Tiny garden

熱視線(2)

 そういえば、安井さんと園田さんは同期だ。
 どのくらい仲がいいのかは知らなかったけど、社内でも話をしている姿をたまに見かける。

「園田、お疲れ」
「あ、安井さん。お疲れー」
 私が受付での業務を終え、総務部のある二階へ階段を上がっていくと、ちょうど二人の会話が聞こえてきた。
 廊下へ出れば、三メートルほど先に安井さんと園田さんの後ろ姿が見える。お二人は並んで歩きながら話をしていた。
「忙しそうだな、今日も」
「そうなの、締め切り近いから余計にね」
「ちゃんと昼飯食べたか?」
「食べたよ。安井さんはお昼食べれた?」
「一時間前に食べた。美味かった」
「それお昼じゃないよ、ほぼ晩ご飯だよ!」
 園田さんの言葉に、安井さんがふっとくだけた笑みを浮かべる。期待してたリアクションが返ってきて嬉しい、というような表情に見えた。
 それで園田さんも明るく笑って、しょうがないなあという目で安井さんを見る。優しい表情だった。
「安井さんも仕事、大変そうだね」
「この時期はどうしてもな」
 お二人は肩を並べながらも、ちゃんとお互いの顔を見て話をしている。隣り合って歩く距離も近く、確かに親しげに見える。
 三メートル後方から、図らずも後を追う形になっている私にも気づいていないようだし――そんなつもりはなかったのだけど、気づけば尾行調査のようになってしまっている。正直、盗み聞きのようで気まずい。

 安井さんと園田さんが付き合っている、という噂は去年の秋頃からぽつぽつと聞こえてきた。
 お二人が社内で話をするのはこの通りよくあることだったし、あるいは社食で一緒にご飯を食べたり、帰り道を一緒に帰っているところを目撃した子もいるらしい。二人でいる時の距離の近さを怪しむ子もいた。それでなくとも安井さんは社内で主に女子社員から注目を浴びる存在、噂の真偽を気にする子も随分と多かったようで、私もよく問い質された。
 ただ私はもちろんのこと、他の誰もがはっきりとした確証自体は得ないまま、噂だけがわだかまったままで年が明け、新年度を迎えていた。
 私としてはお二人ともよく知っている人だから、もし噂が本当ならそれはいいことだと思う。
 園田さんは安井さんがかつて語ったという理想の女性の条件を兼ね備えている。明るくておおらかで脚がきれいだ。学生時代は陸上をやっていたと聞いているし、当時鍛え上げた脚を現在も自転車通勤で維持しているそうで、その美脚ぶりはどちらかといえばインドア派の私にとって羨望の的だった。
 実際に安井さんが――と言うより世の男性が恋に落ちる時、相手が好みのパーツを有しているという点にどの程度ウェイトを置くものかはわからない。だけど安井さんの脚好きを聞いた後だと『なるほど、園田さんならわかる』と思えてくるから困る。
 でも今のところ、噂は噂だ。
 仲がいいというだけで立てられる噂の煩わしさは私もよく知っている。映さんと付き合い始める前、いろんな人にいろんなことを言われた。嫌な思いをしたわけではないけど、そっとしておいてくれたらいいのになと思ったことなら何度もあった。恋愛は二人でするものであり、そして大変に繊細なものなのだから、なるべくそっと見守っていただける方がありがたいのです。
 だから私もそうありたい。
 噂が事実でもただの噂でも、迂闊に触れてはいけない。

