともだ。
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