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残業時夜食列伝(2)

「頑張ってるだろうから、差し入れしてやろうと思ってな」
 石田主任はそう言いながら営業課に入ってきて、コンビニのビニール袋を私の隣の机に置く。
 大きめのビニール袋はみちみちに詰め込まれているせいで、中身の形が浮き上がって見えた。お菓子の箱がたくさん、あとはお茶のペットボトルが入っているのがわかる。
 主任の手がその中から商品を一つずつ取り出しては机の上に並べていく。まだスーツ姿というところからして一旦帰った様子ではなく、だけど退勤時に持っていた鞄はなかった。きっと車の中なんだろう。
「それにお前、買い出し行く暇なかっただろ。腹空かせてんじゃねえかと気にしてたんだよ」
 袋の中から次々とお菓子が出てくる。クッキーにチョコレートにビスケット、お腹に溜まりそうな物が多かった。
 お菓子の他には、カップに入った春雨ヌードルまで出てきた。ペットボトルは緑茶と紅茶が一本ずつ、それらを机に整列させた主任が指を差しながら続けた。
「サンドイッチとかおにぎりって選択肢もあったんだが、今日中に食べなきゃいけないようなもの貰っても困るだろ? だから日持ちのするやつと、あとお前がたまに食べてる春雨のやつにした。今日食べないんなら会社に置いといて、今度腹減った時の糧食にでもしとけ」
 それから主任は視線を上げ、食べていたピザを飲み込もうと必死に口を動かす私を見て、また笑った。
「そんなに急いでもぐもぐしなくていいって。落ち着いて食え」
 そんなこと言われたって落ち着けるはずがない。
 帰宅したとばかり思っていた石田主任が、それもこんなタイミングで戻ってくるなんて予想外すぎた。
 驚きのあまり私はとっさに行動が取れなかった。できたのは手にしていた食べかけのピザを自分の口に押し込むことだけだった。お蔭でまともにお礼も言えてない。
「とりあえず、ほれ。喉詰まりすんなよ」
 主任がお茶のペットボトルの蓋を開け、こちらに差し出してくれた。
 私はぺこぺこ頭を下げながらそれを受け取り、ピザを飲み込んでからお茶を一口飲む。冷たい緑茶の爽やかな味に少しほっとする。
 気分が落ち着いたところで、私は主任にお礼を告げた。
「あ、ありがとうございます主任。すみません、びっくりしちゃって」
「悪い悪い。連絡するかどうか迷いはしたんだ」
 主任は私の隣の椅子を引き、そこへどっかと腰を下ろした。
 夜の十時過ぎとあってさすがに疲れの色も見えたけど、明るい笑みを浮かべた表情はいたずらっ子みたいに得意げだった。
「でも『差し入れするぞ』なんて予告したら遠慮されそうな気がしてな。奇襲をかけてみた」
「いえ、主任に謝っていただくことなんて全然ないです」
 慌ててかぶりを振った私は、その後でちらりと自分の机に目を向ける。
 そこにはまだ温かいMサイズのピッツァマルゲリータが八分の七切れ残っている。自分一人で食べるからと蓋を開けっ放しにしていたせいでその大きさも具材の充実っぷりも丸見えだ。直径約二十三センチのピザを収める箱も当然大きくて、机の上で隠しきれない存在感を放っていた。
「あの……何て言うか、言い訳みたいになっちゃうんですけど」
 おずおずと切り出せば、机の上に頬杖をつく主任が吊り上がった目を細めた。
「言い訳って何だよ。この状況に何か弁解することなんてあるか?」
「あります。だってほら、このピザちょっと大きいじゃないですか」
 私は両手をピザの箱の一辺を測るように広げた。
「でもこれには訳があって、たまたま今回のピザ屋さんにはSサイズがなかったんです」
「へえ」
「私だってMサイズを完食しちゃうわけじゃなくて、やむを得ずMにしただけなんです」
「ほう」
「今日タクシーで帰る予定でしたから、余ったら持ち帰って朝ご飯にすればいいかなって……」
「それで? お前がしたい言い訳ってのは?」
