あの日までは数えてた(6)
「わ、わあっ」思わず間の抜けた声が出た。
抱き締められるのは先月以来だ。もっとも何日ぶりだろうと何度目だろうと、慣れる気は全くしない。付き合っていた頃さえそうだった。
ああ、でもこれからはまた『付き合っている』と言うようになるのかな。
よりを戻した場合でも付き合い始めた、って言うのかな。
場違いな考えがとりとめもなく頭を過ぎる間も、私は彼の腕の中にいた。
ベンチに座っている時でも、立って抱き合うのとそう変わらず、私は顔を彼の肩に押しつけるような格好になる。薄手のジャケット越しに肩の骨の感触がわかる。
衣服は夜風に冷たくなっていたけど、その奥にある体温はほんのりと温かい。
「園田」
安井さんが私の髪を撫でながら私を呼ぶ。
こういう時、髪を伸ばしておけばよかったかなとよく思った。長い髪の方がたくさん撫でてもらえる気がするから。
でも私の髪はずっと短いままだ。だから彼が髪を撫でるその感じは、昔と何も変わっていなかった。
「……何?」
顔を上げずに返事をすると、彼が微かに笑ったようだ。
「こう言うのも何だけど、かなり久々に幸せだ。ありがとう」
「うん」
私は短く答える。
安井さんが幸せになってくれたと言うなら本望だ。私もそれだけで嬉しい。
誰だって好きな人には、常に幸せであって欲しいものだからだ。
それから私は彼の肩に額をくっつけて、軽く目を閉じた。
先に気持ちを落ち着けてしまおうと思う。こうして抱き締められている以上、落ち着くも何もないけど、それでもだ。
私もすごく幸せだった。彼は『恋愛は自分の為にするものだ』みたいなことを言うけど、私はやっぱり好きな人に必要とされている方が嬉しい。
その気持ちだって自分の満足の為かもしれないけど、それでもよかった。
「後悔なんかさせないからな」
私をより強く抱き寄せながら、彼が言った。
だから私もそのままの姿勢で頷く。
「しないよ。何があったって」
二人で一緒に考えて、それから答えを出したことだ。この先に何が起きても後悔はしない。
と言うより今となっては、これ以外の選択肢なんて考えられない。
「戻ってきてくれて嬉しい」
「うん……」
その言葉には微妙に照れた。
なかったことだの、昔のことだのと言い訳を捏ね繰り回していた自分が懐かしい。
「出戻りだから、ちょっと恥ずかしいけどね」
「別に恥ずかしいことじゃないだろ」
「いや、でも、結構照れるよ。間違えてばかりの人生だったなって思って」
私の人生、試行錯誤ばかりだ。間違えて、その度にちょっとずつしか進めなくて、気がつけば二十八になっていた。
二十代もあと一年と数ヶ月で終わってしまう。ちゃんと目に見えて変われているといいんだけど。
「間違えても、得るものがあったならいいんだよ」
安井さんはそう言ってから、苦笑したみたいだった。自嘲気味に続ける。
「俺だって他人のことは言えない。三十になっても未だに時々間違う」
「安井さんでも間違うことあるんだね」
「あるだろ普通に。園田のことでは試行錯誤ばかりしてた」
「あ、一緒一緒。私もそうだったよ」
共感を覚えた私の言葉には、溜息をつかれてしまったけど。
「本人に同情されるのって微妙な気分だな」
「同情じゃなくて、わかるって言ってるの」
「わかってたんだったらもうちょっと……まあ、いいか。今更だ」
一層の力を込めて彼は私を抱き締めにかかり、私は周囲に人気がないのをいいことにしばらくそのままでいた。
こうしてると本当に懐かしくて幸せで、昔と同様にどきどきする。
身体の方が覚えてるって、本当なんだと実感する。
私の身体は多分、頭よりも賢い。彼の体温とか、匂いとか、身体の意外な硬さとか、抱き締めてくれる時の腕の回し方、いつもの手の位置まで克明に覚えている。
時々髪を撫でてくれる時の優しさも、しばらくそうしてから私の耳元に唇を寄せるタイミングも、全部驚くくらいに記憶しているものだ。
「園田」
彼がまた私を呼ぶ。
今度は予想通り、耳元で。微かに吐息が触れたのは確実にわざとだ。
私もわざと彼の方に額をくっつけたまま、くすぐったがるそぶりも見せずに応じる。
「何?」
「ちょっと、顔上げて」
「やだ」
「何でだよ。顔が見たいんだ」
「見るだけじゃないでしょ、このパターンは」
絶対何かする気だとわかっているからこそ、私は顔を上げない。
もちろん安井さんは私に見抜かれたからといって悪びれるような人じゃない。すぐさまやり方を変えてくる。
「じゃあわかった。キスしたいから顔上げて」
正直になればいいという問題でもない。私は短く突っ撥ねる。
