二人暮らしのルール(2)
伊都はシャワーの後でドライヤーを使い、髪を乾かしてから戻ってきた。俺が起きているとは思わなかったのか、リビングへ入ってきた時に目を瞠り、すぐに笑った。
「起きてたんだ?」
「ああ、さっき目が覚めた」
床の上に座っていた俺は、彼女を迎えるなり神妙に頭を下げた。
「と言うより、寝落ちた記憶さえないんだ。ごめん、伊都」
「何で謝るの? 疲れてたんだからしょうがないよ」
パジャマ代わりのワンピースを着た伊都が、すとんと俺の隣に座る。そして化粧を落とした顔を俺に向けた。
乾かした後の柔らかそうな髪から、彼女が愛用しているシャンプーのいい香りがする。対照的に俺は寝起きで、ようやく頭がはっきりしてきたところで、おまけにまだ風呂にも入っていない。その差が申し訳なさを一層加速させた。
「さすがに悪いだろ。テーブルも片づけてもらって、食器も洗ってもらってて」
もちろん、彼女の気遣いは嬉しい。
これが一人暮らしならテーブルは散らかったまま、食器も水にさえ浸けないままで放置して寝こけていたことになる。そして目覚めてから部屋の惨状を見て悲嘆に暮れるわけだ。
真夜中に一人皿を洗うという空しい行為をせずに済むだけでもありがたいし、タオルケットをかけてくれた優しさも身に染みた。伊都がいてくれてよかったと初日のうちから強く実感した。
だが――ここまで来ても見栄を張りたい欲求があるのかと我ながら恥ずかしくもなるが、どうせなら彼女にこそそう思って欲しかった。
俺がいて、俺と一緒に暮らし始めてよかったと思ってくれたら。
「別に悪くないよ。手が空いてたからやっといただけ」
伊都は本当に、何でもないことのように答えた。そして言った。
「よく寝れた?」
「お蔭様で。みっともないくらい寝こけてた」
俺は溜息をつく。
「全く、初日からだらしなく寝落ちるなんて……」
既に時刻は午後十時を回っている。記念すべき同棲初日も残りあと二時間だ。大切な日だからこそ、こんなふうに時間を無駄に浪費するような過ごし方はしたくなかった。
「ごめんな、伊都」
もう一度詫びると、伊都はなぜかおかしそうに吹き出した。
「謝らなくていいってば」
「そういうわけにはいかないだろ」
「お互い謝るのは必要な時だけにしよう、って言ったの安井さんでしょ?」
今日言ったばかりの言葉だ、もちろん覚えていた。
だが俺が言うよりも彼女に言ってもらう方が、当たり前だが嬉しかった。
俺がはっとしたのがわかったからか、隣に座る彼女が俺の手を優しく握ってきた。湯上がりだからか、いつもよりも温かい手だった。
「私、安井さんが寝てたの見ても全然嫌な気分にはならなかったよ」
伊都は、膝の上にある俺の手を撫でる。温かい手はしっとりしていて、労わるように撫でられるととても気持ちがよかった。触れあっているのはごく小さな面積だけだったが、心が解けていくような幸福感を覚えた。
今日一日で俺は、何度くらい、彼女がいてくれてよかったと思うだろう。
「朝からずっと私の為に頑張ってくれてたから、寝かしといてあげたくて」
彼女の言葉に、俺もようやく少し笑う。
「起こしてくれてもよかったのに」
「もちろん私が寝る前には起こすつもりだったよ。朝まで床の上じゃかわいそうだし」
そう言うと伊都はおどけるように肩を竦めた。
「さすがに私じゃ安井さんをベッドまで運んであげられないしね」
「それができたら困るな。俺の仕事が減る」
俺は彼女の手を握ると軽く引き寄せ、こちらに倒れ込んできた彼女の唇に軽くキスをした。
伊都が目を瞬かせている間に、彼女の肩を抱きながら告げる。
「わかった。俺も謝るのはやめるから、少しだけ待っててくれないか」
「待つって何を?」
「俺もシャワー浴びてくる。まだ眠くないだろ?」
