Tiny garden

痛みばかりが重なってく(2)

 俺が釘を刺しておいたからだろうか、彼女はこの度のダイエットにおいて堅実な計画を立てた。
「夜十時以降はご飯を食べないこと、甘いものは極力控えること、適度な運動をすること、の三つです!」
 わざわざ指折りしながら得意げに語ってくれた内容がそれだ。この、得意げな顔ってやつがまたあどけなくて可愛いんだが、本人はいたって真面目に語っているので黙って見守っておいた。
「まず、仕事で帰りが遅くなって、どんなにお腹が空いていても、ぐっと我慢すること。これは言うまでもないですよね。消化もよくないですし、健康を考える上でも意味のある行動です」
 実家暮らしの彼女は当然、帰宅すればちゃんとご飯ができているという夢のような環境にいる。しかしそこはお母さんにも了承を貰い、今後は帰りが遅くなったらご飯は食べず、その分は朝食に回すと取り決めたのだそうだ。
 ちなみに彼女は、朝から揚げ物、丼物も余裕でいけるタフネス胃袋の持ち主である。この間なんて朝から天丼を平らげてきたそうで、その話を始業前の挨拶がてら聞かされた俺の方が胃がもたれた。若さってすごい。
「次に、甘いものを控えること。具体的には飲み物をお茶にするとか……もう秋ですし、そろそろアイスも食べなくなってきますから、そういうおやつ類も控えめにしていこうと思ってます」
 残暑もようやく和らいできた九月の終わり、普通なら夏場にバテ気味だった食欲が復活してくる頃合いだが、彼女はこの時期をダイエットの起点と定めた。何かと誘惑の多い季節でもあるものの、だからこそ精神の鍛錬にもふさわしい、などと思ったようだ。
「そして適度な運動! ここが今回最大のポイントです。会社帰りに電車を一駅手前で降りて、少しでも多く歩くことにしたんです」
 藍子は胸を張っていたが、俺はこの三つ目の条件に関しては更なる懸念があった。
「歩くのはいいが、夜は暗いだろ。変な奴だっているんだから、あんまり人気のないとこ歩くんじゃないぞ」
 これから日も短くなるし、若いお嬢さんが暗い夜道を歩いてたりしたら何かと危ない。普段の通勤距離くらいならいざって時は走って逃げることもできるだろうが、それが距離を伸ばすとなると心配だった。最近はこの辺も物騒だし、夜遅くなったら一人でうろちょろしないで欲しいってのが本音だ。
 俺の心配をよそに、彼女は楽観的な返答をする。
「大丈夫ですよ。二十四年生きてますけど変質者には会ったことないですし。そういう運はいい方なんです」
「いや、そういう問題じゃなくてな……」
 二十四年生きてて初めてのことが、これから起こるかもしれない、って考えはないのか。少なくとも去年から今年にかけては、そういった初めてのことが――こっちはいいことばかりのはずだが、とにかくたくさん起きたじゃないか。
 ここまで来てもまだ少しばかり視野狭窄、とりあえず今しか見えない感じの彼女がもどかしい。
「それに、もう少し涼しくなったら行きも歩こうと思ってるんです」
 藍子がまるで取り成すように言ってきたので、
「ならいい。むしろそっちをメインにしてくれ」
 そういうことならと俺は許可を出した。
 ダイエットに関してだけじゃなく全ての事柄において、俺は何より彼女が大事だ。俺が大事にしているものを、彼女自身にも是非大事にしてもらいたい。言うまでもないことだが。

 しかしながら、彼女のダイエット生活には幾多の障害が存在していた。
 まず何と言っても季節は秋、食欲の秋である。
 夏の高めに推移する気温湿度がようやく落ち着いてくる頃であり、自然と夏場よりも食欲が増進する。それを見越したように町中の店舗には美味しいものが溢れ出す。飲食店では秋の味覚フェアがこぞって開かれ、ケーキ屋には栗やカボチャやリンゴを使った新作菓子が並び、地元のスーパーでも旬の食料品が売り場を埋め尽くしている。天高く馬肥ゆる秋、って言葉は実に的確だ。
 そして、俺を含めて彼女と関わりを持っている多くの人間は、小坂藍子イコールよく食べる子というイメージをとうに確立させている。と言うか事実そうなわけで、小坂がいい食べっぷりを披露しているところを休憩時間、飲み会、親睦会その他で存分に見てきた営業課員たちは、小坂が急に少食になったりすると一様に驚き、何かあったのではないかと気を揉み、挙句の果てに原因が俺にあるのではないかと睨みを利かせ始める。