「やだ」
「やだって何だよ。傷つく言い方するなよ」
「こういうのって最初に許すと、それ以降もずるずる流されたりするから」
「まるでそういう経験があるみたいに言うな」
「あるから言ってるんだよ! 安井さんこそ他人事みたいに!」
私が俯いたまま声を上げると、彼は屈託なく笑い声を上げた。
「園田もよく覚えてるな」
「忘れられない。いろんな意味で」
「覚えててもらえて光栄だよ。なら、何にもしないから顔上げて」
今度はどういう出方だろう。顔を上げた途端に『嘘だよ』って言うのか、あるいは顔を上げたタイミングで『やっぱ気が変わった』とでも言い出すのか。どちらも引っかかったことがあるので用心すべきだ。私は警戒し、彼の要請にすぐには従わなかった。
すると安井さんはまた笑って、
「本当だって。何にもしない」
「そう言って安井さんはすぐ前言翻すじゃない」
「今は翻さない。それより言っておきたいことがあるんだよ」
と主張するから、私も彼の肩から額を離し、こわごわと面を上げた。
鼻先、ほんの十センチ弱。
キスしようと思えばいくらでもできそうな位置に彼の顔があった。彼は先程の真剣さが嘘みたいに見えるほど、とても楽しそうに笑っている。
「言いたいことって何?」
私が尋ねると、彼は全くためらわず、もったいつけずに答えた。
「結婚しよう」
それはもうあっさりと、爽やかに、気軽な誘いみたいなトーンで言われた。
「――はっ?」
こちらの反応は気軽とはいかない。聞き返すというよりほとんど驚きの声が裏返って公園内に響く。
安井さんは目元を微笑ませて説明を添える。
「だから、結婚。俺達ももういい年だし、頃合いだろ」
「ええ!? だ、だって今し方告白して気持ち確かめたばかりだよ!」
「始まりは四年前だろ。まあブランクはあったけど」
「そのブランクが重大なんだってば! いきなり結婚なんて言われても!」
まず身が持たない。安井さんと四六時中一緒に生活なんて、心臓が壊れて駄目になる。
そもそも抱き締められるだけで緊張している今の私に、まともな結婚生活が送れるだろうか。
「でも園田だって俺と一緒に生きたいって言っただろ」
「言ったけど、でもまさかその日のうちにプロポーズまでいくとは思わないよ」
「さっきのあれ、プロポーズじゃなかったのか」
彼は落胆したように首を竦めたけど、すぐに気を取り直したようだ。
「俺だって園田が必要なんだ。残すところは結婚くらいしかないと思う」
笑っていたけど、彼はどうやら本気らしい。目つきが射抜くように鋭い。
「そ、そうだけどさ。もうちょっと付き合ってみてからがいいかなって……」
「まさかそれも一からやり直したいなんて言わないよな?」
機先を制するように言われて、私はぐっと言葉に詰まる。
だってこっちはあれきり恋愛なんてしてないからブランクありまくりだし、だけど何にも知らないわけでもなく、半端に覚えてるせいでかえって緊張している有様だった。臨海公園の雰囲気も、告白の言葉も、キスの要求も、何もかもがすごく懐かしくてどきどきする。
そこにいきなり結婚なんてそれこそ絶対無理、もう少しステップを踏んでからにして欲しいものだ。やり直しの恋だからといって、何もかも当時の状態に巻き戻っているわけじゃない。いや、そっくりそのままあの頃に戻ったって、結婚に踏み切れるほど慣れていたはずがない。
あの頃の私も今と変わらず、大好きな人の前ではひたすらどきどきしていた。
「結婚したら同じ部屋に帰れる」
安井さんはまだ諦めていない様子で、根気よく私を諭しにかかる。
「俺が忙しい時でも園田を寂しがらせないで済む。帰ってきさえすれば会えるんだからな」
それで私もはっとして、
「……そういう理由?」
こちらの問いに彼は顎を引く。
「そう。確かに今すぐとはいかないけど、俺も園田を寂しがらせない為に最大限の努力をする」
真剣な口調で言われると、訳もなくどぎまぎしてしまうから困る。
そりゃ私だってプロポーズが嬉しくないなんて言わないけど、そういう気遣いだって嬉しいけど、しかしあまりにも急展開で判断が追い着かない。
私がうろたえたのがわかったんだろう。安井さんは私の目をじっと見て、一度唇を引き結んだ。それからゆっくりと口を開く。
「やっぱりキスしたい。してもいい?」
「駄目。今日はしないってもう決めたから」
「お預け期間が長すぎる。俺なんて二月からずっとしたかったのに」
「そんなに前から!?」
というか二月に誘ってくれた時は下心ないって言ってたくせに! あれは嘘だったのか!
