Tiny garden

唯一無二の笑顔なり(4)

 その日、午後五時を過ぎた頃合を見計らい、俺は石田に電話をかけた。
 今回は私的な用事ではあるが同時に仕事の依頼でもある。うるさ方を経由する恐れがある内線は避け、石田の仕事用の携帯電話に直電してやった。

『はいよ。どうした安井』
 向こうも俺がかけたとわかっているからか、いきなり気安い口調で応じてきた。
「石田、今ちょっと空いてるか」
 俺は単刀直入に尋ねる。定時後とは言え新人教育中の石田は忙しいはずだ。むしろこの時分ならぼちぼち新人くんを帰し、これからようやく自分の仕事に取りかかれるってところだろう。
『空いてるってほどでもない。急ぐなら後にしろ』
 案の定、石田の答えは警戒気味だった。これ以上面倒事が増えては困るという物言いだ。
 もっとも、こちらの用事はすぐに済む。写真を撮らせてもらうだけだ。
「五時半くらいなら?」
『用件の中身による。もし面倒な話なら――』
 石田が釘を刺そうとしてきたので、俺は素早くそれを遮る。
「五分で済む、手間は取らせない。今、外じゃないよな?」
 新人教育期間なら外回りの真っ最中ということもあり得る。俺は確認の為に尋ね、
『課にいるよ。つかお前、何の用だって?』
 石田から必要な返事を得た後は、さっさと通話を終わらせることにした。
「すぐにわかる。もう少ししたら行くから、ちょっとだけ身体空けといてくれ」
 どうにか断られないように押し切ることができた。
 しかし問題はここからだ。あの写真を見せて、その上で石田からの協力をもぎ取らなければならない。全ては園田から素晴らしいお礼を頂く為に、決して失敗は許されないのだ。

 電話で予告した通り、俺は五時半過ぎに営業課を訪ねた。
 営業課を離れてから大分経つが、古巣だけあってここの空気は他とは違う。俺がノックしてドアを開ければ、居合わせた元上司や元同僚らが一斉に顔を上げた後、ああお前かという顔をする。まるで俺がまだ営業課の一員であるかのような反応だ。
「あれ、安井くん」
 営業課長が俺を見てなぜか笑う。俺はこの人が主任だった時代を知っていて、その頃もこうして外回りから戻ってきた俺に気づいて労うように笑っていた。
「出戻りです。今日からまた営業課員としてよろしくお願いします」
 懐かしさから軽口を叩けば、課長を始め居合わせた面々が声を立てて笑う。
 もっとも、笑わない奴もいる。俺が訪ねてきた瞬間からじっとこちらを注視している石田がそうだ。吊り目がちな目元が今は警戒するように鋭い眼光を放っている。
 俺が奴の席へ近づいていくと、石田はわざとらしく身構えながらこう言った。
「お前、今戻ってきたら新人扱いで俺の指導だぞ、いいのか」
「いいよ。俺も屋上で花火見せてもらいたいし」
 即座に切り返すと石田はうっと言葉に詰まり、営業課が先程以上の笑いに包まれる。

 花火というのは去年の夏の話だ。
 毎年恒例の花火大会が催される当日、今年度と同様に新人教育中だった主任殿は去年の新人さんにどうしても花火を見せてやりたくて、わざわざ人事課の俺の元へ問い合わせてきたのだ。このビルの屋上からなら花火は見えるのかと――昔はこの営業課の窓からも見えたのだが、隣に別のビルが建ってしまったせいで見えなくなっていた。だが幸いにして隣のビルとは高さがほぼ同じの為、結果的に石田は小坂さんに花火を見せてやることができたそうだ。
 それは二人にとってはいい思い出となっただろうし、石田個人にとっては間違いなく生涯からかわれるネタにもなるだろう。少なくとも俺は覚えている限りずっとつっついていく所存である。

