Tiny garden

さよならは言わない(1)

 大晦日の除夜の鐘を、テレビ越しに聴いている。
 二人で温かいお蕎麦を啜りながら、画面の中でお坊さんが鐘をつく姿を眺めている。

 新年まであと十五分を切った一年の締めくくりの日。
 多分、日本のどこのご家庭にでもありそうな風景。
 ただ今の私達にはそういうありふれた時間さえたまらなく貴重で、いとおしく思えた。
 クリスマスに交わした約束通り、仕事納めを無事に済ませて、年末の休みに入り、お互いに大掃除を終えてからはずっと一緒に過ごしていた。大晦日の晩も彼の部屋で、こうしてお蕎麦を食べている。幸せな年越しだった。

「除夜の鐘、今ので何個目?」
 私がお蕎麦をふうふうしながら尋ねると、向かいに座る安井さんが眉間に皺を寄せた。
「数えてないよ。何個目かって気にするもん?」
「ううん、何となく聞いてみただけ」
 除夜の鐘は全部で百八回、その百八という数字が煩悩の数から来ているそうだ。ゆっくりゆっくりついているせいか、百八というのが随分と膨大な数に思える。
「煩悩が百八個って、すごく細分化した上での数字なのかな。それとものべ百八個ってこと?」
 更に聞いてみれば、彼はお蕎麦をずずっと啜って、飲み込んでから答えてくれた。
「前世、今世、来世合わせて百八って話は聞いたことがあるな」
「じゃあ今世の分だけだと三十六個か。それでも多いね」
「多いか? そのくらいは誰でもあるだろ、煩悩」
 安井さんは口の端を上げて笑う。
 仕事納めの直後はさすがに疲労の色を隠せていなかったけど、今は疲れた様子も眠そうなそぶりもなく、満ち足りた表情をしている。
 会話の合間にも時々私をじっと見てくる、涼しげな目元からの強い視線が少し気になる。

 彼の部屋で夜を過ごすと、どうしても化粧をしてない顔を晒すことになる。
 今更すっぴんくらいでわあわあ言うような間柄でもないだろと彼は笑うし、実際その通りだと私も思うんだけど、だからと言って見られても結構と胸を張れるわけじゃない。
 私ももうじき二十九、再来年にはいよいよ三十だ。できればいつまでも若くありたいんだけどな――なんて思うのも煩悩のうちかな。三十六個のうちの一つか。

「言われてみればそうかもね。私も三十六個くらいはありそう」
 思い直してそう告げた。
 途端に彼は瞬きをする。それから興味深そうな顔つきで聞き返してきた。
「是非とも聞いてみたいな。園田の煩悩ってやつを」
「そりゃいつまでも若くありたいなあとか、もっと美人になりたいなあとか、むしろ賢くなって仕事で活躍したいなあとかいろいろあるよ」
 どうせなら可愛いお嫁さんになりたいと思うし、彼にもそう思ってもらいたい。結婚しても仕事は辞めないつもりでいるから、そちらでも結果を出したいと思っている。叶えたいことは果てしない。三十六個じゃ足りないかもしれない。
「あとは美味しい豆腐をもっと食べたいとかね。食べるにしても丼、湯豆腐、冷や奴といろいろあるでしょ?」
 続けた私の言葉に、安井さんは乾いた笑い声を立てる。
「豆腐への煩悩だけで三十六個いきそうだな……」
「三十六じゃきかないね。むしろ豆腐だけで百八個になるかも」
「お前の煩悩、食欲だけかよ」
 そんなことはない。先にも言ったけど、美容にも仕事にも大いに欲はある。
 それ以外だと、趣味とかも。
「冬のボーナスも出たし、そろそろ愛車に手を入れたいって煩悩もあるよ」
 私は残りの蕎麦を食べ終えると、丼を持ち上げてつゆを味わう。身体が温まるのがいい。
「今年は忙しくて、あんまり手をかけてあげられなかったからね。お金注ぎ込みたい欲求を抑えてるところ」
 広報課に来てからというもの、愛車は純粋な交通手段と成り果てていた。会社帰りにふらっと知らない脇道に入ったり、休日にあちこち遠乗りしたりということがほとんどできていない。馴染みのサイクルショップからも足が遠退きつつあるのが寂しい。可愛い子だからいつもきれいにしておいてあげたいって思ってるんだけどね。
「そのくらいは好きにすればいいだろ。自分で稼いだ給料だ」
 安井さんも年越し蕎麦を食べ終えたようだ。関節の目立つ手で丼を取り、軽く微笑む。
 でも私は肩を竦めた。
「貯金してるとこだから無駄遣いはできないよ。余裕ができたらね」
「貯金?」
「ほら、これからは何かと……要るでしょ。お金が」
 彼を前にしてはっきり言うのはちょっと照れた。

