食欲と睡眠欲(8)
地下駐車場で、主任の車はすぐに見つけられた。車高のあるSUV車にはもう慣れた。でも自分で鍵を開けてお邪魔するのは初めてだ。開け方自体は難なくわかったけど、不法侵入みたいで緊張した。
助手席のドアを開けて、乗り込む。ドアを閉めた後はとりあえず、車のキーをダッシュボードの上に置いた。シートベルトを締めようと少し引き出してみたものの、何となくそういう気分にならなくて、手を離す。するする戻るベルトを横目に、恐る恐る座席に凭れかかってみる。
年の瀬だけあって、車内の空気は冷えていた。シートも保冷剤みたいに冷たかったけど、お酒を飲んだ後の身体にはむしろ心地いい。寒いとは思わなかった。
車の中も駐車場も、静かで、何の動きもない。
片や、私の心臓は忙しなく脈を打っていた。
目を閉じる。真っ暗な中に冷たい空気の匂いがする。柑橘系に似た、だけど僅かに甘い匂い。鼻先で感じ取ってますます緊張してくる。
主任から鍵を預かって、先に車に乗せてもらって、こうして一人で待っている。少し前までは考えられなかったことだ。大それたふるまいだと思いつつ、幸せも噛み締めている。好きな人に信頼されているのはうれしい。
今年は『少し前までは考えられなかったこと』ばかりをしてきた。言ってしまえば今の生活そのものがそうだ。会社勤めを始めて、一人で営業先を回るようになって、商品を売り込んで、契約を取ってきて、仕事が終わらなくて家で見積書を作ったりして――まさに絵に描いたような社会人生活を送っている。そういう毎日にもようやく慣れてきたんだろうか。今は当たり前のこととして受け止めている。
営業課での納会の光景が脳裏に浮かぶ。いつもと違うお祭り騒ぎに戸惑いつつ、最後にはちゃっかり楽しんでしまった自分がいる。知らないことや新しいことにもおっかなびっくり踏み込んでみたら、そのうちに何とか、慣れるのかもしれない。そうして今日までいろんなことを知って、学んで、慣れてきた。
霧島さんには一人前だと言ってもらったけど、やっぱりそこまでは至っていないと思う。私は全然まだまだだ。これから知らなくちゃいけないことも、学ばなくちゃいけないこともたくさんある。まだルーキーの身分でしかない。
でも、このくらいは思っていいはず。
私、ちょっとは頑張れたんじゃないかな。
いろんなことに。少し前までは考えられなかったことに。
車の中は居心地が良かった。アルコールのおかげで寒さを感じなかったし、それにほのかにいい匂いがする。シートに身体を預けていると気分も落ち着いた。
目を閉じていたかった。ちょっとくたびれていたせいかもしれないし、大して飲んでいなかったのに酔っ払ってしまったのかもしれない。心臓だけじゃなくてこめかみまで脈打っていた。頬が熱くて、意識はふわふわ浮かされている。それらの感覚すら幸せに思えてきて、私はこっそり笑いたくなる。
もうちょっとだけ頑張ってみようかな。年が明ける前に。明日からはしばらく会社もお休みだし、主任とだって会えなくなる。だから今日はもうちょっと、好きな人の為に出来ることをしたい。
具体的に言うなら、例えば――。
「――おい小坂、起きろ」
肩を軽く揺すられて、あれ、と思った。
起きろってどういう意味だろう。
「こんな寒いところで寝る奴があるか」
苦笑交じりに叱る声。もちろん主任の声だとすぐにわかった。でもどうして叱られているんだろう。と言うかここ、どこだっけ。目が開かない。
ドアの閉まる音がして、気付く。そうだ、主任の車の中だ。
直後、車が細かな振動を始める。エンジンが掛かったようだ、エアコンから風の吹き出すごうごうという音も聞こえてきた。
その風の冷たさで、更に別の重大事項にも気付いた。
私、寝てた。
「わあっ、すみません!」
慌てて身を起こしたら、頭がぐらっとした。寝起き特有の嫌な感覚。ああ本当に寝起きなんだなあ、と馬鹿みたいに納得してしまう。
ついでにようやく目も開いた。視点がうまく定まらず、いけないとわかっていてもつい擦りたくなってしまう。そしてようやく見えたのは、運転席からこちらへ向く、既にシートベルトを締めた主任。薄暗いので表情はよくわからない。
「本当にすみません、寝てました」
私が自己申告すると、
「寝てたな。見ればわかった」
呆れたように応じられた。
「寒くなかったのか? エンジンも掛けずに寝入って、風邪引いたらどうする」
言われてみれば少し肌寒い。いつの間にか随分と冷え込んだようだった。エアコンの風が温くなってきて、少しほっとする。
「あのその、乗り込んだばかりの頃はむしろ涼しいくらいだったので、何と言うかつまり、ころっと油断しました」