 そういえば営業課に小坂さんの姿がない。いざとなれば彼女にも協力してもらおうと思っていたのだが仕方ない。
 俺は園田から借り受けたシャンパンゴールドのデジカメを取り出し、早速本題に入った。
「それより、用件だけど。写真撮らせてくれないか」
 途端に石田が眉を顰めた。
「俺の?」
「そう。お前がごねなきゃ五分で済むから」 
「悪用するなら断る」
 すぐ済むと言っているにもかかわらず、石田はまだ警戒心を収めようとしない。
 俺は肩を竦めた。
「しないよ、俺が使うんじゃないし」
「じゃあ誰だよ。モデル料取るぞって言っとけ」
「相手は広報だぞ、協力しろよ。イントラに載せるんだって、俺とお前の写真を」
 さも決定事項のように告げると、石田はますます訝しがった。
「俺達の? よりによってどういう人選だよ」
 言いたいことはわかる。俺と石田を並べて記事にするなんて、間違っても称賛されるような内容にはなるまい。
 そして事実も想像とはそこまでかけ離れていない。
「社内報で特集組むんだそうだ。『あの時君は若かった』的な」
 俺は笑いを堪えながら打ち明けた。園田がここに居合わせたらまたぷりぷり怒っていたかもしれない。
 石田はおかしいというよりは呆れたように乾いた笑い声を立てた。
「えー……また微妙な企画やっちゃったな」
「勤続年数が一定以上の社員から、今現在の写真と入社当時の写真を集めて、並べて記事にするんだと。それで俺も声をかけられちゃってさ、最近の写真が必要なんだ」
 企画の概要を多少ぼかして説明する間も、石田の顔は明らかに浮かない様子だった。やりたくないとその顔にしっかり書いてあるようだ。
「わかってやれよ、広報だってネタ切れなんだよ」
 俺の仕事でもないのに庇うような口調になってしまったが、それでも石田の反応は芳しくない。
「いや、そう言うけど寒いだろ、そういうの」
「間違っても向こうに言うなよ、今の発言。『じゃあネタ寄越せ』って切れられるぞ」
 既に言われた後だ。それはもう断言できた。
 そこでふと、石田は何か気づいたように聞き返してきた。
「……と言うか、声かかったのお前だけだろ? 俺関係なくないか?」
 さすがは石田、鋭い読みだ。
 ここからが俺にとっても正念場だ。何とかしてこいつを巻き込んでやらなくてはならない。
「話貰った段階では関係なかったんだけどな。写真探してみたら、出てきたのがこれ」
 俺は自分の部屋から見つかった例の写真を取り出し、石田に見せた。
 今とは年齢も顔つきも髪型も違うルーキー時代の自分を見て、石田は身体に電流が走ったかのようにびくっとしてから動きを止めた。両目を見開き写真を凝視した後、いたたまれなさ全開の顔になって額に手を当てた。
「予想以上にダメージでかいなこれ……」
「しかも社内報に載るんだぞ。覚悟しとけよ、石田」
 俺が追い打ちをかければ、反射的に顔を上げた石田にぎろりと睨まれた。
「載せんなよ。お前一人で載れよ」
「入社直後の写真、俺一人で写ってるやつがなかったんだ。悪いが付き合ってくれ」
 これは嘘じゃない。
 仮に俺一人で写っていた写真があったとしても、これほどネタになる写真ではなかったことだろう。社内報でウケを取るには石田の存在が必要不可欠なのだ。
「広報はいいって言ったのか、俺が入っても」
 石田が憂鬱を露わにしながら聞いてきた。
「見せたら、是非この写真でって言われた。大ウケだった」
 これも事実の通りに答えると、石田はげんなりして溜息をつく。
「大ウケとか……。いいのか仮にも社内報がそんなふざけた写真で」
「わかってるだろ? 俺たちはギャグ要員なんだよ、クイズ番組の芸人枠と一緒だ」
 押し切れそうだと踏んだ俺は、石田に席を立つようジェスチャーで促した。
 石田が昔の写真を机の上に置き、不承不承立ち上がったその時だった。
「先輩の若かりし頃ですか。うわ、本当に若いなー」
 いつの間にか石田の席までやってきた霧島が、机上の写真をひょいと取り上げた。そしてしげしげと眺めたかと思うと生意気そうな含み笑いを浮かべてみせる。
「勝手に見るな」
 石田が尖った声を上げると、霧島は笑いを隠しもせずに明るく応じた。
「もう見ちゃいましたよ。どうせ社内報に載るんじゃないんですか」
 入社当時は生真面目で可愛い後輩だったのに、いつからこんな性悪になったのやらだ。

