Tiny garden

世界に背を向けたひと(5)

「俺、ブリーダーになろうと思う」
 次に安井たちと飲む機会があった時、俺は高らかにそう宣言した。
 安井は訝しそうに、霧島は眉を顰めて答えた。
「何? 転職?」
「ああ……いや真面目に聞くだけ無駄ですよ、石田先輩の言うことですから」
「ブリーダーって犬の? 犬が何だって」
「違うんです。先輩、小坂さんのこと犬っぽいって言うんですよ」
 霧島から一文の説明を受けた安井は、すぐにげらげら笑い出す。
「なるほどな、確かに! それでブリーダーか」
 すんなり納得された。当然だ。
「失礼ですよ。小坂さん、いい子なのに」
 口ではもっともらしく憤慨してみせる霧島。でもこいつだって小坂の犬っぽさを、過去には認めていたはずだ。忘れたとは言わせない。
 大体、現時点で『小坂=犬』説は満場一致で認定されたんだし、異論はあるまい。俺たち三人の意見がぴったり合うなんて滅多にないことだ。
「そうそう、あいつおりこうさんだからなー。ちゃんと『待て』ができるんだ」
「……何気にやらしい響きですね」
「石田が言うとな。何を待たせる気なんだ」
「いやいや。それは君らがむっつりだからそう思うんだろ、一緒にしないでもらおうか」
「先輩が普段からフリーダムすぎるんですよ!」
「そりゃむっつりではないよな、常にオープンだもんな」
 フリーダム、いいじゃないですか。風通しのいい男ってことだよ。
 そのうち小坂の前でもありのまま素のままふるまえるようになれたらな。時々会話噛み合わないしなあ。少しずつでも慣れさせておかねば。
「でも今のうちに教えとかなきゃいけないのは本当だろ」
 ごちゃごちゃした居酒屋はくだらない話こそ気楽にできるが、真面目な話にはあまり向かない。だからなるべく軽く続ける。
「いい子なだけじゃ営業なんて仕事厳しいって。小坂もちょっと揉まれといた方がいいんだよ」
「それはありますね」
 霧島も神妙に頷いている。だが次の瞬間には白い目を向けてきて、
「でも揉むのが先輩じゃあなあ……」
「当ったり前だろ。誰が他の奴なんかに揉ませるか」
「またその言い方が微妙なんですよね」
「だからそう思うのはお前がむっつりだからだ。何だよこの二の腕フェチ」
「い……いいじゃないですか! 二の腕!」
 言葉に詰まりながらも反論してくる霧島。否定しない辺り、奴だって変態度では俺と大差ないらしい。むしろ真面目な奴ほど危ないって言うしな。
「そもそも俺は二の腕、好きですけど、そういう点でも先輩ほどは酷くないですよ! 小坂さんが普段から開けっ広げな先輩に影響されたら……なんて思うと居た堪れないです。あんなにいい子がこんなになったら、親御さんも泣きますよ」
 こんなって何だこんなって。先輩って呼ぶならもうちょい敬え。
 そりゃ小坂はいい子だ、皆もそう言ってるよ。でも俺は、いい子の小坂が変わってくところが見たいんだから、そんな俺とつるんでたら変わってしまうのはしょうがない。いっそ誰もが俺の影響を否定できないくらいにがらっと変わってしまえばいい。
「いいじゃん、俺に影響されたらきっといい女になるぞ」
「うわ、よくもまあ臆面もなく言いますね、さすが先輩だ」
「あんま誉めんなって、照れるだろ」
「誉めてません!」
 そこで安井が口を挟んできて、
「そう言うなよ霧島。逆のパターンだってあり得るだろ」
 逆?