 折りしも彼女がダイエットを始めた週の終わり、営業課では恒例のいささか遅い納涼会が、行きつけの居酒屋で催された。
 その席で小坂が個人的に注文したのはサラダと冷や奴のみ、ビールの進みも明らかに自重しているペースだった。メニュー表には秋の味覚満載、いつもならどれもこれも美味しそうだと目を輝かせてみせるのに。
 そうなると皆だって気にする。次々と声をかけられる。
「小坂さん、大丈夫? ちゃんと食べてる?」
「いつもならもっと食べてるのに、今日はどうしたの? 夏バテ?」
「遠慮しなくていいんだよ。割り勘なんだから、食べないともったいないよ」
 気にかけられる度、小坂はもじもじと落ち着かない様子でいた。だけどあんまり言われるからだろう、遂には自ら明るく切り出した。
「あの、実は私、ダイエット中なんです! 食べるものに気をつけつつ楽しんでますのでどうぞお構いなく!」
 小坂の打ち明け話には暗さも必死さも全くなく、むしろ女の子特有の『ダイエット中の私、充実してる!』的な眩いオーラに包まれてさえいたが、男、特におっさん連中は大抵の場合、若い子のダイエットには否定的なものである。それでいて面と向かって止めなさいとは言えないもんだから、彼女のダイエットの理由をよそへ――例えば付き合ってる男なんかに見出しては批判し始める。
「駄目ですよ先輩、小坂さんに無神経なこと言ったら」
 先陣を切って霧島が、俺に向かってそう言った。
「何で俺だよ」
 聞き返せばすかさずしたり顔をされる。
「他の動機なんて浮かばないからですよ。どうせ先輩が余計なこと言って、小坂さんの闘志に火をつけたんじゃないかと」
 正直なところ、小坂のダイエットについて俺以外の動機が浮かばない、という状況には優越感めいたものを感じる。俺と彼女の関係がそれだけ認知されているってことでもあるしな。
 だが霧島は完璧に俺が真犯人だと名探偵のような目を向けてきているし、他の営業課員も疑るようにこっちを見ているし、当の小坂がいつ弁明に入ろうかとおろおろし始めたので、ひとまずさっさと宣言しておく。
「俺のせいじゃないぞ。言っとくが俺は、女の子に『ダイエットしろ』なんて言ったことは一度もない」
「本当ですか? 疑わしいなあ」
「本当だって。俺も小坂の可愛くも潔い食べっぷりを見てる方が楽しいしな」
「先輩は小坂さんなら何だって可愛いんでしょう……」
 霧島は棘のある物言いで納得してみせた後、小坂の方へ向き直る。そして訝しそうに尋ねた。
「じゃあ、どうしてなんですか? 小坂さんは痩せる必要なんてないですよ」
 そういうことをずばっと聞いちゃう霧島の方がかえって無神経なんじゃないかって思うが、小坂は気にしたふうもなく、照れ笑いを浮かべて答える。
「必要ないってことはないんですよ。ずっと前からしようしようと考えてたくらいで……」
「いや、要らないです。小坂さんは今のままで十分魅力的です」
 太鼓判を押すように言った霧島は、もしかすると若干酔っ払っているのかもしれない。てか俺の彼女に何を言う。奥さんに通報するぞ。
「そうですよ! ダイエットなんて、小坂さんはしなくても大丈夫ですよ!」
 更には春名まで口を挟んできたから、そこで小坂は困ったように笑った。
「そんなこともないんですって。これは健康の為でもありますし」
 そして営業課員が見守る中、彼女ははにかみながら言葉を選ぶように続ける。
「あと……実はそんなに、急いで痩せようとか思ってないんです。何て言うか、長期計画でじわじわ痩せられたらなって思ってるので、全然無理もしてないですから」
 その割にはサラダと豆腐しか食べてないよな――というツッコミは野暮だろうから黙っておく。長期計画と言っても、まずはいくらか成果が欲しいってところなんだろう。
 俺としてはやっぱり、別にダイエットなんて、ってところなんだがな。彼女の気持ちもわかるから、なるべく見守ってようと決めてはいるが、皆が美味いもの食べてる席でくらいは一緒になって美味いもの食べてもいいんじゃないのか、とも思う。
 本人が辛くないならいいんだが。
 ともかくも、小坂の説明を営業課の連中は微笑ましく受け止めたようだった。きっと皆、女の子特有の充実オーラを目の当たりにして目が眩んでしまったんだろう。
 ただ一人、霧島だけは妙に納得した様子だった。
「……ああ」
 何事か悟ったように頷いた後、
「でも、長期的計画なら今日くらい、普通に食べても問題ないんじゃないですか? 無理をするのも身体に毒ですよ」