 でも、まあ、そういうことだ。
 私がほんの短い間に取り組んだ婚活――と呼べるものだったかどうかも、今となっては定かじゃないけど、あれだけの時間にも学んだことはいくつかある。
 そのうちの一つがこれだ。貯金は大事。堅実さ、誠実さの表れであるということ。

「ああ、結婚資金ってことか」
 安井さんは、私が濁したことを容赦なくはっきりと口にした。
 その上で、照れる私を見て嬉しそうに微笑む。
「そういうのは二人で貯めていけばいいよ。お前一人が背負い込むことじゃない」
「でも多い方がいいに決まってるもの。結構かかるらしいよ、式挙げると」
「式挙げたい?」
 即座に彼が聞き返してきた。どこか楽しげに瞳を輝かせている。
 一方の私は楽しいというほどではなく、曖昧に笑って答えた。
「実はそうでもないかなあ。ちょっと恥ずかしいよね、結婚式」
 ちょうど一年くらい前に長谷さんの結婚式に出た。
 彼女はとてもきれいな人だからドレス姿も途轍もなく映えたし美しかった。新郎の霧島さんも堂々としていて格好よかったのを覚えている。
 でも私はそこまできれいじゃないし、顔丸いし、脚細くないし。おまけに堂々たる風格もなさそうで困る。結婚式までに身につくかな、そういうの。身についてなくちゃ結構な恥だ。
 あと、ドレスを着るんだったら今のままだと髪が短くて、見栄えしないかもしれない――それは、どうしようかな。
「安井さんはどう? 式とかやるの、恥ずかしくない?」
 すると彼は平然と答えた。
「俺はウェディングドレスのお前が見られたらあとはどうでもいい」
「どうでもいいって言い切った!」
「そんなもんだろ、結婚式の楽しみなんて。俺だって式そのものに楽しみはないよ」
 尚も容赦なく断言する安井さんが、ふっとくだけた顔つきをする。
「今、石田が式の準備始めてるんだけど、やること多いらしくて結構大変そうなんだよ。まだ式場も絞り込んでないって言ってたし、衣裳合わせもこれからだって。まあ、あいつはそういうのも割と楽しそうにやってるみたいだけどな」
 そうだった。石田さんも来年には結婚するんだっけ。そろそろ忙しくなってくる頃かな。

 社内である程度の立場にいるなら、式を挙げて披露宴を開いて上司同僚その他を招待するのはある種のマナーみたいなものだ。うちの社内でも『身内だけで式を挙げました』って人はほとんどいないはずだった。社内恋愛がそこそこ多いせいもあるだろうけど。
 というわけで私達も、たとえ恥ずかしかろうと面倒くさかろうと結婚式は避けられない。ウェディングドレスだって着るし、彼だってタキシードか何かを着るんだろう。
 安井さんなら姿勢いいし、何着ても似合うだろうな。モーニング、フロックコート、燕尾服もいいなあ。
 黒い礼服姿で、片手に手袋を携えた彼の姿を想像してみる。正装用に髪を整え額を晒した彼が、ぴんと背筋を伸ばして立ち、普段は涼しげな目元を幸福そうに和ませ、しずしずと近づいていく私に手を差し伸べる――胸が高鳴るようなその想像が現実になるなんて、今はまだ実感できていない。

