Tiny garden

いとしいとしというこころ(1)

 三月の下旬、この日は朝からは春らしく霞んだ晴れ空が広がっていた。
 入籍してから二ヶ月が過ぎた今、俺達はめでたく結婚式当日を迎えていた。
 式の日取りを三月にしたことについて、特に深い理由はない。強いて言うなら二人の意見が『春の方が結婚式っぽい』ということで一致したのと、しかし入籍日からあまり間を空けたくなかったのと、五月の連休までに全て終わらせてすっきりした気分で新婚旅行に行きたかったという、言ってしまえば個人的な事情ばかりだ。
 仕事のことを考えると三月は決して暇な時期ではないのだが、言ってしまえばいつだってそこまで暇ではない。皆に余裕があって予定がなくて都合のいい日、そんなものを考え出すときりがないので年度末前に式を挙げてしまうことにした。

「じゃあ巡くん、また後でね!」
 式場となるホテルに到着し、ラウンジで軽く食事を取った後、伊都とは一旦別れることとなった。
 彼女にはこれからドレスの着つけやメイクなどの支度があり、しばらくは会えなくなってしまう。しかも花嫁の準備は花婿よりもはるかに長いと来ており、所要時間は一時間近いと言われていた。着替えをしなくてはならないのは俺も同じだが、手間のかかり具合では花嫁に敵うものではない。
 もちろんその間、花婿もただぼんやりしていていいというわけでもない。本日はここのホテルに泊まる予定なので時間が来たらチェックインを済ませなくてはならないし、あと一時間もすれば互いの両親や親族が到着する予定だし、受付をお願いする方々との打ち合わせもある。
 石田、霧島両夫妻にも式に出てもらう為、早めに来て欲しいと頼んでいる。それぞれが到着したら出迎えて、挨拶をしなくてはならない。
 そのスケジュールのどこで伊都の支度が済むかはわからないから、連絡をくれるようにお願いすることにした。
「準備ができたら呼んでくれよ」
 俺は釘を刺すように伊都に言った。
「お前の晴れ姿、一刻も早く見たいから」
 何だかんだでそれが一番の目的でもあるのだが、花嫁の晴れ姿を真っ先に見られるのも、花婿の特権のはずだ。
 伊都はあっけらかんと笑って、親指を立ててみせた。
「わかってるって! すぐに呼ぶからね!」
「絶対だぞ」
「大丈夫だってば。巡くんこそ、すっごく格好よくなって待っててね」
「それは任せてくれ。惚れ直させてやる」
 俺が親指を立て返したら、伊都はくすぐったそうにはにかんだ。
「さすが、自信たっぷりだね!」
 そして俺は一足先に着替えへ向かう伊都を、少し寂しい気持ちで見送り――しばらくしてから気を取り直して、俺自身も着替えに向かったのだった。
 花婿の着替えは普通にスーツを着るのと変わらず、一人で済ませてしまえるものだ。俺は出勤する時と同じようにシャツをまといボタンを留め、パステルオレンジのネクタイを締めた。その上からネクタイと同色のベストを着ける。スラックスはサスペンダーで吊っているのがほんの少し慣れない。シャツの袖に白蝶貝のカフリンクスを留め、白いエナメルの靴を履き、最後にタキシードの上着を羽織れば花婿衣裳の一丁上がりだ。
 上着から靴まで全身真っ白だが、ネクタイとベストには遊び心を効かせた花婿は、鏡の前でいやに得意げな顔をしていた。白いタキシードが自分に似合うとわかっている顔だ。
 ヘアメイクまで自分で済ませたところで、まず弟から連絡があった。
 安井家の親族一同が早速ホテルに到着したらしい。俺は控え室を出て、皆が待機しているロビーへ向かった。