 と小坂に勧める。
「えっ、でも」
 とっさにまごつく小坂の迷いを見抜いたか、すぐさま春名も便乗した。
「もし食べ過ぎちゃったら、その分運動でもすればいいじゃないですか!」
 たちまち、そうだそうだとあちらこちらで賛同の声が湧く。いい感じに酒の回ってきた連中は、どうにかして小坂の食べっぷりを取り戻そうと動き始めたらしい。あれを可愛いと思ってるのは俺だけじゃないのかもしれない。まあ小坂は俺のものですけどね。
 俺だってここで、『いいから好きなだけ食え!』って言ってやれたらいいのになと思う。でもこっちは、彼女のダイエットの理由を知ってるしな……。俺に原因があるってのもあながち間違いではない。
「そっか、運動かあ……」
 俺の葛藤をよそに、小坂の表情がぱっと輝く。そしておずおずと、俺に向かって問う。
「ここから家までずっと歩いたら、今日の分のカロリーをペイできるでしょうか」
「何でお前はそんなに極端なんだか」
 長期計画でじっくりやるんじゃなかったんかい。俺は呆れたが、小坂は小坂で真剣に思い悩んでいるらしい。
「難しい局面です。この油断が後になって響いたりしたら、悔やんでも悔やみきれません」
「そんなダイエットくらいで大げさな」
「私はこの案件において努力を尽くさずに後悔するのは嫌なんです。ベストな結果を出したいんです!」
 えっ、ダイエットの話ですよね……? って聞き返したくなるほどきりっとした顔をする小坂に、何だか俺は申し訳なさといとおしさを同時に覚えた。俺としては今のお前もベストオブ小坂藍子だ。毎日がベストスコア更新だ。 
 しかしそこまで悩んでるなら、こっちとしても救いの手を差し伸べてやらなくもない。
「そういえば、一駅向こうに新しいゲーセンできたの知ってるか」
 俺が切り出すと、小坂は何の話だろうと目を丸くしてみせた。
「そこは身体動かす系のゲームも充実してるらしくてな。バッティングセンターも併設されてるって聞いたから、俺も一度行ってみたいと思ってたとこだ」
 今風の言い方をすればゲーセンってよりもアミューズメント施設、ってことになるのか。老舗百貨店の撤退に伴い、空きビル一軒をまるまる買い上げて作られたものだそうだ。ボウリング場や入浴施設もあるらしいが、今夜見て回るならゲーセンフロアがせいぜいだろう。
「今日はそれほど飲んでないみたいだし、運動したいって言うんなら付き合ってやろうか」
 飲み会の席で、皆の目のあるところで誘ってみる。
 早速ほうぼうから口笛やら冷やかしの言葉やらが飛んできたが全く気にしない。むしろ去年はこんなことできなかったんだよな、と感慨深くさえ思う。
 小坂はちょっと恥ずかしげにしながらも、楽しそうに目を輝かせた。
「バッティングセンターですか、面白そう! そういえば主任、野球経験者ですもんね」
「え、先輩、野球少年だったんですか? そんな爽やかなイメージじゃないですけど」
 話を聞いていた霧島が性格の悪いことを言ってきたが、確かに爽やかではなかったので肩を竦めておく。
「そう言っても二十年以上前の杵柄だぞ。やってたのは小学校の時だけだ」
「じゃあリトルリーグですか。それはそれで想像できないような」
「ああ。ついでに言うと中学の時はサッカー、高校時代はワンゲルにハマってた」
「うわ……その落ち着きのなさはすごく先輩っぽいですね」
 俺もそう思う。
 ともかくも、昔取ったというにはあまりに古ぼけた杵柄ではあるが、遊び半分でバットを振るのに何ら支障があるはずもない。俺も今日は酒が進まない気分だし、小坂のダイエットに付き合ってやるのもいいか、と思う。デートも兼ねて。
「そういうことなら、お言葉に甘えようかな……」
 まんまと小坂の心が傾き始めたので、俺はここぞとばかりに追い込みをかけた。
「甘えろ甘えろ。後で運動すると思えば、心置きなく食べられるだろ」
「……そうですね! じゃあ、飲み会の後はよろしくお願いいたします!」
 彼女の気持ちも決まったようだ。俺に向かって笑顔で頭を下げると、早速メニュー表を手に取って美味しそうなものを物色し始めた。
 その顔があまりに幸せそうだったものだから、女の子ってわかんないよなあ、って十代のガキみたいなことを思ってみる。
 ダイエットするのとしないと、どっちが充実してて、どっちが幸せなんだろうな。
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