 主任はにやにやしている。私がどうして慌てているのか、完璧にわかっちゃってる顔だ。
 もはや何を言っても言い訳にすらならない格好の私は、すっかり気落ちしながら懇願した。
「私のこと、すごい食いしん坊だなんて思わないで欲しいんです」
 その頼みは主任をかなり面食らわせたみたいだった。目を瞬かせた主任は即答せず、顎に手を当ててしばらく思案するように黙り込んだ。その後しばらくしてから覚悟を決めたような顔つきになり、厳かに宣言した。
「心配すんな。俺はお前がでかいピザ一人で完食しようと、引きもしないし変わらず愛してる」
「お、お気持ちは嬉しいんですけど、完食はしませんから!」
 それは、ほんのちょっとだけ、もしかしたら食べ切っちゃうかもなという予想はなくもなかった。もちろん余ったら持って帰るつもりではいたけど、案外ぺろりといけちゃうんじゃないかなという思いもあったり、なかったり。
 でも最初から完食が目的でMサイズを頼んだわけじゃない。断じてない。この辺りの微妙な差異を強調しておきたかった。
「今更見栄張り合うような間柄でもないだろ。よく食べるお前が俺には可愛いんだ」
 もっとも、石田主任は何もかもお見通しなのかもしれない。真顔でそんなことを言われて、決して誉められたわけじゃないのにどきっとする。愛してるとか可愛いとか、そんな言葉が澱みもなく出てくる主任の口はすごい。
「さっきも一生懸命もぐもぐしてるお前が可愛くて、つい抱き締めたい衝動に駆られたくらいだ」
 畳みかけるようにすごいことを言われて、私はその場に硬直した。
「えっ……」
「でも不意を打って喉に詰まったら一大事だからな。ぐっと堪えて目に焼きつけるだけにした」
 焼きつけられてしまった。よりによって会社でピザを食べてるところを。
 嬉しいような、でもかなり複雑にも思う私を宥めるように、主任が笑う。
「それに、安心した。夜食取る余裕もないのかと思ってたからな」
 心の底からほっとした、というような声に聞こえた。
 考えてみればこんな時間に、それも一旦は退勤した主任が差し入れに戻ってきてくれるなんて大変なことだ。主任だって一日中働いて疲れているのに、家でゆっくり休むことよりも私に差し入れを届けることを選んでくれた。なぜそうしてくれたのかなんて考えるまでもない。
 私はいつまで経っても主任に心配をかけてばかりだ。嬉しいけど、同時に胸が痛かった。
「ありがとうございます、主任。ごちそうさまです」
 少しだけ苦しい気持ちになりながら、改めてお礼を言った。
「好きでやってることだ。気を遣うなよ、俺には」
 主任の声は優しい。勤務中とは違う、いつも休日を二人で過ごす時の声だった。
 だから私は頷いて、まだ七切れ残っているピザを箱ごと手に取る。そして向き合って座る主任に申し出てみた。
「お返しというのもなんですけど、主任も一切れいかがですか。ご飯まだですよね?」
「たまにはいいな、貰うか」
 質問には答えず、主任は楽しそうに頷いた。

 言われてみればそんな感じするけど、石田主任が宅配ピザを食べるのはかなり久し振りだったらしい。
「もう食べたい物の中に、ピザって選択肢が出てくるお年頃じゃないからな」
 ぼやくように言い、大きく口を開けてピザにかじりつく。一口めを食べた主任はそれだけで満足げな顔つきをした。
「うん、美味い。悪くねえな」
 その間に私も、もう一切れ食べ始めていた。腹が減っては戦もできないと言うし、程々に食べておこうと思った。
「ですよね! スタンダードですけどむしろそこがいいって言うか」
 ピザはシンプルな方が美味しい、と私は思う。もちろんトッピング豊富なスペシャルピザが悪いわけじゃない。だけどピッツァマルゲリータはトマトとチーズとバジル、そして薄いピザクラフトというシンプルな材料達が互いの味を引き立て合い、少ない具材でも最高のポテンシャルを発揮するというところに美学を感じる。私もピッツァマルゲリータのように、シンプルながらも最大限力を発揮できる人間でありたいと思う。
