Tiny garden

忘れられるはずもない(2)

 プライベートでの報告会は、六月に入ってから行った。
 今のところはまだ、俺も藍子も、霧島夫妻も安井も、同じ会社の社員だ。つまりあと二ヶ月しないうち、同じように繁忙期を迎えるわけだから、集まって飲むならこの時期しかないだろう。
 本当は俺の方から誘おうと思っていたが、安井と霧島に先を越された。声をかけられた時にはもう店の当たりまでつけられていて、あとは俺と藍子の都合次第という状況だった。

「二人ともすごく忙しそうだったから、ある程度手配してやる方がいいと思って」
 安井は手際のよかった理由をそんなふうに説明した。
「意外とやることいっぱいあるんですよ。俺たちの時もそうでした」
 経験者らしく語る霧島をよそに、奥さんは居酒屋のメニュー表を覗き込んでいる。もちろん藍子も一緒で、二人熱心に眺めているのは間違いなくデザートのページだろう。まだ乾杯もしていないというのに、微笑ましい限りだ。
 女性陣が来るとなると選ぶ居酒屋のランクが一つ、二つは上がるのが慣習だった。本日のチョイスは全席個室の創作和風居酒屋で、安井が予約していた個室は内装の品もよく、実にくつろげそうな掘りごたつの席だ。意外と家族連れも多いようで、個室に案内される際、法事帰りみたいなスーツ姿の一家とすれ違った。うちの甥と同じくらいの男の子が一丁前にスーツを着ていて、可愛いもんだ、と思った。
「こういう店であんまり下品な話題はできそうにないな」
 俺が思ったことを率直に呟くと、霧島が眼鏡の奥で目を剥いた。
「する気なんですか? こんなおめでたい集まりでも?」
「いや、俺がじゃないぞ。お前らがするんじゃないかって心配なんだよ」
「しませんよ。先輩がたと一緒にしないでください」
 俺と霧島の小競り合いを見て、まるで一段高みにいるような顔をした安井が口を挟む。
「やめたまえよ君たち。今日は女性たちもいるんだ、もっと高尚な話をしよう」
「何だこいつ、『自分だけはこいつらと違うぞ』ってオーラを出し始めたぞ」
「よく言いますよ。安井先輩なんていつもは率先して品のないこと口走ってるくせに」
 もちろん俺たちが突っ込みを入れるまでもなく、安井の本性は女性陣にも知れ渡っている。霧島の奥さんと藍子がくすくすと、清涼剤のような笑い声を立てると、ちょうどいいタイミングで先に注文した乾杯用のドリンクが運ばれてきた。
 乾杯の音頭はどうせぐだぐだになるだけだからやはり省略して、俺たちは適当にグラスを掲げる。
「たまにはこういう店もいいもんだろ?」
 乾杯の後で安井が、得意そうに切り出した。
「そのうち、がやがや賑やかな居酒屋には行きづらくなるだろうしな。その時の為にもこういう、家族連れでも来やすいような店をたくさん調べとかないと、って思ってるよ」
 それを聞いて俺は少しだけぼんやりする。
 俺たちも家族ぐるみのお付き合い、なんてものをするんだろうかと考える。
 広い意味では既に家族ぐるみの付き合いだと言える。霧島はもう結婚していて、こういう席にも普通に奥さんを連れてくるし、俺だってもうすぐ結婚する。そのうちどっちかの夫婦に子供が生まれる可能性だってあるだろう。安井も何だかんだ言っていつかは結婚するんだろうし、今から五年、十年先頃にはそれぞれが自分の子供に目尻を下げつつ、マイホームパパ気取りで集まるようになるのかもしれない。
 今の俺たちからはいささかかけ離れていて、想像しにくい。と言うか俺たち三人のうち、まともで模範的な父親になれそうな人間が一人でもいるだろうか。安井はあの通り性格の捻じれっぷりでは右に出る者なしだし、俺も品行方正な人間とは到底言いがたい。霧島は真面目な人間だが食の好みの偏りようはどうかと思うし、そして俺たち三人のそういった特徴は何年も前からほぼ変わらず、成長もなくそのままだ。この先も何か変わるとは思えない。
 そうは言っても何年か前までは、俺たちのうちの誰か一人でも結婚する想像すらついていなかったはずだ。家族ぐるみのお付き合い、及びよき父となった俺たちについても、今でこそイメージすらできないが、何年か後には当たり前の現実になっているかもしれなかった。
「結婚式の準備は順調ですか?」
