Tiny garden

救い上げて(2)

 クールダウンの必要がある。
 そう思った俺は一旦車を降り、コンビニで飲み物を買ってきた。よく冷えた缶コーヒーと、小坂の分のホットココアも。コンビニの店内は妙に室温が高くて、余計に頭がくらくらした。

 手早く会計を済ませて車へ戻ると、小坂は助手席に行儀よく座っていた。
 どことなくきまり悪そうにはしていたが、それ以上に俺の反応が気になっているようだ。運転席のドアを開けて車内に入りシートに座るまで、俺の一挙一動を漏れなく観察していた。おかげでこっちは余計にどぎまぎした。
「ほら」
 俺はなるべく冷静に、彼女にココアを差し出した。
 それから自分の缶コーヒーを開け、一息に飲み干す。
 喉を下っていく冷たい液体に、ようやく気分が落ち着いてくる。大きく溜息をついて、ぼやいた。
「お前、時々ものすごい不意打ちかますよな」
 何だって運転中にあんなこと言い出すんだか。
 お前だって免許持ってんだから、ああいう不意打ちが心臓によくないこともわかるだろうに。
「――あ、あの、間が悪くてすみませんでした!」
 小坂は神妙そうに詫びてくる。その丁寧な調子が逆に、わかってんだかわかってないんだかと不安にさせる。
「ところで、代金はおいくらでしたか」
 しかも相変わらず、ずれてやがる。
「そんなことはどうでもいい。いいから黙って飲め」
 俺は小坂を言葉で黙らせ、ココアを飲むよう促した。彼女が飲んでいる間に、もうちょっと落ち着いとこうと思う。思いっきりペース乱されたからな。
「あ、い、いただきます」
 ぺこぺこ頭を下げた小坂が、ココアのプルトップを開ける。
 ゆっくりココアを味わう横顔を眺めつつ、俺は空になったコーヒー缶をドリンクホルダーに置いた。そしてシートに寄りかかる。
 まだ心臓がばくばく言っていた。
「こっちが油断してる時に限ってとんでもない反応するよな」
 つくづく、手強い女に惚れたもんだと思う。
 もしかすると小坂藍子は相当の悪女なんじゃないか。俺に対してあんなにわかりやすく好意を匂わせといて、こっちが本気になったらするりと逃げてみせる。そして追っ駆ければ追っ駆けるほど勢いづいて、俺をどんどん深みに嵌まらせていく。気がつけばもうどっぷり好きになってて、もう寝ても覚めてもこいつのことばかりだ。
「本気で迫れば逃げ腰になるくせに、わからない奴だ」

 だがそれを、計算づくでやってないのが小坂だ。
 お蔭で俺は振り回されて弄ばれる。本気になって、捕食してやろうと挑みかかれば逃げられる。ブリーダーとしての小坂はリード捌きもやたら上手くて、犬の俺を巧みに操りすっかりその気にさせてしまった。そういうのの繰り返しで今日までやってきたわけだ。
 今日からは、何かが変わるだろうか。
 いや、変えてみせる。この機会を逃してたまるか。俺だってもう腹見せて服従のポーズ取ってるだけの馬鹿犬じゃない。牙剥いてやる。

