恋と愛(5)
石田の結婚式から二週間が過ぎ、九月が終わろうとしていた。その週末、俺と伊都は石田夫妻が暮らすマンションを訪ねていた。新婚旅行の土産を渡したいと言われていたからだ。
本当は先週にも霧島夫妻ともども招かれていたのだが、伊都の都合がつかずに俺一人でお邪魔していた。石田夫人は伊都にもお土産を買ってきてくれたそうで、できれば直に手渡したいと言っていたし、伊都自身もそう希望していた。なのでこうして日を改めての訪問となったわけだ。
俺は独身時代の石田の部屋にも呼ばれたことがあり、当時はよく言えば男らしい、悪く言えば全く飾り気のない石田の趣味に苦笑した覚えがある。
奴は部屋を飾るということをほとんどしない男だった。リビングには業務用みたいなパソコンラックと机が並び、ノートパソコンだけでも常に二台はあった。壁面を覆い尽くすようなどでかいメタルラックにはテレビ、レコーダー、プリンタ、外付けハードディスク、更にはコンポを二台収めておくような無骨ぶりだった。中央に置かれた木目のローテーブルと布張りのソファだけがかろうじて温かみのある代物で、それを除けば職場と大差ない環境だった。
『殺風景? 馬鹿言うな、俺はこれが落ち着くんだよ』
とは、当時の石田の弁である。
しかし現在の石田家のリビングはまるで様変わりしている。
パソコンラックに置かれたノートパソコンには青いタータンチェックの布がかけられ、石田なら『性能が足りん』と見向きもしなさそうな丸くて可愛いスピーカーが添えられている。
テレビは白木のボードの上へ移動しており、プリンタ等はどこぞへ飛ばされたのか影も形もなく、空いたメタルラックにはフォトスタンドやサボテンの鉢植え、小さな犬のぬいぐるみなどがちょこちょこと飾られている。布張りのソファの上には色とりどりのクッションが並べられていて、どこからどう見ても女の手が入ったとわかる仕様になっていた。心なしか香りまで違った。
「つくづく内装、変わったな」
結婚後二度目の訪問となった俺が思わず唸ると、石田は何だか幸せそうに笑った。
「だろ? 好きなようにやっていいって言ったんだよ」
「前のお部屋も素敵でしたけど、お客様が来るならちょっと変えたいなって思ったんです」
石田夫人が屈託なく語を継ぐ。
あの部屋を素敵と評する奥様の感性はよくわからないが、彼女なら石田のすることは全て素敵に見えているのかもしれない。新婚だから当然かもしれないが、実にラブラブである。
「悪いな、新婚さんのところに二度もお邪魔して」
俺は軽く詫びた後、横に座る伊都を振り返る。
「この間は伊都が仕事で来られなかったからな」
「ごめんね、急に出張が入っちゃって」
続いて伊都が手を合わせると、石田夫人が犬みたいに素早くかぶりを振った。
「いいんです。是非何度でもお越しください!」
「ありがとう! 藍子ちゃんは優しいね」
いつの間にやら、石田夫人と伊都もすっかり仲良くなったようだ。もともと人懐っこさはよく似た二人なので、打ち解けあうのも簡単だったのだろう。
「広報も忙しいのか」
石田が気遣わしげに伊都へ尋ねた。
「結構ね。取材となると急に出張入ることもあって」
肩を竦める伊都だが、広報課二年目ともなればその辺も慣れたものらしい。出張の荷物をまとめる手際のよさと言ったら見習いたいほどだった。
「結婚しても仕事続けんのか?」
「一応そのつもりだよ。巡くんもいいって言ってくれてるし」
石田の問いに伊都は笑顔で答えていたが、俺は黙って頷くのみだった。
もちろん結婚後も伊都が仕事を続けることに異論があるわけではない。むしろありがたいと思っている。
ただ、近頃の俺は折に触れて広報課長から釘を刺されているのだ。
『安井くん、園田さんはうちのとても重要な戦力でね。できれば仕事を続けてもらえるとありがたいんだけどなあ』
などと――例えば結婚してすぐ妊娠、なんてことになろうものなら顰蹙を買うだろうか。その辺りは俺の責任も重大である。
「安井課長と伊都さんの結婚式もすごく楽しみです!」
石田夫人が言うと、伊都はそこで照れ笑いを浮かべて俺を見た。
「えへへ……でもまだ何にも決めてないんだよね、巡くん」
「そうなんだよ。お互い、これといってやりたいものもないし」
もともと俺も伊都も結婚式に夢を見るようなこともなく、だとしても立場上挙げざるを得ない。あまり派手なことはせずに済ませたいというところだけは意見が一致しているものの、具体的な話し合いはまだ進んでいないのが現状だった。
とは言え、先日の石田の結婚式は俺達にとって大いに参考になりそうだ。
「もうぼちぼち決めてかないとならない時期だろ」
石田は先輩面としか言いようのない得意げな顔をした。