あまりのことに動揺する私の頬に、彼の手が触れた。ごつごつした感触の手はひんやり冷たくて、私の頬が紅潮していることを悟らせる。
「え……え、本当にするの?」
「したい。駄目?」
「駄目って言ったよ、私」
「今夜は一度でいいから。頼む」
彼の指が私の唇に触れる。
感触を確かめるようになぞる指先にいよいよ思考がショートし始める。私はその手をぎゅっと握るように制止しながら訴えた。
「で、でも、付き合い始めたその日のうちにとか倫理的にどうかなって思わない?」
「俺とは初めてでもないだろ。はい目閉じて」
まごまごしているうちに彼はゆっくりと顔を近づけてきて、それでも私は目を閉じるか否かを決めかねていて、どうしようどうしたらいいんだろうと硬直したままでいた。
直後、空気を切り裂くような甲高い電子音が響いた。
それが携帯電話の音だとすぐには気づけず、不審者と間違われて防犯ブザーを鳴らされたかと思った。
とっさに飛び退こうとしたけど、抱き締められていたのでできなかった。身動きもできずただ心臓が止まりかけている私の目の前で、安井さんが思いきり顔を顰める。
「こっちも電源切っとけばよかった」
低く呻いた後、上着のポケットから取り出したのは私用の携帯電話とは違うものだ。会社支給の電話、ということは仕事の用件だろうか。土曜日なのに。
安井さんはその電話のディスプレイにちらっと目をやり、
「小野口課長だ」
「え!?」
「悪い、ちょっと出ていいか」
「う、うん、もちろん」
私が返事をすると、安井さんは立ち上がり、携帯電話片手にベンチから少し距離を取る。
「――はい、安井です。お世話になっております」
話しながら歩いていくその背中を見つめつつ、私は止まりかけた心臓を今のうちに落ち着けておくことにした。
と言うか、危なかった。
もうちょっとでキスするところだった。
してたら、どうなってただろう。何せそれも久し振りのことで、多分、身体は覚えてて、だからこそするのが怖かった。
いや、『怖い』わけじゃない。どうなってしまうか、自分でもわからないだけだ。
それでなくても私は流されやすい方だ。少なくとも昔はそうだった。そして安井さんなら、キス一回だけでおしまいなんてことは絶対にないだろうし――ああもう、何考えてるんだろう私。変な想像ばかり働くのも、手が早かった昔の安井さんのせいだ。
それにしても小野口課長、安井さんにどんな用事なんだろう。
何か不幸があったとか、悪い知らせじゃないといいんだけどな。
「――はい、ではまた後日お話しさせてください。わざわざありがとうございました」
私が乱れた呼吸を整えているうちに、彼も通話を終えたようだ。挨拶の後で電話を切り、つかつかとこちらへ戻ってきた。
微妙に浮かない顔でベンチに腰を下ろし、深く溜息をついた。
「しまった。すっかり忘れてた……」
ぼそっと零した様子に、私は懸念が当たったのではと尋ねてみる。
「何かあったの? 会社に呼び出しとか?」
「いや、違うよ。そういう話じゃない」
安井さんはくたびれた笑みを浮かべた。
「小野口課長が、またお前とのお見合いをセッティングしたいってさ」
「ええ!?」
何て微妙なタイミング。まず頭を過ぎったのはそんな感想だった。
セッティングされるまでもなく結婚するしないの話に、それもついさっきまでなってたなんて、小野口課長にはさすがに打ち明けにくい。と言うか、絶対言えない。
「あれきり何も言われてなかったから、もう済んだ話なのかと思ってた」
私の言葉に、安井さんはなぜか複雑そうに目を逸らす。
「まあ、な。一度断ってはいたんだけどな」
「じゃあ何で、それも今頃になって? 小野口課長ってわからないなあ」
直属の上司と部下として半年近く接してきたけど、このお見合いの件は釈然としなかった。
安井さんがどう断ったのかは見てないからわからないけど、よほど食い下がられたり『時間を置いて考え直して』なんて言われたりしたんだろうか。