 霧島の奥さんが藍子に向かって尋ねる。
 藍子はそこではにかむように笑った。
「多分、順調です。まだちょっとばたばたしてて、何か忘れてないかって心配なんですけど」
「わかりますそれ。寝るぞって時に思い出して、はっと飛び起きちゃったりしますよね」
「します、ものすごくします!」
 霧島夫人の相槌に、藍子は勢いよく頷く。それから少しだけ表情を和ませた。
「でも、最近ちょっとずつですけど片づいてきてて……。招待状の準備もできてあとは来月投函するだけですし、結納も、それと衣裳合わせも無事済みましたし」
 すると霧島の奥さんは身を乗り出すようにして、
「あ、それ。藍子ちゃんの衣裳、できたら見てみたいなって思ってたんです」
 と言ってくれたので、俺は持参していたデジカメの画像データを呼び出し、本決まりとなった衣裳の画像を皆に見せた。
 散々悩んでいた披露宴用のウェディングドレスは、俺のと藍子の希望が一致したこと、そして藍子のお母さんも太鼓判を押してくれたこともあり、最終的に例のロングトレーンのドレスを選んだ。
 一方、色打掛は彼女によく似合う藍地にした。これも俺たちの意見が一致したからだ。柄行はつがいの鶴に松や梅といったややオーソドックスながらも縁起物を取り揃えていて、それをまとった藍子はいち早く晴れの日を迎えたような華やかさに見えた。
「いいですね、このドレス。お姫様みたいですごく素敵! いいなあ……!」
 デジカメのモニターをうっとり眺める霧島の奥さん。
 対照的に、霧島と安井はどことなく浮かない顔をしている。
「本当に、別人みたいですね小坂さん……。嬉しいような、寂しいような」
「よく似合ってる。おかげで、可愛い子から売れてくって現実を目の当たりにさせられるな」
「……何でお前らがナーバスになってんだよ。祝えよ!」
 思わず俺が噛みつくと、霧島は困ったように笑った。
「だって、俺の中にはまだ、入社当時のルーキー小坂さんの印象も残ってるんですから。時の流れの速さを痛感しますし、寂しくだってなりますよ」
 もうすぐ三十路だからか、やたらと感傷的なことを言う。
 安井は既に三十過ぎて長いので、更にセンチメンタルな発言に走った。
「仕事の出来栄え、及びお前の言動に一喜一憂していたこの子が、遂にお嫁さんになるんだもんな……。叱られてしょげてた小坂さんに声をかけたあの日が、まだ昨日のことのようだ」
 その時のことは俺もまだ覚えている。あれからもう二年近く経ったが、初営業に出かけた彼女を案じてやきもきした時間も、やむを得ず叱ったことへの複雑な思いも、その後に安井によって仕掛けられた腹立たしい悪戯も全部克明に記憶している。あの日の俺は朝から晩までもれなく無様だったので、できれば忘れてしまいたくもあったのだが、そういう事柄に限って忘れられないのが人間ってものだ。
「その節は大変お世話になりました」
 律儀にも、藍子が安井にぺこりとお辞儀をする。どうやら彼女もあの日のことはよく覚えているらしい。
「おかげさまで、あれから少しは成長できたかなって思ってます」
 彼女が淀みない口調で告げると、安井は意味深な笑みを浮かべてみせた。
「それはつまり、俺のおかげで君が大人になれた、って解釈していいのかな」
「いいわけねえだろ」
 どう解釈したらそうなる。そんな出来事があったとも聞いてないしあってはならない。
 そもそも彼女は入社当時からちゃんと大人だったのだし、その上で遂げてきた成長は誰の力によるものでもなく、彼女自身の力に違いなかった。かくして花嫁衣裳に身を包んだ彼女は、まだ晴れの日用のメイクを施していない状態であっても美しく、気品に溢れ、今更のように俺の心を惹きつけてやまない。
 三十を過ぎると男は感傷的になる。そして恋をすると詩人になるらしい。気色悪いことこの上ないこの変化を、俺も何だかんだで受け入れつつある。
「式当日がとても楽しみです」
 男どもの気色悪い感傷を尻目に、霧島夫人はとびきりの笑顔を見せる。
「石田さんも藍子ちゃんもまだまだ忙しいでしょうけど、身体を壊さないよう気をつけてくださいね」
 何とも心に染み入る、優しい言葉だ。霧島も奥さんを少しは見習って、俺に優しくしてくれればいいのに――それはそれで不気味か。やっぱいいや。