確認のつもりで尋ねると、伊都はきょとんとして聞き返してくる。
「眠くはないけど……安井さんは? もういいの?」
「ぐっすり寝たから平気だ。今じゃむしろ頭が冴えてて気分もいい」
「そういえば、急に元気になったみたいだね」
「ああ、むしろ元気いっぱいだ。確かめてみる?」
その問いかけに、彼女はとっさにうろたえた。目を泳がせながら答える。
「……いいです」
「遠慮しなくていいって言っただろ」
「いや元気になるにも程があるでしょ安井さん! 何かいきいきしてるじゃない!」
「もしかしたら夜行性なのかもな。とりあえず行ってくる、待っててくれ」
もう一度抱き寄せて唇を重ねると、伊都は赤い頬で困ったように俺を見上げた。何か言いたいことがあるようだったが、何も言ってはこなかった。
ふわりと漂うシャンプーの香りにいても立ってもいられなくなり、俺はバスルームへと急いだ。
手早くシャワーを浴び、髪を乾かして戻ってくると、伊都は膝を抱えてソファに座っていた。
なぜか首を伸ばし、天井を見上げているようだった。
その表情が少し寂しげにも映り、俺はリビングに入りながら声をかける。
「何を見てるんだ」
「天井だよ」
見ればわかるそのままのことを彼女は答えた。
それから視線を下ろし、湯上がりの俺を見てほっとしたような顔を見せる。
「おかえり、安井さん」
「ただいま……と言うほどの距離でもないけどな」
「ううん、待ってたよ」
もしかすると、本当に寂しかったのかもしれない。
俺は彼女が座るソファに近づき、すぐ隣に腰を下ろした。静かなリビングにソファのスプリングが軋む音が響いた。
「テレビでも見て待ってればよかったのに」
「退屈はしてなかったから」
伊都は答えた後、また天井を見上げた。
照明の白い光が彼女の横顔を照らしている。いつもは朗らかに笑う彼女が、今は物思いに耽るような顔つきでいる。化粧を落とした後だからか、少女のようにあどけなく、心許ない様子に見えた。
「何か……天井違うな、って思って」
見守る俺に、彼女はこちらを見ずにぽつりと言った。
この部屋の天井には壁と同じ、薄いアイボリーのクロスが貼られている。煙草を吸わないから六年住んでいてもきれいなものだ。
それから俺は、伊都が今日まで住んでいた部屋の天井がどんな柄をしていたか思い出そうとしてみた。だが何度も訪ねたにもかかわらず、どうしても上手く思い出せなかった。誰の部屋を訪ねても、わざわざ気にかけて、注意深く眺めるような箇所ではない。
「気になる?」
俺は尋ねた。
少し間を置いて、伊都が答える。
「明日の朝、起き抜けにびっくりするかもしれない。あ、引っ越したんだっけ、って思ったり」
「……引っ越して、寂しくなったのか」
彼女にとっては入社するよりも前から住んでいたという部屋だ。深い思い入れも、たくさんの思い出もあったことだろう。俺だってあの部屋には忘れがたい思い出がいくつもあったが――それを飛び越えていくような更にいい思い出を、この部屋で新たに作っていくつもりだった。
「感傷的にはなってるかな。長く住んでたからね」
伊都は頷いたが、俺が手を伸ばしてその髪を撫でると素直に口元をほころばせた。
「帰りたいなんて言うなよ」
「言わないよ、もう引き払って、鍵も返しちゃったんだから」
「言ったところで帰さないけどな。お前と一緒にいる為に今日まで頑張ってきたんだ」
洗いたてのその髪を手でくしゃっと掻き混ぜる。指先や手のひらに気持ちいい彼女の髪も、これから毎日、存分に弄ぶことができる。
「私も、この部屋がいいよ」
髪を撫でられて心地よさそうな伊都が、溜息と共に呟いた。
「あの部屋には思い出はあったけど、一人だったから。私も安井さんと一緒がいい」
「そう思ってくれないと困る」