 なのでできれば私も詮索するような真似はしたくないんだけど。
「今日は早く上がれそうか?」
 前を行く安井さんは、柔らかい口調で園田さんに問いかける。
 園田さんは首を傾げて苦笑した。
「多分無理かな。自転車だから、帰るのはあっという間だけどね」
 こうして後を追い駆けていると、二人の会話が全部聞こえてくるのが気まずい。とっても気まずい。
 私だって決して聞き耳を立てたいわけじゃなく、できれば気づかれないようお二人を追い抜いて、こっそり秘書課へ戻ってしまいたい。でもこの大して広くもない廊下で追い抜いたら絶対ばれるだろうし。
 いろんな意味でやきもきする私をよそに、二人の会話は続く。
「安井さんは早く上がれそう?」
「いや、ちっともだ。今日も遅くなる」
「そっか……」
 答えを聞いて、園田さんがどこか残念そうに溜息をついた。
 私も昔、映さんと一緒に帰れない日はこんなふうに溜息をつきたくなった。――と、自分に重ねること自体、付き合っているかどうかもわからないお二人には失礼なことだ。もしかしたら残念がっているのではなく、多忙な相手に同情を寄せる溜息だったのかもしれないのに。
 やがて二人は人事課のある部屋のドアの前で足を止めた。
「帰る時は気をつけて帰れよ、どっちが先かわからないけど」  
 そう言って、安井さんは軽く手を挙げる。
「うん、安井さんもね」
 園田さんはとびきりの明るい笑顔で応じた。
 安井さんもつられたように目を細めて、それからドアを開けて人事課へ戻っていった。
 私もドアが閉まる音にこっそり安堵していた。先程まで保っていた三メートルの距離は私のほんの数歩で縮まり、園田さんがこちらを振り返る。
「あれ、長谷さん。今上がり?」
 私に向かって尋ねながら浮かべた笑顔は、今し方安井さんに向けていたものと同じだった。
「はい。ついさっき受付閉めてきたところです」
「そっか、お疲れ様です」
 頷いた私に、園田さんは明るく言ってくれた。
 この笑顔、確かに何だかつられてしまう。定時を過ぎて私もくたびれていたのに、疲れが吹き飛んでいくようだった。明るく笑い飛ばして欲しいと思うなら、園田さんだろうなあと思う。
 もっとも確証なんて、何もないんだけど。
 安井さんとのことは置いておくとして、私も園田さんに笑い返そうとした。
「園田さんもお疲れ様で――」
「そうだ、忘れてた――園田」
 と、そこでさっき閉じたばかりのドアが開き、安井さんが再び顔を出す。
 私はとっさに振り向いて、そして見た。
 目が合った瞬間、安井さんの表情がさっと変わった。明らかに笑顔を引っ込めた。そうとしか表現できない変化の後、取り繕うように落ち着き払った微笑を浮かべ直してみせる。
「……ああ、霧島夫人もいたのか。お疲れ様」
「お疲れ様です」
 私は笑いを堪えたのを悟られないよう、会釈のふりをして俯いた。
 どうにかこうにか飲み込んでから面を上げると、園田さんはきょとんと安井さんを見ている。
「安井さん、忘れてたって何が?」
「ああ、えっと……」
 珍しく安井さんは言葉に詰まったものの、すぐにかぶりを振った。
「悪い、また忘れた」
「えっ、何が!?」
「だから、何を忘れてたかを忘れた。思い出したら言うよ」
 安井さんらしくもなく下手な言い訳だ。
 いつもスマートな人だと思ってたのに。
「よっぽどお疲れなんだね、安井さん。今日は早く上がったら?」
 園田さんが笑い飛ばすように言うと、安井さんも表情を解いて、
「そうしようかな。じゃあ、また」
 私達それぞれに手を挙げた後、改めて人事課へ戻っていった。
 ドアが閉まった後、園田さんは私に向き直る。
「年度初め、すっごい忙しいんだろうね。何を忘れたか忘れるなんて」
「ええ、安井課長みたいな人でもそういうことあるんですね」
 私は率直に応じた。
 もちろん、安井さんが本当に『忘れた』わけじゃないのはわかっている。私の感想もその下手な言い訳の方を指して言ったものだ。
 もしかすると安井さんは、すごくわかりやすい人なのかもしれない。
 さっき、廊下へ戻ろうとした時に見せた表情だってそうだった。園田さんが廊下にいるとわかっていたからこその笑顔。でも私がいるのに気づいて慌てたのだろう。冷静に考えれば笑顔を『引っ込める』ことの方が怪しいはずなのに、あの瞬間の安井さんにはそれすら判断する余裕がなかったのかもしれない。
「園田さんは……」
 今は私の隣にいる、脚のきれいな人に尋ねてみる。
「……今日、早く上がるんですか?」
「うーん、できたらそうしたいな。忙しいんだけどね」
 園田さんは明るい笑顔でそう答えて、そうだろうなあ、と私は思った。

 わかりやすい人だと気づきさえすれば、あとは簡単だった。
 社内で安井さんを見かける度に確信できた。
 廊下で資料を読みふけりながら、どこかのドアが開く度に顔を上げる。その時の安井さんの目はまさに熱視線と呼ぶべき強さで、目当ての誰かが偶然にでも現れないものかと待ち構えているようだった。
 そして目当ての人が現れると、ふっとくだけた笑みが浮かぶ。
「園田、これから取材か?」
「そうだよ、行ってくるね」
「ああ、気をつけて」
 やり取り自体はごく短くて、世間話と変わりない。そこから親密さを見いだすのはただの深読みだと思う人もいるかもしれない。
 だけど、顔を見ればわかる。園田さんと一緒にいる時、彼女を見る時、安井さんは明らかにいつもと違う目をしている。私が詮索するまでもなく、とてもわかりやすい変化だ。
 気づいているのは私だけではないはずだった。
 安井さんに憧れている子達にとっては認めたくない、事実であって欲しくない噂だからこそ、確証に至らないと思われているのかもしれない。
 私にとってはもはや噂ですらない事実だ、これは。
 でも私はこのことを誰にも言わなかった。何も聞いていないらしい映さんにも、石田さんや藍子ちゃんにも、そして安井さんのことを尋ねてくる子達にも、誰にも言わなかった。
 一番は、私が言うべきじゃないと思っていたからだった。
 そして二番目の理由は――こんなにわかりやすいんだから、きっといつかは誰もが気づくだろう。そう思ったからだった。

 それから少しの時間が経ち、噂の真偽が明らかになる時が来た。
 朝のロッカールーム前で待ち合わせていたお二人と偶然出会い、その時私は、ずっと誰にも言わなかったことを当の本人たちに尋ねた。
「もしかして、園田さんなんですか?」
 待ち合わせを私に目撃されて、園田さんは既に耳まで真っ赤になっていた。答えようにも答えられないようで、とっさに縋るような目を安井さんに向ける。
 彼女の隣に立つ安井さんは熱視線でそれを見て、途端に目を細めた。嬉しそうに。
 それから私に向き直り、言った。
「そう。近々報告しようと思ってたんだけどな」
「やっぱり、そうなんだ! 噂になってた通りですね、安井さん」
 私が声を上げると、お二人は怪訝そうに顔を見合わせていたけど。
「――噂?」
 そうなんです。
 そのくらいわかりやすかったんですよ、安井さん。
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