 多忙を極める俺と藍子にも、いよいよゴールが見えてきた。
 式の準備は滞りなく進んでいる。当たり前だがお互い初めてのことなので戸惑うことも手間取ることもあったが、どうにか手に手を携えここまでやってきた。
 職場への報告も済み、両家顔合わせと結納も済ませていた。本日はこうしてプライベートで付き合いのある面々にも報告できたし、あとはいよいよ本番に向けての細々した支度のみだ。全てが思っていたよりは順調だった。このまま上手くいくだろう、という自信もあった。
 ただ一つだけ。
 不安というほどではないにせよ、これでいいのか、と思っている事柄がある。
 結婚式についても衣裳についても意見が食い違うことはなく、多少の見解の相違も擦り合わせてきた俺と藍子が、一つの問題に関してだけはすれ違った。
 もちろんそれで喧嘩になったということは全くないし、最終的には俺の方が藍子に譲歩して、彼女の望むようにした。彼女はその時きちんとお礼を言ってくれたし、嬉しそうにもしていたから、俺もそれでいいと思うようにはしていたが――。

「その指輪、エンゲージリングなんですか」
 不意に霧島が、藍子の左手に目を留めた。
 彼女の左手の薬指には、あのピンクダイヤモンドの指輪が今日も光り輝いている。それをちらっと見下ろしてから、彼女は恥じらいつつ答えた。
「そうなんです。プロポーズの時に隆宏さんがくれたもので」
「可愛い。これ、ピンクダイヤですか?」
 霧島の奥さんが尋ねる。藍子が頷くと、すかさず奥さんはこっちを見て言った。
「藍子ちゃん、四月生まれですもんね。誕生石の指輪なんて素敵ですね」
「……まあ、そういうことです」
 俺まで少し照れつつ、でも、と思い直す。
 本当はその指輪は、エンゲージリングではなかったはずだった。
「俺が選んだのだから、婚約指輪にするにはどうかと思ったんだがな」
 そう言うと、藍子は驚いたように目を瞠った。
「そんな、隆宏さんに選んでもらえたから嬉しいんですよ」
「でも、自分でも選びたいって思わないのか? お前だって好みくらいあるだろうに」
 結婚に当たって、一つだけ、俺たちの意見が噛み合わなかった事柄だ。
 結納は済んでしまったが今からでも遅くはあるまい。そう思って蒸し返そうとしたせいか、藍子はおかしそうに笑った。
「この指輪が一番好みなんです。是非、これでお願いします」

 彼女の言葉に嘘があるとは思っていない。
 現に藍子はこのピンクダイヤモンドを大変気に入ってくれたようで、結婚式関連の打ち合わせ等で出かける際も、あるいは普通のデートの時にも欠かさず身に着けていた。俺としても気軽に使って欲しいと思っていたので、彼女が気に入ってくれたことは当然嬉しかった。
 だが、改めて婚約指輪を買おうとなった時、藍子はおずおずと言ってきた。
 ――私は、この指輪だけで十分なんです。
 それを聞いて俺は焦った。何せこの指輪は俺が、プロポーズの際に手ぶらじゃ格好つかないからと急いで購入してきたものだ。もちろんデザインは吟味に吟味を重ねて選んだつもりだし、石に込めた意味合いは言わずもがな。だが所詮は男の俺のチョイスだし、何だかんだで慌てて買ってきたものには違いないし、そして一生に一度のことなんだから、婚約指輪は好きなものを選ばせてやりたいと思っていた。
 なのに藍子はこれがいい、の一点張りだった。金のことなら気にするなと言っても、そういうことじゃないんですと返された。彼女曰く、初めて好きな人から貰ったジュエリーだから大切にしたいのだそうだが、それならたくさん持っていた方がより大切にできるんじゃないかと言ったら、やはり『そういうことじゃないんです』と笑われた。

「先輩は意外と女心がわからないんですね」
 霧島がからかってくる。
 こいつに言われるのは不本意だ。霧島なんて女心どころか、奥さんの指輪のサイズすら知らなかったくせに。結局プロポーズまでに指輪を用意できなかった霧島を、当時の俺はとんでもないうっかり屋だと思っていたが、今になって思えばそっちの方が賢い策だったのかもしれない。後から二人で指輪を買いに行けるからだ。
「じゃあ、お前には女心がわかってるって言うのかよ」
 悔しまぎれに言い返すと、霧島はどや顔で答えた。
「詳しいとは言いませんけどこの場合はわかります。小坂さんは、先輩の気持ちが何よりも嬉しかったんですよ」
 そして答え合わせをするみたいに藍子の方を見る。藍子は照れ笑いを浮かべて、しっかり頷く。
「いい子じゃないか。贈ったもの一つをここまで大切にしてくれるなんて」
 安井までもがそんなことを言う。軽く俺の肩を叩き、
「石田にはまさに小坂さんみたいな子がぴったりなんだよ。結婚したらしっかり手綱を引いてもらうといい」
 ためになるのかならないのかわかりもしないアドバイスをくれた。
 と言うか、手綱引くのは俺じゃなくて藍子の方なのか。
 安井なんかに言われるまでもなく、俺には藍子しかいないと思ってるし、一番ぴったりだとも思っている。どうやら俺は惚れると尽くしすぎる性分らしいので、藍子みたいにしっかりした子ならやりすぎのラインを線引きして、ちゃんと遠慮もしてくれるだろう。
 でも指輪はもう一個くらい、買っておいてもよかったんじゃないかって思う。どうせ結婚したら、普段はマリッジリングの方をつけてることになるんだし。

 ――とは言え別に、結婚してから買ったっていいか。
 霧島と安井にいろいろ言われたのもあり、藍子の意思を再確認したのもあって、最終的にはより気楽な結論に落ち着いた。
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