俺は胸を撫で下ろすとソファから一旦下り、まだ座ったままの彼女を両腕で抱き上げた。
「えっ!? こ、今度は何!?」
持ち上げられて伊都は慌てふためき、やけに心細そうな顔で俺を見ている。
「お前をベッドまで運ぶのが俺の仕事だからな。これから連れていくところだ」
俺がその顔を見下ろし笑いかけると、たちまち恥ずかしそうに抵抗を示した。
「い、いいよ自分で歩いてけるって!」
「何だ、こうされたくてリビングで待ってたんじゃないのか」
「違うよ! お、下ろしなよ重いんだから!」
「暴れるなよ、運ぶのが大変になる」
警告するとさすがにおとなしくなったので、俺はこれ幸いと隣にある寝室へ向かった。
足で戸を開け、明かりの点いていない寝室に入る。
リビングから漏れる明かりと記憶を頼りにベッドまで辿り着くと、その上に彼女を横たえた。
同時に俺もベッドへ上がりながら、彼女の前髪を手でかき上げる。露わになった額で、細い眉は困惑したようにに下がっていた。
「重くなかった?」
「重かったら運べないだろ。いちいち気にするなよ」
「そうだけどさ……」
伊都は何か言いにくそうに、聞き取れない言葉を口の中で転がす。本気の心配半分、照れ隠し半分といったところだろうか。
俺はその眉間にキスをして彼女に目をつむらせると、手で髪を梳きながらその顔を眺めた。薄暗がりの中で見る彼女は普段よりも白く、儚く映り、今夜はそれが妙になまめかしく感じられた。
耳たぶに歯を立てて軽く噛む。
伊都は薄く唇を開け、微かな声を上げる。
「もう……くすぐったいってば」
「駄目か?」
「駄目じゃないけど……ううん、いいよ」
言い直した彼女が、その後でゆっくりと目を開けた。
至近距離で視線がぶつかると、仰向けに寝ている彼女の瞳が潤んで揺れた。
「ねえ、これからずっと一緒だね」
傍にいないと聞き取れないほどの声で伊都が言う。
恥ずかしそうな微笑みは、明かりがなくてもわかるほど満たされていて、幸せそうに見えた。
「ああ。しばらくは二人きりだ」
俺が応じると彼女は目を瞠り、
「しばらくは……?」
「将来的には何人家族になるかわからないだろ」
「あ、そういうこと。それもそうだね」
小さく頷いてから、はにかんだ。
「でも今はあんまり想像つかないかな……まだ結婚もしてないし」
「実は俺もだ。それに当面は伊都と二人きりの時間を楽しみたい」
「それ、わかるかも。二人暮らし堪能したいよね」
「お互い、ずっと一人きりだったからな」
外で二人で会った後、この部屋へ一人で帰ってくると無性に寂しく感じられた。
彼女が泊まりに来てくれて、傍にいてくれる間は幸せでも、その後で彼女を部屋まで送り届け、そして帰ってくれば迎えてくれるのは空っぽの部屋だけだ。それを寂しいと思うのも欲深いことだと知っているが、頭で理解したところでどうしようもない感情でもあった。
だがこれからは、ここが俺達の部屋になる。仕事に行っても、どこかへ出かけても、必ずこの部屋へ帰ってくる。伊都がいない時も待っていれば彼女は帰ってきてくれるし、俺の帰りを待っていてくれることもあるだろう。
限りなく幸福な二人暮らしが今日から始まる。
「今夜は記念すべき同棲初日だ」
俺の言葉に、伊都は声を立てて笑った。
「安井さんってそういうの好きだよね。記念日とか」
「いいだろ。記念日を大切にして、何か問題でもあるか?」
冷やかされたような気がして、俺は仕返しとばかりに彼女の首筋を指でくすぐる。
途端にびくりとして身を捩った伊都が、俺に縋るような目を向けた。
「初めての夜って言われると、何かちょっと、緊張するかなって……」
「それはそれで、いかにも初めてみたいでそそるな」
改めて幸せを味わうように、彼女の唇へキスを繰り返す。