 俺の部屋に眠っていた写真の中には、そんな霧島がまだ可愛かった頃のものも、可愛くなくなりかけてきたものもある。
 それをもし奥さんに見せたならさぞかし愉快なことになるだろうと推測できたが――いや、駄目だ。あれは霧島の恥でもあるが俺の、そして石田の恥でもある。霧島と石田はどんな目に遭おうと構わないが俺は嫌だ。最近はいろいろと恥をかくことが多かったので、自分が得をしない局面ではなるべく恥を晒したくない。
 それにあの写真を見せたところで霧島夫人も小坂さんも幻滅などしないとわかりきっている。誰が円満夫婦及びカップルにいちゃつくネタなど与えるか。

 ぐるぐると思案を巡らせる俺をよそに、霧島はまだ写真を見て石田を弄っている。
「髪型に時代を感じますね、先輩」
 それはどうやら石田にとって一番触れられたくない点らしい。奴が機嫌を損ねたのが表情からわかったので、協力を仰げなくなっては事だと俺は口を挟んだ。
「霧島、見物料取るぞ」
 そして園田から借りたデジカメを霧島に向けて差し出す。こいつは生意気だが物の扱いも丁寧だし、任せても大丈夫だ。
「俺と石田でそこに並ぶから、写真撮ってくれ」
 霧島は先程までの生意気さはどこへやら、責任重大という顔つきでカメラを受け取る。
「構いませんけど……俺が撮っていいんですか?」
「写真見た分の料金として格好よく撮れよ。男前に写ってなかったらお前のせいだ」
「素材に問題がある場合はどうしたらいいんですか」
 あるはずがないな。石田はともかく俺にはない。
 俺は霧島の質問をスルーして、まだ不満げな石田を振り返る。
「霧島が格好よく撮ってくれるって言うし、またポーズ取ろうか、石田」
 かつて撮った写真のように両手を突き出して告げると、石田はまだ恥を捨てきれないのか、断固としてかぶりを振った。
「嫌だ。これ以上恥を増やしてたまるか」
「恥の増えない人生なんてないよ。いつだって増えていくばかりだ」
 最近悟ったばかりの真理を俺は語って聞かせたが、石田には伝わらなかったようだ。妙に同情めいた表情をされてしまった。

 何だかんだ言いながらも、霧島はデジカメで俺達の写真を撮ってくれた。
 奴の写真の腕は決して悪くはないものの特別素晴らしいわけでもなく、俺と石田は過不足なく三十歳の面構えで写真に収まった。若かりし頃と違って何も考えていない能天気な顔こそしていなかったが、その代わり何か企んでいるようなあくどい顔が二つ並んでいた。少なくともルーキー時代の後先考えない勢いみたいなものはここにはなく、少しでもよく写ってやろうという見栄やプライド、それでいてまだ落ち着いた顔はしてやらないという謎の反骨心みたいなものがお互いに窺える。
 俺も石田も三十歳、決して若くはないはずだが、社内では若造扱いという微妙な年頃だった。

「歳取ったなー、俺も石田も」
 デジカメのモニターを覗いて写りを確認しつつ、俺はぼやいた。
 だが霧島はそれに真っ向から異を唱えてくる。
「そうですか? 先輩がたはあんまり変わってないですよ、髪型以外」
 触れられたくない点にまた触れられて、石田が無言で霧島を睨む。
 もちろん霧島も今となってはその程度で引くようなタマではない。
「先輩がたは春名くんみたいな爽やかさ皆無ですしね。一年目から海千山千って感じがします」
「うるさいよ霧島。三キロ幸せ太りしたくせに」
 石田が噛みつくとさすがに反論できなかったようだが。新婚さんなのも多少太ったようなのも嘘偽りない事実だけに、そこをつつかれると弱いようだ。
「幸せ太りの新婚さん、デジカメと写真ちょうだい」
 俺も石田に倣って霧島をからかい、霧島は眼鏡越しに俺を睨みながら両方とも差し出してくる。受け取ったデジカメは胸ポケットに、写真は手帳に挟んだ後、俺は石田に礼を述べた。
「じゃ、協力ありがとう。社内報に載ったら連絡するからな」
「楽しみにしてるって広報に言っとけ」
 石田は自棄になったような笑みを浮かべて応じた。
「わかった、伝えとくよ」
 俺は頷くと、早速園田の元へ飛んでいこうと営業課の戸口を目指す。