 ピザみたいになりたいって言ったらそれこそとんでもない食いしん坊だと思われそうなので、口に出しては言わないけど。
「にしても、よくピザ頼もうって思いつけたな。そのひらめきに脱帽だ」
 主任はピザを食べながら、感心したように言った。
 いや、口調は感心していたふうだったけど、その口元はにやにやと緩んでいかにも私をからかいたがっているようだった。
「だって、こんな時間だと出前やってくれるとこって他にないですし」
 私が恥じ入りながら答えると、そういうことにしてやるかと言いたげに続けた。
「うちの会社にピザ屋呼んだの、多分お前が初めてだろうな」
「そ、そうですね。あの主任、恥ずかしいので皆さんには内緒にしてください」
「わかってる、俺の胸にしまっといてやるから安心しろ」
 と言った主任はその後で窓の方を指差し、
「ただ、内緒にしときたいなら換気を忘れるな。匂いでばれるぞ」
 ありがたいアドバイスをくださったので、忘れずに実行しようと思う。チーズの匂いは苦手な方もいるだろうし、好きな人にはばれてしまったとは言え、それ以外の人にも知られていいかと言えばちっともそんなことはないからだ。
「ごちそうさま。美味かったよ、小坂」
 最後に残ったピザの耳を口に放り込み、飲み込んでから主任が言った。
 すかさず私は箱を指し示して告げる。
「まだたくさんありますよ。よかったらどうぞ」
「いや、一切れで十分だ。俺の胃腸はお前ほど若くないんだよ」
 おかしそうに笑った主任はハンカチで手を拭くと、椅子からすっと立ち上がる。
「じゃあ、今度こそ俺は帰るかな。邪魔になると悪い」
 私も慌てて席を立とうとしたけど、それは手で押し留められた。
「いやいいよ、気にすんな。お前は仕事中なんだから」
「でもお見送りくらいは……」
「いいから。そういうサービスは勤務外でしてくれれば十分だ」
 諭すように言われてしまったので、私は仕方なく椅子に座ったままで頭を下げた。
「本当にありがとうございました。お気持ちが本当に嬉しかったです!」
 すると、座っていた椅子を机に戻した主任が私に目を留め、数秒間じっと見つめてきた。
 その時の顔は気のせいか、ちょっとだけ困ったような表情に映った。
「どっちかって言うと、俺が気になってしょうがなかったから来た」
 自嘲めいた苦笑いが口元に浮かぶ。
「お前が思いつめてないか、無理してないかって心配になってな」
 そういう陰のある表情を取る時、私は主任との間にある七歳という歳の差をすごく強く意識せざるを得なかった。
 私よりも遠く、遥かな未来を見ることができる石田主任は、それゆえに私よりもずっと多くの物事について考えているんだと思う。私が気づけていないこと、見落としがちなことも漏らさず捉えてはしっかりと考えてくれている。だからこそ私には主任の言葉が正しいと思える。
「誰より真面目な奴相手に、余計なこと言った自覚もあったしな。口うるさい上司持つと大変だろ?」
 主任が尋ねてきたので、私は本心からきっぱりと首を横に振った。
「そんなことないです。主任のご懸念ももっともだなあと思いました」
「……要は、そういうふうに言って欲しかったんだよ、俺は」
 主任は溜息をついている。
「正直、お前がピザ食ってるの見た時は何よりほっとしたよ。俺が口挟んだせいで、お前が明日に仕事を残すまいとかえって必死になるんじゃないかって思ったからな。飯も食わずに遅くまで残業して、でも明日になったらそんなそぶりは微塵も見せずに出社してくるんじゃないかって気がして、堪らなかった」
 そこでちらっとだけ思い出し笑いを浮かべて、
「だがお前はもう、注意されて思いつめるようなルーキーじゃないんだよな」
 と言った。