 ふつふつと思考を臨戦体制へ移行する俺をよそに、
「あの、先程のことはすみませんでした」
 小坂はココアの缶を見つめつつ、至ってマイペースに詫びてきた。
「謝らなくてもいい」
 俺は大人の態度でそれを許す。
 実際のところ、別に怒っちゃいない。というか冷静になってみればだ、これは俺が待ちに待ちすぎて首が天を突くのではないかというほど伸びきったタイミングで訪れた、絶好のチャンス、あるいは捕食タイムである。
「だが聞いておきたい。どうして、気が変わった?」
 下心はおくびにも出さず、俺は小坂に問いかける。
「以前の約束では、年度末を越えてからって話だった。俺はそれをどうにかして前倒しさせてやろうと試みたが、お前はどうしようもなく頑なだったな。それが今になって翻ったのはなぜだ」
 すると彼女はココアを一口こくんと飲んで、それから首だけを動かしこちらを見た。
 瞳をうるうる揺らしながら、恐る恐るといった様子で口を開く。
「話すと、長くなりそうなんですけど……」
 マジで長そうな予感がした。
 しかしここまで来たら、もう何もかも受け止めてやるしかあるまい。これも惚れた弱味ってやつだ。
「……わかった。聞いてやる」
 腹を決めた俺が頷くと、小坂は語り出した。
「私、主任に喜んでもらえるようなことをしたかったんです」
 いつものように真面目に、真剣に。
「今まですごくお世話になりましたし、去年はいろいろご馳走になって、香水までいただいちゃいましたし、今日だって楽しかったですし、ほら、こうしてまたココアをご馳走になってます」
 そこで小坂は飲みかけのココア缶を軽く掲げてみせた。
「それは大した値段じゃない」
「でも感謝しています。ありがとうございます」
 たった百円ちょいの飲み物の為に律儀に頭を下げた後、小坂は続ける。
「だからお礼がしたかったというのもありますし、それ以前に私、主任には笑っていてもらえたらって思うんです。あの、ジンクスのことで」
 俺のジンクスは、かなり前から小坂で固定されている。
 小坂が笑ってくれたら何もかも上手くいく気がするし、俺自身が幸せになれるし、毎日それを見る為に頑張ってる。
 そして小坂のジンクスは俺なんだから、俺達が一緒にいない理由なんてもうずっと前から消滅してんだ。
「私は、いただいた名刺を大切にしています」
 小坂はそう言ってから、もじもじと視線を泳がせた。
「でも、本物の、動いていらっしゃる主任の笑顔の方が、何と言うか、いいなあと思うんです、やっぱり……」
 そりゃそうだろ。俺自身もそう思う。
 こんな男前捕まえて、写真の方がいいなんて言ったら罰が当たるぞ。絶対に本物の方がいいに決まってる。ちゃんと見とけ。
「その、主任が喜んでくださることって何かなって、考えてみました。私に出来ることだったらいいなって」
 話しながら、小坂はすっかり俯いている。
 耳もほっぺたも真っ赤にして、小刻みにぷるぷる震えてる。それでも視線は上げようと試みているのか、俺の顎辺りをじっと見つめていた。その懸命の努力すら可愛いと思う、俺も大概、末期症状だ。
「私がお傍にいることで、主任に笑顔になっていただけるなら、それが一番いいだろうなって思うんです。私の希望も、主任のご希望も叶うわけですから……その、変な言い方ですけど」
 奇遇だな。ちょうど俺も、前に同じこと考えてた。
 俺達なら永久機関になれる。お互いの笑顔だけでこんだけ突っ走れるんだから。
 思わず口元が緩んだ時、
「思うんですけど、恋人同士でいるって、二人だけで成立するんじゃないんですよね、きっと」
 小坂がまた小難しいことを言い出して、俺は思わず聞き返す。
「どういう意味だ?」
「はい、あの、恋愛をするのは当事者同士ですけど、恋人同士でいるのは他の人の前、誰の見ている前でもそうなんだろうなって。誰かに認めてもらうのも、大切なことなんだって思ったんです」
 聞いてみてもぴんと来ねえな。
 お互い好きならそれだけでいいんじゃねえの、俺はそう思う。誰の目も気にすることはないだろうし、仮に他人から認めないと言われたところで俺はちっとも気にしない。
 とは言え、認められる方が嬉しいってのも事実ではある。思いっきり自慢して惚気られるしな。安井も霧島も何だかんだで俺の惚気をスルーしたりからかったり、時にもっと言えと煽ったりしてくれる。だから俺も楽しくなって、小坂のことばかり喋ってしまう。
「誰かの前でも、誰の前でも、私がお傍にいたら主任には、喜んでもらえるのかなって思ったんです」
 小坂がそう続けた。
 そこまで聞いてもやっぱりわからなかったが、とりあえず俺は結論であろうことを口にしてみた。