「何かあったら俺に聞けよ。今なら経験者としてアドバイスできるぜ」
「今なら? 何だよ、もう忘れそうなのか」
「そんなもんだろ、人生一度きりの経験だぞ。お祭りみたいなもんだ」
そう言うと石田は同意を求めるように奥さんを見た。
奥さんもうんうんと大きく頷く。
「すごいお祭りでしたよね、隆宏さん!」
二人とも式の数ヶ月も前から準備に追われていたようだったし、随分と忙しそうだった。しかしそれを祭と言ってしまえるあたり、きっと忙しさも準備も含めて楽しい、いい思い出だったのだろう。
できれば俺も全てが終わった後で、伊都とそう言い合っていたいものだ。
そんな思いを込めて彼女を見やると、同じことを考えていたのかころころ笑ってくれた。
「次は私達の番だもんね。楽しいお祭りにしようね、巡くん!」
「ああ、そうだな」
こういう時に笑ってくれる、伊都でよかった、と思う。
石田夫妻は新婚旅行先の北海道で、銘菓の類をたくさん買い込んできたそうだ。
それを俺達に振る舞ってくれるとのことだったので、俺達は手土産にハーブティーを持っていった。もちろん小野口課長の奥様のお店のものだ。リンデンのハーブティーは石田夫妻にも好評で、俺達も北海道銘菓に舌鼓を打った。
「わあ、美味しい! ハーブティーって親しみやすい味なんですね」
美味しいもの大好きな石田夫人のお眼鏡にも適ったようだ。ほっとした。
「お前ら、ハーブティーなんてこじゃれたもん飲むのか」
石田には目を丸くされたが、なぜ飲むようになったかという経緯を説明するのはちょっと照れるので、半分くらい正直に言っておく。
「小野口課長の奥様がやってるお店のなんだよ」
「……ああ、それでか」
腑に落ちたらしい石田が、その後で吊り上がった目を細める。
「ってことは、お前らが見合いした店ってことだな」
しまった、割とあっさりばれた。
「そうか、思い出の店の味ってやつか」
察した途端に石田がにやにやし始めたので、俺は防戦に入るべくバターサンドにかじりつく。
「安井は時々そういうことやらかすよなあ」
「やらかすって何だ。俺は何とも言ってないだろ」
「皆まで言うなわかってる。気持ち悪いくらいロマンチストだよな、時々」
「気持ち悪いって何だ。放っとけ」
石田の冷やかしめいた言葉を無視しながら食べたバターサンドは美味かった。別に石田が美味さに関係しているわけでもないが。
「このお菓子、美味しいね」
伊都はチョコレートパイが気に入ったようで、先程からさくさく食べ続けている。
「それ美味しいですよね! 中のクリームがいい感じにほろ苦で!」
「コーヒー味ってとこがいいね。こっちでも売ってないかなあ」
石田夫人とはしゃぎながらお菓子を食べる様子は、見ていて心が和むものだった。
その他に、石田夫人はご当地マスコットのストラップを伊都にと購入してくれた。これは霧島夫人からのリクエストだったそうで、どうせなら皆で持とうといろいろ買ってきたとのことだった。
「あ、新撰組仕様! 北海道って新撰組関係あるの?」
浅葱色の羽織を着たキャラクターもののストラップを手に、伊都が目を瞬かせる。
すると石田夫人が待ってましたと言わんばかりの勢いで答えた。
「土方最期の地があるんだそうですよ。五稜郭の戦いっていうのがあってですね……」
どうやら夫人は新婚旅行先の北海道について随分詳しく知っているようだった。伊都に歴史を語り聞かせる姿は何とも楽しげで、嬉しそうでもあった。今まで全くそんなふうには見えなかったが、もしかしたら歴史好きなのだろうか。
「すごいなあ、藍子ちゃんめちゃくちゃ詳しいね」
伊都もまた、真剣な顔つきで話に聞き入っている。正座して素直に耳を傾けているところが可愛い。
「なんで北海道まで行ったのかと思ったら、奥さん、そういうの好きだったのか」
俺が尋ねると石田は手をひらひらさせて、
「いや、違う。北海道にしたのは、単に二人きりでのんびりしたかったってだけだ」
と否定した。
「違うのか」
「ああ。藍子が詳しいのは、行くってなってから調べたからであってな」
「へえ……確かにそっちの方が彼女っぽいな」
何となく、旅行のしおりとか気合い入れて作りそうなタイプだと思う。
「結婚式だ何だでずっと忙しくて、一息つく暇もなかったからな」
石田は溜息まじりに続けた。
「新婚旅行くらい周りに知り合いもいないようなところで、二人だけで過ごしたかったんだよ」
「そういうもんなのか」
あいにく俺にはまだ石田達のそういう心境はぴんと来ない。だが石田のその選択が数ヶ月後の俺達かもしれないわけで、覚悟を決めておかなければなとも思う。
「お前らも新婚旅行先はいい場所にしとけよ。それを楽しみに乗り切れるぞ」
石田がそう言ったので、確かにそれも決めておかなければならないことだ、と俺もようやく思い至った。