「園田、何を考えてる?」
 想像に耽る私に、安井さんは薄く笑いかけてくる。
 恐らくは彼のことを考えてるって、わかってて聞いたんだろう。私は慌てて目を逸らして、点いたままのテレビ画面に視線を留める。
「あ。安井さん、ほらほら、もうじき年が明けるよ」
 それで彼もテレビに目をやったらしく、
「本当だ、あと一分切ってるか。――じゃあ」
 その次に彼がしたことは、私達の間にあるテーブルの上に身を乗り出し、テレビを見ていた私の顎を掴んでそちらを向かせることだった。
 唇が触れる。
 されるがままになっているうちに時は過ぎ、点けっ放しのテレビが静かに年明けを知らせてきた。
「……去年最後と、今年最初のキスだ」
 唇をほんのわずかに、数センチだけ離してから彼は言った。吐息が唇に触れてくすぐったくなる距離だった。
 私はすぐ目の前にある彼の顔を、呆れ半分、ものすごい恥ずかしさ半分で睨んだ。
「新年早々、すっごいベタだ……! 安井さんのベタ初めだ!」
 今年最初のツッコミは不発に終わった。彼は憎たらしくなるほど余裕ぶった笑みを浮かべる。
「そんな嬉しそうな顔してたら説得力ないよ、園田」
「よ、喜んでないから! 大体ね、年の初めからそういうことは!」
「怒ってみせても無駄だ。顔に出てる」
「ああもう! 新年くらい厳かに迎えようよ!」
 そんなわけで、これっぽっちも厳かじゃない年越しになりました。

 それから私達は夜明け前に外へ出かけた。
 せっかくだから初日の出を見ようということになったからだ。天気予報によれば今年の元日は全国的に晴れ模様、ほとんどの地域で初日の出が見られそう、とのことだった。
 海まで安井さんが車を走らせ、以前にも二人で訪れた臨海公園までやってきた。明かりの点った駐車場に車を停めた後は、とにかく海が見られる場所まで行こうと波の音を頼りにまだ薄暗い公園内をひたすら歩いた。

 さすがに前来た時と違い、一月の午前六時は冷え込んでいるし風は冷たいしでめちゃくちゃ寒い。
 吹きすさぶ潮風に思わず首を竦めていると、不意に隣を歩いていた安井さんが、私の髪に手を伸ばして軽く触った。
「園田、後ろ跳ねてる」
「寝癖ついてた? 鏡見てきたんだけどな」
 私も自分で髪に触れてみる。確かにちょっと跳ねてるっぽい感触がある。
「気になるほどじゃない。むしろ、何か可愛い」
 安井さんが喉を鳴らして笑うので、私はかえって恥ずかしくなった。彼を横目に見ながら呟いてみる。
「髪、伸ばそうかな」
「伸ばすの?」
 間髪入れずに彼は聞き返してきた。
 その素早さに驚いた私の前で、安井さんは照れ隠しみたいに肩を竦める。
「見てみたいとは思ってたんだ。園田は短いのも似合うけど、長くてもいいかもしれない」
「どうかなあ。私、伸ばしたことほとんどないんだよね」
 似合うかどうかもわからない。うちの姉は私と逆でずっと髪を伸ばしていたし、それが結構似合っていたけど、私と姉はあんまり似てないって言われるから参考にはならないか。
「安井さんは長い方が好き?」
 尋ねたところ、彼は歩きながら考え込んでみせた。
「どっちだろうな。髪型が似合ってれば、どっちでも」
「そうなんだ。あんまり推すから、長い方が好きなのかと思った」
 前にもそんなことを言われていたような覚えがある。
 でも彼は嬉しそうに目を細めて、
「園田の髪はきれいだからな。ずっと、伸ばしたところを見てみたかった」
 再びこちらに手を伸ばし、私の髪をゆっくり撫でた。外でそうされると何だかこそばゆくて、私は言葉もなく照れた。