「めぐ兄ちゃん、タキシード超似合うね!」
 迎えに出た俺を見て、十ヶ月ぶりに会う弟の翔はなぜか声を上げて笑い出した。
「なんで笑うんだよ、失礼な奴だな」
 俺が憤慨すると翔は両手を合わせてきて、
「ごめんごめん。白タキシードがこうもばっちり決まる人、珍しいじゃん」
「本当、よく似合ってるぞ。さすがはめぐ、俺の弟だ」
 兄貴は兄貴で、我が事のように得意げにしている。
 俺に白タキシードが似合うのは別に兄貴のお蔭でもなかろうし、ましてや似合うからという理由で弟に笑われるのは納得いかない。しかし伊都に言わせれば安井三兄弟は似ているらしいので、その理屈でいけば兄貴も翔も同じように似合うのではないだろうか。
「翔、お前も着とけばよかったのに」
 弟は式は挙げずに写真だけ撮っていたが、その時は夫婦揃って和装だった。俺が水を向けると、翔は照れ笑いを隣に立つ奥さんへと向けた。
「まあ俺はタキシードって柄じゃないからさ……でもめぐ兄ちゃんにこんなに似合うなら、俺にも似合ったかな?」
 赤ん坊を抱いた弟の奥さんも保証するように頷いていた。
 会わないでいた十ヶ月の間に、弟は父親になっていた。既に生後五ヶ月という弟の子は女の子で、母親に抱かれて機嫌よさそうに笑う実に愛想のいい子だった。時々『あぶぶぶ』と何か言葉を喋ったり、紅葉みたいな手で母親のブラウスの襟を引っ張ったりしていた。
「もちもちしてて可愛いな」
 俺は初対面の姪っ子のすべすべのほっぺたを撫でてみた。まさに餅のようにぷくぷくしていた。抱かせても貰おうと思ったのだが、弟に『白タキシードでそれは危険だ』と言われたので次の機会にすることにした。
「めぐ兄ちゃんとこは、子供は?」
「いや、特に予定はないよ」
 伊都との会話にそういう話題が持ち上がることはあるし、可能性はいつでもあるということも俺達はちゃんとわかっている。だが具体的に欲しいとか、いつ頃にしようなんて話はまだ出ていなかった。伊都も広報の仕事が面白いようだし、向こうでも重要な戦力として位置づけられている。俺も結婚したらすぐにでも、なんて思っていたわけではない。
 だがこうしてくたくたに柔らかい赤ん坊と出会うと、子供もいてもいいかなと思えてくる。
「そういえば、伊都さんは? まだお着替え中?」
 母さんが尋ねてきたので、俺は頷く。
「三十分前に行ったばかりだから、まだかかるよ」
「伊都さんならきっと可愛い花嫁さんになるだろうな」
「だね。早く見たいな、式前にご挨拶とかできる?」
 兄貴と翔が揃って期待を寄せている。
 伊都がどんな花嫁になるかは、俺は既に知っている。式と披露宴でドレスを替えることも、それによって二つの顔を見せてくれることも知っているし、とても楽しみにしている。せいぜい皆も『俺の妖精さん』にハートを打ち抜かれてしまえばいい。めちゃくちゃ可憐だからな、覚悟しておくように。
「なら、私達も着替えをしてこようかしら」
 着物を持参してきたという母さんを着替え用の個室に、それ以外の親族は控え室に案内した後、俺の携帯電話が短く鳴った。
「お、誰から? 伊都さんから?」
 すかさず翔が食いついてきたが、連絡してきたのは彼女ではなく、彼女のご両親だった。
 今度はそちらを迎えに伺うべく、俺は賑々しい安井家控え室を後にした。