と言うかなぜそこまでして私と安井さんをお見合いさせたがるのか。同期で未婚という条件は確かに一致しているけど、別に同期にこだわる必要なんてないわけだし。
考え込む私の前で、安井さんが足元に視線を落とす。
横顔に半ば引きつった笑みが浮かんでいて、どうかしたのかなと思った拍子に言われた。
「園田に言ってなかったことがある」
「何?」
「見合いの話を断った時、俺、気になって小野口課長に聞いたんだ。『もし俺が断ったら、園田は別の相手と見合いすることになるんですか』って」
初耳だ。
私が興味を持って視線を向けると、安井さんも居心地悪そうに私を見た。
「小野口課長はそうだって言ってた。園田が結婚したがってるようだから、協力するつもりでいるって」
だからお見合いはまだいいって言ったのに。
課長はいい人だけど、ちょっとずれてる。
「それで俺、園田には誰も紹介しないで欲しい、って頼み込んだ」
安井さんはその時、いたずらがばれた子供みたいな顔をした。
私は驚く以上に、この人ならそういうことを言ってそうだと納得する思いだった。
「小野口課長はそれでわかってくれたようで、園田にはお見合いの話を持っていかないと言ってくれた」
どうりであれきり、お見合いの話が出てこないと思った。
そしてこの間の、食堂で鉢合わせした時の反応も――あれ、今考えると相当恥ずかしい。課長は私達の関係を薄々見抜いてたってことになるんだから。
「じゃあ今回は、何でお見合いするようにって言ってきたの?」
私の問いに安井さんは乾いた笑い声を立てる。
「俺が行き詰まってないかって気にかけてくれてたんだそうだ。繁忙期も抜けたし、改めてどうかって」
それから私の手をきつく握り締め、悔しそうにぼやく。
「あの人、暢気そうに見えて意外としっかり見てるのかもな」
かも、しれない。
そうだとしたらいろいろ気まずいというか、気恥ずかしいけど。
私は関節の目立つ手に握られた自分の手を見下ろしながら、彼に尋ねた。
「課長に、何て言って説明するの?」
「どう言うかな……。何だかんだで上手くいきました、なんてこのタイミングで報告するのも気が引けるよな」
全くだ。そりゃ将来的には報告することになるのかもしれないけど、やり直した結果ようやくよりを戻したというこの微妙な時期に、即座に人に話しに行くというのは何と言うか、すごく恥ずかしい!
おまけにそれが直属の上司だなんてもう、今後の仕事がしにくくなること間違いなしだ。
でもこのまま黙っておいて、いきなり結婚しますとか言い出したらそれはそれで課長に失礼だろう。あの人が気にかけてくれていたことは間違いないのだし、その気持ちには素直に感謝しなければならない。
しかし、だからと言って話すのか。
小野口課長に。今日のことなどを。
「安井さんは、さっきはどう返事したの?」
「……ちょっと考えさせてくださいって言った。お前と口裏合わせておきたかったし」
彼は答えると長く息をついて、考えあぐねた様子で首を捻った。
「どうする? いっそお見合いしようか、俺達」
「私達が!? え、だって課長の奥様のお店でだよね?」
「そうだよ。ちょっと興味あるよな、ハーブティもお見合い自体も」
彼はいつかのように、スカイダイビングかバンジージャンプかってノリでそんなことを言い出した。
私はそこまで軽いノリで答えることはできなかったけど、かと言って他にこの状況を丸く収める案があるわけでもなく。
「プロポーズの後にお見合いって、何かすごい順番だね」
「まあ、園田もまだ結婚まではって考えみたいだし。考えてもらうにはいい手かもしれない」
そう言って笑う安井さんはからりと笑んでいた。
長年の悩みが全て消えてしまった後みたいな、解放感溢れる笑顔だった。そりゃ今ならバンジーも飛べるよねって顔だ。
じゃあいっそ私も、覚悟を決めて飛ぶべきなのか。バンジージャンプ。