弁解の言葉も何だかもつれている。自分で言うのも何だけど、酔っ払いみたいだ。どうやらかなり熟睡していたらしい。みっともない。
「気を付けろよ。寝込みでもしたら、せっかくの年末年始がもったいない」
主任はそう言った後で、手を伸ばして指先で、私の頬に触れた。
温かい指だった。
「でも、待たせたのは悪かった」
撫でられた手のひらにも体温を感じた。
この感触は少しだけ知っていた。ごつごつした指先と厚い手のひら、指先は滑らかで、いつもなら少し冷たい。だけど今はぬるま湯みたいに温かだった。目を閉じたくなるのをどうにか堪える。
溜息の後で言葉が続いた。
「鍵の引き継ぎに手間取ってな、ちょっと遅くなった。お前が寝てるとは思わなくて驚いたよ。寒くないか?」
「平気です」
車内も暖まってきたから、もう気にならなかった。
目も慣れてきて、やっとのことで主任の表情が見えた。言葉通りの済まなそうな、だけど今にも笑い出しそうな顔をしている。どことなく安心しているようにも映った。きっと私の油断ぶりを心配してくれたんだろう。優しいなあ。
そう思ったらうれしくて、何だかやけに気が緩んで、
「……って言ってる端から舟漕いでるな」
「あっ」
いつの間にやら瞼が落ちてきた。
慌ててかぶりを振ったものの、奇妙なくらいに眠くてしょうがない。
頭の奥が重く、動かすのさえままならない。仕方がないので自分で頬を抓ってみた。鈍い痛みは、温かい手に止められた。
「いいからいいから、眠いなら無理するな」
主任が笑っている。
その笑顔が瞼に遮られそうになる。慌てて、どうにか意思で押し戻す。だけど睡魔は実に手強い。
温かい手が離れた。
途端、がくんと私の頭が落ちかける。
「だから無理するなって」
「えっと、大丈夫です」
否定はしてみたものの、本当に大丈夫なのかどうかは自分でも判断出来なかった。多分、ちょっと眠いだけだと思う。多分、これを乗り切れたらどうにかなる。コーヒーが飲みたいな。カフェイン剤の方が効くかなあ。そんな感じ。
「帰るか? もし辛いなら、次の機会でもいいんだぞ」
その提案にはどう答えるべきかわからなかった。おとなしく帰った方が礼儀に適うに違いない。でも、まだ帰りたくない。気分だけなら拒否したかった。
せっかくの、久し振りのデートなのに。
「それとも少しだけ寝てるか? 何だったら着くまで寝ててもいい」
次に提示されたのは、先程よりも魅力的な提案だった。
「出来たらそれで、お願いします」
迷わず私が頷くと、主任は溜息をついたようだ。
「わかった」
すぐに弱い力で肩を押されて、後頭部と背中がシートに着く。そのまま座席と一体化してしまいそうなくらいに心地良い。
「じゃあ、とりあえず動くからな。眠いなら気にせず寝てくれ」
「はい……」
どこへ行くのかは聞いていなかったけど、少しだけでいいから寝たいと思った。
今ばかりは遠慮をする気にもなれない。眠い。やっぱりビールを飲んだからだろうか。自分でも気が付かないうちに酔っ払っていたのかもしれない。
シートベルトはもたつきながらも自力で締めた。
一安心したせいか、それからしばらく意識が飛んだ。
「その代わり、どこへ連れてかれても文句は言うなよ」
運転席からそんな声がする。意識が引き戻される。だけど今は、言葉の意味を考えるのも難しい。
どこへ行くのだとしても文句は言わない。絶対言わない。主任は優しい人だ。一緒にいられるなら別に、場所なんかはどこだって構わない。どこでもなくたっていい。
「小坂?」
「は、はい」
名前を呼ばれたので返事はしておく。でももう、声まで眠たくなっていた。
目も開かなかった。閉じる直前に車が、雪景色のビル街へと出て行くのだけは捉えた。話に聞いていた通り、大分積もっているらしい。白い。
「……いや、いい」
微かに笑って、主任が何かを否定した。何だっただろう。
「疲れてたんだな、お前も」
それからすごく優しい言い方をされて、意識ごととろけそうになる。
考えてみれば、好きな人の前で寝入ってしまうなんて非常識なふるまいだ。少し前の私なら絶対出来なかっただろうし、そうならないよう必死になってもいただろう。あるいはどうしても眠いから、デートはまたの機会にしてくださいと言って、電車で帰るべきだったのかも。本当はそっちの方が、マナーとしては正しいのかもしれない。
でも今は、甘えていたかった。
車の中は居心地が良かった。暖かいし、いい匂いがするし、好きな人がすぐ隣にいる。どこかへ行く必要もない、ずっとここにいたい、そんなことまで思ってしまう。好きな人がすごく優しい言葉を掛けてくれたから、ついつい全力で甘えたくなった。
この人の為に、私の出来ることって何だろう。
漂う思考の中では、ぼんやりと思っているのが精一杯だった。