 伊都からの連絡は彼女のご両親にご挨拶をして、控え室までご案内した後もまだ来なかった。
 そうこうするうちに今度は石田から到着したと連絡があった。霧島夫妻と一緒のタクシーで来たそうで、四人一緒にロビーで待っているらしい。
 まだ時間もあるし、四人の顔も見ておきたい。そう思ってロビーへ向かうと、きらびやかな照明の下にスーツとドレスの、しかし確実に見覚えのある四人連れがいた。
「あっ、安井課長!」
 真っ先に声を上げたのは可愛らしいドレス姿の石田夫人で、俺の姿を見るなり口元に手を当てた。
「わあ……すごい、まるで王子様ですね! 素敵です!」
「ありがとう、藍子ちゃん。そういうコメントを待ってたよ」
 王子様などと言われれば悪い気は全くしない。俺のお姫様は残念ながら、まだここにはいないが。
「確かに、馬とか乗ってきそうな格好してんな」
 対して旦那のコメントがこれである。奥さんの素直さを少しは見習え石田。
「お前、もう少し言いようあるだろ……」
「似合うとは思ってるぜ」
 俺の落胆に石田はにやりとして、
「しかし王子様が一人でとぼとぼ歩いてきちゃ台無しだろ。お前の可愛い妖精さんはどうした?」
「それまだ言うか!」
「え? 妖精……って、伊都さんのことですか?」
 ほら見ろお前の素直すぎる奥さんが聞きとがめちゃったじゃないか。
 もちろん俺からは説明などしないし、石田が何か言おうものならあとで復讐に出る。奥さんには内緒にしたいであろうお前の秘密だって握っているんだからな。
「白タキシードとは思い切りましたね、先輩」
 話題を変えようとでも思ったか、霧島が感心したように言った。
「どういう意味だよ」
「見事に着こなしてるなって驚いてたんです。結構人を選ぶ衣裳じゃないですか」
「それは元の素材がいいからだな。男前は何を着ても似合うんだ」
「そういうことでいいですよ、おめでたい日ですし」
 まるでご祝儀のように言いやがる。霧島め、お前の結婚式で俺がどんなに誉めてやったか忘れたか――あれ、そうでもなかったか。
「本当に何でもお似合いなんですね。素敵ですよ、安井さん」
 霧島夫人はそう言って、静かに微笑んだ。
 今年度で退職することを決めた霧島夫人は、以前と同様にほっそりしていてスタイルがいい。ただ着ているドレスはお腹周りを締めつけない、ゆったりしたものになっていた。
「ありがとう。奥さんは、身体の調子はどう?」
 俺が尋ねると、霧島夫人は目を伏せるように頷いた。
「ええ、お蔭様で。最近は食欲も戻ってきたんです」
「それはよかった。でもくれぐれも無理しないようにな」
 結婚式はホテル内にあるチャペルで行う予定で、そこはほどほどに暖房も効いているし椅子もある。ただ式の最中に起立を求められる機会が何度かあるので、霧島夫人には無理をしないように事前に話しておいていた。
「さっき、俺の弟が赤ん坊連れててさ」
 俺は霧島に向かってそう話した。
「女の子なんだけど、これがぷくぷくで可愛かったんだ。お前の子も楽しみだな」
 すると霧島夫妻ははにかみながら顔を見合わせ、
「まだ、どっちかはわからないんですけどね。俺も楽しみです」
 霧島がまだ見ぬ我が子に相好を崩した。
 この霧島夫妻の結婚式に出てからもう二年が過ぎ――振り返ってみればいろんなことが変わった。弟も結婚して父親になり、石田もまためでたく結婚を果たした。霧島のところには秋頃にも家族が増える予定らしい。
 俺は伊都を取り戻し、一緒に暮らすようになり、今日まで幸せな時間を過ごしてきた。入籍もした。自転車を買って通勤時に乗るようになった。豆腐もいっぱい食べた。この二年間を振り返って浮かんでくる思い出は、どれも本当に素晴らしいものばかりだ。
 それらの思い出を締めくくるみたいに、今日、俺は伊都と結婚式を挙げる。
「ところで、伊都さんはまだお着替え中ですか?」
 石田夫人の問いに、他の三人もそわそわし始める。
「楽しみだよな、伊都ちゃん。安井があんだけめろめろになるくらいだしな」
「是非とも拝見したいです。先輩が完璧骨抜きにされてましたからね」
「画像持ち歩くくらいですもんね。ちゃんとお化粧したら、もっときれいだろうなあ」
 石田も霧島も霧島夫人まで、さりげなく俺を冷やかしてきているのは気のせいか。
「伊都さんの画像持ち歩いてるんですか? 安井課長もそういうことなさるんですね!」
 石田夫人はこの通り、純真そうに感心していらっしゃる。
 いつだったか、石田の写真――正確には写真つき名刺をパスケースに、後生大事にしまっておいている石田夫人をからかったことがあったが、結局は俺も同じことをしているのだ。笑われても仕方ない。
「伊都は、まだ準備ができてないんだよ」
 話を逸らすつもりで俺が答えた時だった。
 手にしていた携帯電話がまた鳴って、画面を覗き込めばそれはまさに彼女からだった。
『準備できたよ、迎えに来てくれる?』
 その文面を目にしただけで、正直、胸が高鳴った。
 それは顔にも出ていたようだ。
「いとしの伊都ちゃんからだな」
「顔緩んじゃってますよ、先輩」
「うるさいよ」
 石田と霧島に冷やかされて、俺は慌てて携帯電話をしまう。
 そして、
「呼ばれたからちょっと行ってくる。あとで伊都と一緒にまた顔出すよ」
 四人にそう言い残してから、踵を返して花嫁の元へ向かった。
 逸る気持ちが自然と足を急がせて、背後からは四人の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「マジで嫁さんにぞっこんだよな、安井の奴」
「あの急ぎ足に愛を感じますね!」
「先輩のあんなでれでれ顔が見られるとは思いませんでしたよ」
「安井さん、急ぎすぎて転んだりしないでくださいね!」
 皆、口々に囃し立てたり、面白がったりしている。
 好き放題言われてるなと思いつつ、やはり口元が緩んでくるのが抑えきれなかった。
 早く、俺の花嫁に会いたい。
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