 そしてドアノブに手をかけようとしたところで、それよりも早くノブがひとりでに回った。
 すぐにドアが開き、長い髪を高い位置で結わえた若い女の子が現れる。
「あっ、安井課長。こんにちは!」
 小坂さんだった。
 疲れているだろうに、俺を見て行儀よく笑う顔は相変わらずおりこうさんの犬みたいだ。
「こんにちは、小坂さん。今戻ってきたとこ?」
 声をかければ彼女は勢いよく頷いた。
「はいっ。課長は営業課にご用でしたか?」
「うん、もう帰るところだけどな」
 用は全て済んでいた。園田を待たせていることだし、石田の気が変わらないうちにさっさと立ち去るべきだろう。
 だが小坂さんの顔を見たら、急に悪戯心が湧き出てきた。家にあるアレな写真はこの子にも見せられないが、今手元にあるこの写真は、社内報に載ればいずれ小坂さんの目にも留まるはずだ。せっかくなのでサービスしてやるかと、俺は彼女に持ちかけた。
「いいところに帰ってきたな。ついでだから君にも見せようか、石田と俺が新人だった頃の写真があるんだ」
 ついでに石田の方を振り返っておく。石田は随分前からこちらを気にするそぶりで観察していたが、俺が写真を取り出すと大袈裟な仕種で顔を背けてみせた。意外と度胸がないな。
 俺が取り出した写真を、小坂さんは真剣な面持ちで見入った。穴が開くほどじっくり眺めてから、ふと優しい声で言った。
「この時のお二人は、私よりも年下なんですよね」
 小坂さんはまだたったの二十四歳だ。年下と言っても大した差ではないように、俺からすれば思う。
 だが彼女にとっては一年の差がとても大きく感じるのだろう。新人時代の俺達にとって、初めの一年がとても長く感じられたように。
「そうだよ。どう? 君より若い俺達の印象は」
 尋ねてみると、小坂さんは吹き出したり面白がったりということは全くなかった。俺や石田より七つも若い彼女からふと、あどけなさが影を潜め、代わりに女らしい柔らかい微笑が浮かんだ。
「とっても素敵です。楽しそうな顔してて、いいなあ……」
 呟くように言ってから顔を上げ、俺に向かってこう続けた。
「お二人とも、この頃から格好よかったんですね」
 そこは無理しないで、あいつだけ誉めてくれても一向に構わなかったのだが――ちらっと盗み見たところ、自分の席に戻った石田は不自然な頬杖をつきながらぷるぷる震えていた。口元が見えないように隠したつもりなのだろうがどんな顔をしているかは見るまでもなくわかる。でれでれしやがって。
 もっとも、俺も園田から似たようなことを言われたら平然とはしていられないだろう。案外、石田と同じ反応をしてしまうかもしれない。
「社内報に載るんだ。この写真と、ついさっき撮った今の俺たちの写真。そういう企画でさ」
 俺は小坂さんに視線を戻し、協力してくれた石田の為に念を押す。
「君がそうやって誉めてくれたら、企画に乗り気じゃない誰かさんも気が変わると思うから、後でじっくり誉めてやってくれ」
 このくらいのサービスはしてやってもいいだろう。石田がいなけりゃ今回の写真も揃わなかったわけだし、これをネタに後で思う存分いちゃつくがいい。
 それに俺も少しだけ、小坂さんの反応に希望を貰えたような気がしたのだ。

 手帳の中にはもう一枚、まだ誰にも見せていない写真がある。
 当然だがそれは園田以外に見せるつもりはない。
 俺はその機会を今か今かと待っていた。その写真が彼女の心に働きかけ、眠れる懐かしい記憶と感情を引き出してくれるのではないかと希望を抱いていた。
 古い写真にはきっと、それだけの魔力がある。
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