高まる期待はこの夜の、これからの時間に対してだけではない。今日から始まる全ての時間に胸が高鳴り、幸福感が満ち満ちていくのがわかった。
「さっき寝たからしばらくは眠れなさそうだ。付き合ってくれよ、伊都」
唇を噛みながら告げると、彼女は頷く代わりに俺の背に腕を回してきた。
記念すべき同棲初日は素晴らしいほど幸せに幕を下ろした。
そして迎えた、記念すべき同棲二日目の朝。
「……やっぱり天井違うね」
同じベッドで目覚めてすぐに、伊都は俺に抱きつきながら言った。
「びっくりするかもって思ってたけど、本当にちょっとびっくりした」
夜明けが早くなってきた春の朝。カーテンの隙間から零れる日の光が、彼女の白い肌を光らせている。そこに手を這わせると、冬場よりもほんのり温かかった。
「初めて見るわけでもないのに驚くものか?」
「うん。だって今までとは違うじゃない」
俺が抱き締め返して尋ねると、彼女は頷き、更に続けた。
「安井さんの部屋に泊まったんだって覚えてたら驚きはしないけど、昨日からはここが私の部屋でもあるんだから。自分の部屋だと思ったら天井が違ってて、そしたらやっぱり驚かない?」
ベッドに横たわって見上げれば、俺にとっては見慣れた天井がそこにはある。
きっと彼女も直に見慣れてしまうだろう。ここが二人の部屋になった以上は、毎朝をこの寝室で迎えることになるだろうし、そのうちに――。
「あ、言い忘れてた」
不意に伊都が照れ笑いを浮かべて俺を見た。
「おはよう、安井さん」
「ああ。おはよう、伊都」
俺は彼女の髪を撫でながら挨拶を返し、唇に軽くキスしておく。
「何か照れるね、こういうの」
「そうか? 俺は幸せしか感じないよ」
「照れるよ、だって新婚さんみたいじゃない」
「似たようなものだろ。既に婚約済みなんだから」
とは言えめでたく結婚したらしたで、俺はその初日を改めて記念日として制定し、昨日のように大切にして過ごしたいと望むことだろう。
初めての夜だってまた楽しめる。多少口実としてかこつけている感もなくはないが、それも含めて記念日はいいものだし、大切にしたい。これまでの空白期間を、孤独な時間を埋めていく為にも、新しい思い出はいくらあったっていい。
「とりあえず、今日は記念すべき同棲二日目だ」
俺が口火を切ると、伊都は目を丸くした。
「えっ。二日目も記念なの?」
「そりゃそうだろ。二日目だぞ? こんな日はもう二度と訪れない」
「いや、そうだけど……そんなこと言ってたら、毎日記念日になっちゃうじゃない」
「俺はそれでもいい。お前と過ごす毎日が記念日だ」
たちまち伊都は身体を震わせ、くすくす笑い出した。
「そんなに記念日ばかりじゃ覚えてられないよ!」
朝起きたばかりだというのに、彼女は朗らかな笑い声を立てている。
この声も笑顔もこれからは毎日、存分に堪能できるわけだ。幸せだ。
「で、記念すべき二日目は何をして過ごそうか」
「うーん……。とりあえず、朝ご飯にする?」
「じゃあ豆腐丼がいい」
「言うと思った。私もそれがいいな、作るね」
「その後は少しのんびりしよう。昨日頑張った分、今日はじっくり静養だ」
「本当に静養するんならそれでもいいけど」
伊都が探るような目を向けてくる。
俺はその視線を真っ直ぐに受け止め、いろんな意味を込めて笑い返した。
「記念日を楽しむなら、静かにはしてられないかもな」
「やっぱり……」
「いいだろ。そういう過ごし方も二人暮らしの醍醐味だ」
「……それもそうだね」
途端に彼女の表情がふっと解け、どこか眩しそうに俺を見つめてきた。
「朝起きたら隣に安井さんが必ずいるって、いいね」
そう思ってもらえるなら、俺もとても嬉しい。
だから俺は返事の代わりに、彼女の唇をもう一度そっと塞いだ。