「こいつが小坂さんに影響されて、ものすっごい品行方正な男になったらどうする」
「ないでしょう普通に考えて」
 即答しやがったな霧島め。
 でも俺自身、小坂に影響される自分ってのは想像つかないがな。あまりにも対極すぎる。小坂の『いい子』ぶりは、俺にもあんな頃があったなあ……なんて嘘でも言えないほど徹底しているからだ。
「わかんないぞ、今でこそこんな駄目な大人丸出しの石田も、小坂さんとお付き合い始めた途端に更生するかもだ。まずは交換日記からなんつって牧歌的な交際をしたり、遊覧船に乗って舳先でタイタニックごっこをするようになるかもしれない」
「そりゃないな」
 開きほっけの身をほぐしながら、今度は俺が否定した。
 タイタニックはないわ。いくら小坂にねだられてもない。あーでも上目遣いで可愛くおねだりされたりしたらちょっと考えちゃうかも……心揺れるくらい可愛かったらな。ほっけの脂が乗っているからか若干前向きに考えたくなった。
「俺の方こそ霧島ほど酷くないからな。付き合って三年になるかならないかなのにまだ名字呼びとか、そんな締まりもなければ進歩もないほのぼの男女交際はいたしません」
 仕返しのつもりで言ってやる。
 何を隠そうこの霧島、未だに愛しの彼女のことを『長谷さん』と呼んでいる。半同棲という実にけしからん付き合い方をしているにもかかわらず、だ。いい加減名前で呼んじゃえよまどろっこしいなと俺たちがやきもきしてようが、当人――霧島はもちろんだが、長谷さんの方も全く気にしてないらしい。付き合うべくして付き合った、まさに似た者同士の二人だ。このマイペースな奴が営業課のアイドルを掻っ攫っていったのも、ある意味必然だったのかもしれない。
「いいじゃないですか俺の話は! 何でこっちに矛先向くんですか!」
 霧島は歯軋りしている。何でってそりゃいじりやすいからに決まってんだろ。
 同じように思ったか、安井も水を向けていた。
「お前、結婚しないの?」
「え? いや、まあ……」
 なぜ言葉に詰まるのか。とりえの真面目さはどうした。
「石田の言うことも一理ある。お前だってあと二年すれば三十だし、そろそろ悠長にもしてられないだろ」
「考えては、いますけどね。貯金もできてきましたし、生活の基盤には不安も少なくなってきましたし。ただ今はその、繁忙期ですから。まだ計画立てるところまでは行けてないと言いますか」
 どういうわけか歯切れは悪かったが、要するに霧島も結婚を前向きに考えてはいるらしい。性格上、勢いだけで結婚しちゃうなんて真似はできないんだろう。でも時期的には本当、そろそろって感じだよな。
 三十って、そういう意味でもボーダーライン的なとこあるよな。三十までには、とか、三十超えたら、とか普通に枕詞になっちゃうもんな。となると俺はあんま悠長にはしてられないな。どっちにしたって、霧島みたいなまどろっこしいのは、俺は嫌だ。この歳になってのんびりのほほんと牧歌的なお付き合いなんぞできるか。
「俺だって一応はちゃんと考えてるんですよ」
 ふんと鼻を鳴らして霧島が反論する。今夜もまた、肴は麺類だ。うどんで酒を飲んでいる。
「長谷さんのこと、真剣だからこそ時間かけてるんです。石田先輩みたいに見境なくないですから!」
「見境ないまで言うかお前。俺だって真剣だよ、小坂のこと」
 売り言葉に買い言葉で返すと、霧島はびっくりしたように俺を見た。安井も箸を止めて興味深そうな顔をし、こっちに目を向けてくる。揃ってそんなに驚くようなことかと、俺は苦笑して語を継ぐ。
「だからこそ、ブリーダーになるっつってんだろ」
「……ああ、それですか」
 今度はがっかりされた。この後輩はつくづく失礼な奴だ。
「小坂のことを大切に思ってるからこそ、手取り足取り教えてあげようとしてるんだろ。上司として、人生の先輩としてな」
「だったらまずセクハラの対処法とか教えてあげた方いいんじゃないですか」
「お、それもそうだな。営業に出るようになったら、契約を盾に……なんてこともあるかもしれん」
「いやそっちじゃなくて、上司に、ですよ」
「え? うちの課長は既婚だし、そういうのないだろ。あんま失礼なこと言うな」
「先輩わかっててスルーしてますね……」
 わかってないな霧島。セクハラってのは嫌がらせだ、小坂が嫌がってなきゃ問題ないんだよ。