「それはぶっちゃけた話、俺たちもう恋人同士っぽいから実際付き合っちゃった方が早いよなって意味か」
 すると小坂は目に見えてあたふたし始める。
「ええと、それもそうなんですけどっ。ちょっと、あの、身も蓋もないような気が」
「今更だろ。どっちの意味でも」
 付き合っちゃった方が早い。
 だって俺達、並みのカップルがやってるようなことはもう大体済ませちゃってるもんな。ここまでやっといて付き合わなかったらやり逃げだろ、ある意味。だからとっとと落ちてこい。
「ただ、私はルーキーですし、どうしたって未熟です。今でも」
 小坂は尚も真面目に語り、
「だから、主任にはお願いがあるんです」
 そこでようやく、ずっと俯いていた顔を上げた。
 真っ赤な顔に何やら決意の色を滲ませた小坂と、目が合う。大きな瞳が今にも涙を零しそうなほど潤んでいて、よく食うくせにちっちゃな唇が微かに震えている。まさに犬みたいな可愛い可愛い顔つきで見上げられると、ぐっと来る。
 頼むからその『お願い』ってやつは、俺にとっても楽しいものにしてくれよ。
 そう願いながら聞き返した。
「何だ?」
「私のこと、見ていていただけませんか」
 見てるだろ。今でも。
 そして毎日のように。
 俺はそう思ったが、小坂からすればまだ足りないのかもしれない。
「部下としても、恋人としてもです。未熟な点や至らない点がありましたら今後もご指摘ください。率直に言っていただける方がよりありがたいです。直すようにします、頑張ります!」
 とうとうと続けて、この物言い、まさに小坂だなと思う。
 恋人なんだろ、今日からは。もうちょい甘えるなりおねだりするなり誘惑してくるなりすりゃいいのに。こんな時までいつもの真面目な調子でいなくていいのに。
「本当に小坂は、こういう場面では色気がないよな」
 俺がしみじみ苦笑すると、小坂はとんでもないと言いたげに手を振った。
「い、色気なんてそもそも、持ってたことないですよ!」
「そうでもないだろ?」
 その生真面目な口調と言葉のチョイスはともかくだ。小坂に色気がないなんてことはない。俺はちゃんと知っている。
 何ならこの後、証明してやってもいい。
「お願い、できますか」
 小坂は硬い物言いで尋ねてくる。
「やっぱり、ルーキーイヤーはきちんと終わらせたいんです。失敗のないように、ちゃんと成長していられるように。ですからどうか、お力添えをお願いします。その分、私もいい恋人になります。主任にずっと、笑っていてもらえるように」
 言ったな。
 知ってるだろうが俺はそういう約束、断じて忘れないからな。言ったからには『いい恋人』になってもらおうか。そんな小坂を、俺は隅々までじっくりと余すことなく毎日毎日眺め拝み愛で尽くしてやろう。
「俺のすることはそれだけでいいのか」
 確認のつもりで聞き返せば、小坂はやはり真面目に頷いた。
「はい。それで十分過ぎるくらいです」
「もっと他にないのか。うんと甘やかして欲しいとか、優しくして欲しいとか、会う度に抱いて欲しいとか」
「ないです。むしろ遠慮なくご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします!」
「上手い具合にさらっと流したな」
 俺はそこで、助手席の小坂に手を伸ばした。
 俺の片手で鷲掴みできるようなその細い肩に、触れた瞬間、びくりとされたような気がした。
 まあ、ここではな。エンジンを切ってたせいで窓はいい具合に曇ってるが、何せここはコンビニの駐車場だ。
 続きは場所を移してからにしよう。
「何でもしてやるよ。それでお前が手に入るなら、努力すら安いもんだ」
 自然と込み上げてくる笑いと共に、俺は言った。
「待ち侘びたぞ、小坂」

 ようやく、欲しいものが手に入った。
 ついでに長いこと手放していたリードをようやく掴めた気がした。
 俺はブリーダー志望だったんだよ。犬じゃない。小坂にあれこれ仕込んで教えてやろうとは思ってたが、逆に上手く手懐けられてしまった。でもここからは違う。
 これで、小坂藍子は俺のものだ。

 次の瞬間、俺は車のエンジンをかけた。
 当然ながら、彼女を攫って二人きりになれるところへしけ込む為だ。
 小坂はきょとんとして、この期に及んで危機感ゼロの顔で俺を見ている。警戒してないのはいいことだが、あとで慌てるであろうことは想像に難くない。
 さて、部屋に着いたらどうしてやろうか。
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