新婚旅行か。
長い休みは取れないだろうし、行くとしても国内であることは確定している。
正直、俺としては伊都と二人で行けるならどこだっていいのだが。
「伊都」
そこで俺は彼女を呼んで、聞いてみることにした。
「新婚旅行はどこ行きたい?」
やぶからぼうの質問に、伊都はきょとんとしてから、
「うーん……行きたいとこ、なくはないんだけど」
「あるのか? じゃあ言えよ、俺はお前の意見を優先する」
「でもいいの? 私が楽しいだけの場所かもしれないよ」
伊都だけが楽しい場所、というのはどこだろう。ぱっと思いつくのは豆腐の名産地だが、それなら俺も楽しいだろうから違うか。
それ以外では――。
「あのね、しまなみ海道なんだけど」
彼女が挙げた地名は、俺もニュースなどで耳にしたことがあった。
「それって四国……だったか?」
「そう! 広島の尾道と愛媛の今治を結ぶ道路だよ」
伊都が目を輝かせて答える。
四国か。これまで行ったことはない土地だが、だからこそ新婚旅行先としてはいいかもしれない。
もし石田の言う通り、『二人きりでのんびりしたい』なんて気分になるのなら尚のことだ。その辺りの温泉宿にでも泊まって、結婚式の疲れを二人で癒す、なんてのもいいかもしれない。
早くも想像を膨らませ始めた俺の耳に、
「ああ、聞いたことあるな。そこってサイクリングの名所だろ?」
石田がふと、聞き捨てならないことを口にしたのが聞こえた。
サイクリングの名所。
「石田さんよく知ってるね!」
伊都がたちまち食いついた。
「そうなの、日本初の海峡を横断する自転車道路があるんだよ!」
それから彼女は俺の腕に飛びついたかと思うと、子供みたいにうきうきしながら話を続ける。
「もうすっごい眺めいいらしくて! 風も吹いてて気持ちいいんだって。私も一度走り抜けてみたいなって思ってたんだ!」
海峡を渡るサイクリングロードというなら、確かに気持ちはいいことだろう。伊都が興味を持つのもよくわかる。
「巡くんも夏のボーナスでロードバイク買ったでしょ? 新婚旅行は自転車旅行……なんてどうかな?」
確かに俺はロードバイクを購入した。伊都と二人で自転車通勤がしたい、彼女のサイクルウェアを毎日じっくり眺めたいという若干不純な動機からでもあるし、伊都と趣味を共有したいからでもある。購入に際して伊都は親身になって相談に乗ってくれたし、実際に見立ててくれもした。お蔭で俺達の部屋には現在二台のロードバイクが存在している。
だが、言っておきたいのだがまだ買いたてほやほやである。何度か乗ったが、八月九月は仕事が忙しくてまだ本格的な遠乗りには挑戦できていなかった。もちろんチャリ通に踏み切る段階でもない。
そんな俺に、自転車旅行ができるだろうか。
「自転車旅行……! 素敵です!」
石田夫人は無邪気な声を上げ、
「安井、結局ロードバイク買ったのかよ」
石田はと言えば、いたずらっ子みたいな口調で俺をからかおうとする。
「大丈夫か? 園田は相当乗れるんだろ、お前じゃついてけないんじゃねえの?」
「……かもしれない」
不安が過ぎり、正直に答えた。
「だ、大丈夫だよ。ゆっくり走ればいいし、泊りがけでいいんだし、乗り捨て可能のレンタサイクルもあるらしいし――」
伊都が慌ててフォローしようとしたが、俺にとって一番気がかりなことがその中に挙っていなかった。
「一つ聞きたいんだけど、伊都」
「何?」
「しまなみ海道って、全長何キロ?」
「えっと……確か約六十キロだった、かな?」
長い。
以前俺と伊都が走った十七キロのサイクリングコースより更に長い。
当時は何の準備もしていなかったとはいえ、そして真夏だったとはいえ、十七キロを走り切れずに音を上げた俺に六十キロなど走れるだろうか。
「駄目なら、他のとこでもいいんだけど……」
俺の反応を見てか、伊都は少し寂しそうに、上目遣いでそう言った。
「私は巡くんの行きたいところでいいんだよ。さっきのはあくまでも私の希望だから」
だがそんな顔をされて、そしてそんなことを言われて、『じゃあ俺の行きたいところにしよう』などと言うのは男が廃る。何より伊都があんなに行きたがっているのだから、俺も是非その望みを叶えてやりたかった。
「わかった、行こう! 自転車旅行へ!」
意を決した俺が声を上げると、石田がげらげら笑い出した。
「何だよ安井、彼女のおねだりにはてんで弱いな!」
そんなことは言われなくてもわかっている。
当たり前のことだ、惚れてるんだから。
しかし、そうなると俺達には――と言うより俺一人には、結婚の準備と同時にしておかなければならないことがある。
果たして間に合うだろうか。恋と愛の力が、今こそ試される時だ。