 今んとこ何にも嫌がられてないし、小坂の方が俺のこと好きになってんだからいいだろ。拒否られない程度にはあれこれしたっていいじゃないか。
「もしもの時、セクハラの相談ならこっちで承るから」
 人事課長は冷奴をつまみながら笑う。視線はまだ俺に留まったままだった。
「それより石田。また俺たちに言ってないことがあるんじゃないか」
「ん? 何だっけ」
「花火のこと」
 ああ、と俺はリアクションに困った。
 それ自体は思い出すというほどでもない、つい一週間以内の出来事だ。あの時、安井に内線かけたから、奴が知ってるのは当然だろう。でも霧島はそれについて、何にも知らないはずだった。
 が、奴はその話題が出た途端にまたしかめっつらを作り、
「え、じゃあ噂になってたの、本当なんですか」
「噂になってんの?」
「なってますよ、うちの課で。先輩が小坂さんを屋上に連れてって、花火見せてあげたって。主任も女の子には甘いんだからーなんて言われてますよ」
 いや甘いのは俺だけじゃないでしょ。今は小坂がアイドルみたいな扱いだもんな。あいつの場合、どっちかって言うとアイドルよりマスコットポジションかもしれないが。
 それはさておき、そういう噂はちょっと物足りないな。もう少し、小坂が俺にベタ惚れだって周囲に知らしめる手立てはないもんか。ちょうど以前の歓迎会での挨拶みたいな。
 ……そういえばもうじき飲み会あるし、次こそ隣に座っとこうか。
「花火、実際見たんだよな?」
 安井が知ってるくせに確かめてくる。その態度を何となく、警戒したくなる。
「まあな」
「本当、なんですね」
 それで霧島はわざとらしく溜息をついた。
「先輩、花火が苦手だとかどんすかどんすかうるさいだとか言っといて、女の子と一緒なら見ちゃうんじゃないですか。下心があれば何でも乗り越えちゃえるんですね」
「容赦ないなお前……。小坂が花火好きだって言うから見せてあげただけだろ。優しい上司じゃないか俺」
「小坂さん、喜んでた?」
 霧島とは対照的に、安井は話を先へ先へと進めたがっている。何を聞きたがってんだろうな、こいつ。あの日も俺をからかいたがるそぶりでいたが、さて。
「喜ぶどころか、ろくに花火も見てなかったよ」
「へえ。何したんだ、石田」
「何って、何もしてない」
 するような流れにもならなかったんだからな。実際のところ。
「と言うかあいつ、大人なんだよな。変なとこで。いや二十三だから大人だってのはわかってたけど、結構空気読むんだなって感じで」
 安井も、霧島も身を乗り出すようにしてくる。俺はほぐしたほっけの身を口に運びつつ、焦らすようにゆっくり続きを切り出す。
「もっと喜んでくれるかと思ってたんだよ。子供みたいにえらいはしゃいで、ものすごいいい笑顔で花火見ててくれるだろうって。でも全然で、空気読んだのかムードに押されただけか、ばりばりに緊張しちゃって笑いもしねーの。しまいにゃ俺に見とれたりするしさ」
「ああそれ完璧に雰囲気酔いですね。先輩に見とれるなんて奇特な」
 お約束のようにうるさい奴だな。
 でも俺は霧島のツッコミも即座に無視できるくらい、覚えていた。花火大会の夜、ろくに花火を見もしない小坂とふと目が合った時の顔。どうしようって表情で目を逸らしつつ、適当な答えを探そうと必死にしてた顔を、自分で撮った写真よりも克明に再生できた。
 それから機械的に弁当を食べ始めた時の強張った横顔も、犬って言われた時の微妙な落胆ぶりも、『待て』の時のちょっぴりそわそわしたおりこうさん顔も、その後に作った真面目そうな引き締め顔も、全部、しっかり覚えていた。
 全部可愛かった。うん、可愛いんだけど。
「俺はやっぱ、その時、小坂に幸せそうに笑ってて欲しかったんだよな」
 再生した顔が浮かび上がる度、こっちが笑いたくなるのが厄介だ。
 笑わせたいのは俺の方なのに。
「あいつ、物食ってる時は本当に頬っぺた落ちそうな顔するんだよ。本当に美味しいんだろうなーって思わせるような、俺からするともうなんぼでもお替わりさせたるわーってなる顔。それがまた可愛くってな」
 そういう顔が一番可愛い。
 暫定一位だがな。俺はまだ小坂の全部を知らない、どこかに隠し球のいい顔を隠し持ってるかもしれない。そういうのだってそのうちに見てやりたい。
「ああそうだ、あいつの頬っぺたぷくぷくぷにぷにで柔らかそうなんだよな。揉むんだったらまずそこから揉みたくなるくらい。もう、何て言うかこう、堪らん感じで」