 その時、私達はきっと同じ記憶を思い出していたはずだ。一年目、営業デビュー初日に私が失敗をして、主任に叱られたこと。私はすごく落ち込んだけど、主任だって辛そうだった。あんなに厳しく注意を受けたのは後にも先にもあの時だけだ。
 今日はそこまできつく叱られたという気はしなかったし、そもそも主任の言葉は圧倒的に正しかった。私が客先から頼まれた案件について抱えている迷いやためらいを、主任はいち早く見抜いたからこそああ言ったのだと思う。迷いながらするような無理じゃないと言いたかったのかもしれない。
 私にもそのくらいはわかるようになった。もう二年目だ、いつまでもルーキー気分ではいられない。
「俺はお前を心配して戻ってきたはずなのに、いつの間にかお前に励まされてる」
 主任が迷いのない目で見つめてくる。
「ありがとな、小坂。急に来たのに歓迎してくれて」
「いえ、こちらこそ。一緒にピザ食べられて楽しかったですし、本当にすごく嬉しかったです」
 言うんだったらもっと気の利いたことを言えばいいのにとは、自分でも思った。こういう時にとっさに言葉が出てこないところは去年と何ら変わりがなくて悔しい。
 だけど主任は笑ってくれた。おかしそうに吹き出してから言った。
「確かに楽しかった。今夜のことはいろんな意味で忘れられないだろうな」
 そして椅子に座ったままの私に歩み寄ってきたかと思うと、上から覆い被さるようにして腕で私の頭を抱き締めた。
 予告も何もなかったし、抱き締めている間もお互いに何も言わなかった。頭を抱えられていたから呼吸も心臓の音も聞こえなくて、だけどほのかな温かさだけは感じた。十秒ほど時間が流れた後で主任は私から腕を離し、乱れた前髪を指先で梳き直してから、慈しむような眼差しで私を見た。
「また明日な、小坂。頑張れよ」
「……はい」
 私は静かに答えて、主任がドアから出て行くのを目で見送った。
 ドアが完全に閉じてから、深呼吸をして気合を入れ直す。頑張ろう。私の為にも、私を心配してくれる人の為にも。
 それから残りのピザを口に運びつつ、点けっ放しだったラップトップに向き直った。

 後日、注文の品が仕上がったと製造部から連絡が入った。
 急いでやってもらったおかげでお客様の要求していた期日にも間に合った。私は例によって他の仕事を後回しにして納品に出向き、お客様からは大変な感謝を受けた。
「いや助かりましたよ小坂さん! 本当、無理言ってすみませんね!」
 件の新作和菓子の包装は今日にも在庫が尽きてしまうところだったらしく、どうにか売り場に穴を開けずに済むとのことだった。
「お役に立ててよかったです。間に合ってほっとしました」
 私は控えめに応じた。内心、次回はもうちょっと早めの在庫確認と発注をお願いできたらなと思わなくはなかったけど、そんなことはなかなか言えないのが二年目の営業というものだ。
「お蔭様で新作の売れ行きも好調でしてね。今後は季節物のフレーバーを展開していこうと思っておりまして」
 和菓子屋さんの担当の方はにこにことえびす顔で続けた。
「その時はまたそちら様にお願いしたいと思っておりますんで、よろしくお願いいたします」
「はい。いつでも承ります」
 もちろんこれは口約束の段階だ。正式に契約が成立するまで鵜呑みにしてはいけないし、過度な期待も持つべきじゃない。
 それでも前向きなお話がいただけたのはいいことだし、心配してくれた主任にいいお土産話を持ち帰ることができるのが何より嬉しかった。
 早速、営業課に戻ったら主任に報告をしよう。主任も少しはほっとしてくれるんじゃないかな。まだ誉められるだけのことはしてないけど、主任にもちょっとだけでも喜んでもらえたらいいなあ、なんて思う。そしていざ本契約が結べたら、その時こそ一緒に大喜びしよう。
 私は気分を弾ませながら営業車を動かし、まだ仕事が山積みの会社へと戻っていった。
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