 歩いていたらいつの間にか、公園をぐるりと囲む柵の傍まで辿り着いた。
 ここからは一面の海だけじゃなく、砂浜と波打ち際が柵越しに臨めるようになっている。既に数組の先客がいて、めいめいが柵にもたれかかったり、砂浜まで出たりしながら初日の出を待っている。白々と明けていく空、水平線上には早くも目映い光がその切っ先を覗かせている。
 私と安井さんも、ここで初日の出を待つことにした。
 先客からは少しだけ、小声の会話が聞こえない程度の距離を置いて、柵にもたれて日の出を待つ。

「ドレス着るんだったら、髪長い方が決まるよね」
 待ちながら、私はさっきの話の続きを口にした。
 去年、長谷さんも髪を伸ばしていると言っていた。確かに長い方がアレンジもたくさんできるし、自分で髪を結い上げることもできる。彼女の結婚式に出席した時、私が自分の髪の扱いに苦労したことを思うと、やっぱり長い方がいいのかもしれない。
「短くても似合うとは思うけど……」
 隣に立つ安井さんが、しげしげと私の全身を眺めやる。彼も私と同じように、想像の中で私にドレスを着せてみたのかもしれない。
 やがて難しげに眉を顰めた。
「駄目だ。ドレスを着た園田は想像できそうなのに、長い髪の園田はどうしたってイメージできない」
「試してみるしかないね。幸い、伸ばした髪はいつだって切れるんだし」
 短い髪を長くするのはとても時間がかかることだけど、逆はほんの数時間で済む。似合わないなと思ったらいつでも元に戻せるだろう。
「じゃあ、今年の目標はそれにする」
 水平線の上にじりじりと光が盛り上がっていく。それを遠目に見ながら、私は決意を彼に語った。
「髪を伸ばしてみるよ。今年一年かけて」
 徐々に広がる光を受けて、海面は金色に輝き始める。
「ある程度伸びたら、安井さんは正直に感想を言ってね。どっちが似合うかって」
 私がそう言うと、彼は困ったように笑った。
「どっちも似合うって思った時は、どうすればいい?」
「その時はドレスの似合う方にしようよ」
「それも、どっちもいいって思ったら? 俺はお前なら何でも似合うし可愛いって思うかもしれない」
 新年早々、去年と変わらずとんでもないことを言う人だ。私は少しどぎまぎしながら隣を見やる。
 安井さんは口元で笑いながら、海面から昇ってくる太陽に目を凝らしていた。
「……それなら、伸ばすよ」
 私は彼の横顔に告げる。
「だって長い髪の方が、たくさん撫でてもらえるから」
 それは単なる理由づけのつもりだったけど、口にしてから妙に落ち着かない気分になった。
 何か私の方こそとんでもないことを言ってしまったんじゃないかって気がした。何か、別に、大したことじゃないんだけどすごく恥ずかしい。
 彼も少しはびっくりしたのかもしれない。こっちを向いて目を見開いた後、また太陽に視線を戻し、そのまま私の頭に手を置く。大きな手で髪を撫でてくれる。
 私はこうされるのが本当に、すごくすごく好きだった。なぜかというのは感覚の問題であって言葉では上手く説明できないけど、昔からずっと、安井さんの手でこういうふうにしてもらうのが何より幸せなひとときだった。
「やっぱり可愛いな、お前は」
 彼の幸せそうな呟きを聞きながら、新しい年を飾る太陽が昇っていくのを眺めていた。

 幸せ初め、って言えばいいのかな。この場合。
 ともかくもそんな感じで、私達の新しい年が幕を開けた。
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