 マジ揉みたい。触りたい。なでなでしたい。抱き上げて頬ずりしてめり込むくらい密着したい。変態ですかね。
「だからもう、もういっそ俺がその頬っぺた落としたいって言うかな。俺で落として欲しいって言うか。物食ってる時以外でも幸せそうな顔してもらいたかったわけだよ。それで花火誘ったのに、小坂はちっとも嬉しそうにしないんだもんな、ちょっと当て外れた」
 目下のライバルは南蛮揚げやら唐揚げやらの肉類である。手強いことこの上ない。
「でも小坂がそういう空気は読んじゃう程度に大人だって言うなら、もう慣れさせるしかないよなって思ったんだよ。物食ってる時だけじゃなくて、俺が隣にいても、そういう空気の時でもちゃんと笑っててくれるようになって欲しいから。そりゃもう幸せそうな顔させてやりたいから、ちょっといろいろ、教えてやろうって気になった」
 緊張しなくていい。あんまり真面目にならなくてもいい。誘われてのこのこついてくる時みたいに、ずっと隙だらけでいたらいい。
 そういうことを教えてやったら、二人きりの時でも頬っぺた落ちそうな顔で笑ってくれるんじゃないかと、思った。
「大体あの可愛い顔を、無防備に人前で曝け出してるのが問題なんだよな。できるんだったら独り占めしたいんだけど、あいつ、そういうとこはわかってないっぽいしな。しょうがない奴だよなあ、慣れてない感じもそりゃ可愛いけど」
 できるんだったら俺専用のジンクスにしよう。長谷さんの時みたいに皆が知っててあやかってるんじゃなくて、俺だけが好きな時に好きなだけ引き出せる表情にしたい。俺の為だけに笑って欲しい。
 小坂の全部が俺のものになるなんて思ってない。
 でも、できる限りのもの全てを手に入れたい。
「だからまあ、トップブリーダー目指して頑張ってみようと、そう思ったわけだ」
 気づけば何だかだらだら語ってしまっていた。俺は急に照れたと言うか、ちょっと語りに入っちゃってるモードが気恥ずかしくて、にやにやしながら他の二人に視線を戻す。
 二人は、笑ってなかった。
 一緒になって呆気に取られた顔をしていて、俺が怪訝に思ったタイミングで霧島が、我に返ったように口を開いた。
「あの、今の、何なんですか」
「何って……花火の時の話だよ。させたのお前らだろ」
「花火の話全然してないじゃないですか!」
「だから言ってんだろ、ろくに見てないんだって」
「いやそうじゃなくて! さっきから小坂さんの話しかしてないって言うか!」
「小坂と見に行ったんだからあいつの話ばっかになるだろ。お前こそ何言ってんだ」
 ああもうそうじゃないんですよ、と霧島はもどかしそうに言葉を探している。だが一向に出てこないらしく、わけもわからないまま放っておかれる俺に、安井がぼそっと言った。
「石田、お前気づいてるか」
「何が」
「顔。でれでれだよ」
「あ? え、そっか?」
 自分でもちょっとにやついてんなって自覚はあったが、そんなにでれでれしてたかな。小坂の幸せ顔がうつったのかもしれない。
「て言うか今の、惚気ですよね」
 やっとのことで見つけたのか、霧島は意気込んで尋ねてきた。
「惚気……は違うだろ。そこまではまだするような段階でもないし、なあ?」
 俺はまさかと思いながら安井に同意を求めたが、奴は真顔でかぶりを振る。
「惚気だろ」
「ですよね!」
「いやそんなことないって。してないって」
「素直に認めろ。今のはちょっと、不意打ちで食らうにはきつい度合いだったぞ」
「酷かったですよね。あんなに緩んだ顔の先輩、小坂さんには見せられませんよ」
「そんなに酷くないだろ! 見てないからわからないけど!」
 別に惚気てるつもりはなかった。顔は、自分じゃ見えないからどうしようもないが、でれでれしてた……のか。そんなに?
「俺、心配することなかったんですかね」
 不意に霧島が、くたびれたような顔で軽く笑った。
 その肩を叩いた安井が言うには、
「だから言っただろ。杞憂だって」
「え、そういう意味で言ってましたっけ」
「……ちょっと待て。俺を置いてけぼりにするな!」
 流れについていけてない俺は、今更のように微妙な、不安を覚えた。
 ついさっきまでは考えるまでもなかった、疑問混じりの不安。

 べた惚れなのは小坂の方だよな。俺じゃないよな?
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