Tiny garden

左手と右手(6)

 人混みを抜け、やっとのことでコインパーキングまで戻ってきた。
 アスファルトの上、来た時よりも影が伸びているのがわかる。車の影も長く濃く映っている。空の色はうっすら変わり始めていて、日が落ちるのが早くなったなと実感させられた。

 今日は、何時まで一緒にいられるのかな。ふとそんな疑問を抱く。
 夕暮れを合図に帰るような歳ではないけど、何せ初めての休日デートだ。大人の皆さんの平均帰宅時間なんて存じないし、いつ、どのタイミングで『そろそろ帰りましょうか』と申し出るべきなのかがわからない。主任がそう言ってくれるのを黙って待っている方がいいのかな。多分、石田主任なら率先して言ってくれそうな気がするんだけど。
 でも、帰りたくないなあ。
 一瞬そう思いかけて、私は慌てふためいた。――そうじゃなくて! 今日は帰りたくないとかそういう風に思っている訳では断じてないです。全然ないです。ただちょっと、帰り際はどうしても寂しい気分になっちゃうかもなと思っただけで、変な意味じゃない。恋人同士じゃないのにそんなことはおかしい。絶対おかしい。とっさにそういう想像へ行き着く私の頭が一番おかしい。と言うかやらしい。
 大体まだ四時だもの、帰る帰らないなんて考えなくてもいいことだ。一緒にいられる時間のことだけ考えている方がいい。せっかく手も繋いでもらっているんだし。

「……今度は、どんな想像であたふたしてる?」
「い、いえ、何でもないです……」
 主任の着眼点もタイミングも鋭敏な問いに、私はぎくしゃく目を逸らす。
 どうしてわかっちゃったんだろう。考えまでは読まれてないといいな、本当に。
 ちょうど、主任の車の傍まで来ていたところだった。見覚えのある車体が視界に飛び込んできた時、右隣から声を掛けられた。
「手を離すぞ、小坂」
 私が反応する間もなく、繋いでいた手はぱっと離れる。
 たちまち解放された手に心許なさを覚えてしまう。ほっとしたような、でも何だか寂しいような、身勝手な気分。長らく触れていた手のひらが熱かった。私のものじゃない体温が、まだそこに残っている。感触と、緊張が解けた後の気だるさも。
「また後で繋いでやるからな。運転中はお預けだ」
 主任の口調が宥めるみたいで、またしても内心を読まれたように感じた。
「え、あ……」
 返答にも詰まった。そんなにばればれの顔、していただろうか。
 繋いでいる間は、どきどきしつつも幸せだった。何と言っても好きな人に手を握ってもらっていたんだから、これだけで今月の思い出になるくらいの素晴らしい出来事。
 もっとも、慣れていないせいでどうしていいのかわからなくて、本当に繋がれているだけ、という感じでもあったけど――ちょっと犬の散歩っぽかったかもしれない、自分で気づいてこっそりへこむ。さしづめ繋いだ手はリード扱いだろうか。いやいや考えない、考えないったら。
「あの、ありがとうございました」
 助手席のドアを開けてもらった時に、ついでにお礼を言ってみた。主任が怪訝そうにしたので、もう一言添える。
「手を繋いでくださって、うれしかったです」
「礼を言われることでもないな」
 主任は笑ってから、車に乗るよう促してきた。私が従うとドアを閉めてくれる。ガラスの向こうの姿が移動し、直に運転席のドアも開く。
「繋ぎたくて繋いだんだって言っただろ」
 乗り込みながらの呟きはごく平然としていた。本当に何でもない風に聞こえた。石田主任は誰かと手を繋ぐことなんて、そう珍しくも、特別でもないのかもしれない。それは大人だから当たり前か。
 私はそうじゃないから、まだ右手が熱い。どきどきしている。好きな人の手がここにあったのを覚えている。確かに。
 運転席のドアも閉められて、外の世界と隔絶される。一気に喧騒も風の音も遠くなった。シートベルトを締める時の金具の音が二回鳴ると、後は静かになる。
 しんとする。

 すぐにエンジンを掛けないんだ、とまず思った。
 それから私は、主任の横顔をそっと見上げる。何か思案している表情。あまり深刻そうではない様子から察するに、次の行き先を考えているのかもしれない。あるいは別のことかもしれない。
 どうあっても、無理に話題を作るつもりはなかった。空気を読んで、私も黙っておくことにする。私の意見が必要な時は、主任ならちゃんと聞いてくる。だからそれまでは待っていようと思った。
 しばらく、沈黙が続いた。

 不意に、
「――前に聞いたな、高校時代のデートの話」
 静かな中、主任が口を開いた。
 今の車内に相応しい、ごく絞られたボリュームだった。振られた話題は唐突だったものの。
 いきなりな上、私にとっては懐かしい話題だったから、びっくりした。
「小坂が、一つ上の先輩と遊園地に行った件だ」
 高校時代のデートと言えば、朝尾さんのことだ。真面目な生徒会長だった、当時の私の好きな人。そして初めてのデートの相手。更には、いろいろとご迷惑をお掛けした相手。
「お話ししてました。でも主任、よく覚えておいででしたね」
 私が驚くと、主任はヘッドレストに頭を預けて、目の端でこちらを見た。
「まあな。印象深い話だったから」
「そ、そうでしょうか」
 多分いい意味での印象深さではないんだろうなと察した。まあ、他の印象なんて持ちようないだろうけど。あの時の自分は本当に駄目な奴だった。
「いかにも小坂らしい失敗だもんな」
 喉を鳴らすように主任が笑う。
「お前があたふたしながら、しきりに話しかけてる様子が目に浮かぶようだ。何かと言うと簡単にうろたえるからな、小坂は」
 事実なので反論出来なかった。そういう点からして私は、今も昔もあまり変わっていない。
「もうちょっと上手く立ち回れなかったものかと、今となっては思います」
 恥じ入りつつ応じれば、鼻を鳴らされた。
「いや、上手く立ち回らなくて正解だった」
「そういう、ものでしょうか?」
 正解と言われるのは違和感があった。怪訝に思って、私は聞き返す。
 そこで主任が首を竦める。
「そいつとお前が上手くいってたら、俺の出る幕はなかったからな」
 相変わらずどきっとするようなことをおっしゃる。
 絶対に、弄ばれているのは私の方だと思う。
「その、か、からかわないでくださいっ」
「馬鹿、本気で言ってんだ」
 主任は大人っぽい口調で私をたしなめてから、再び私の右手を取った。軽く握られた。手を繋いでいたのはたった数分前のことなのに、さっきまでのことは全部忘れてしまったみたいに心臓が。
 どうにかなった。
 どうなったのかはよくわからない。何か、とにかくおかしくなった。
 体温と感触と緊張感とが猛スピードで戻ってくる。喉が鳴る。からからだった。
「手を繋いだのも初めてか」
 からかいじみた問い方をされた。普段通りに答えられるはずもなく、干からびた声が漏れた。
「え、ええと、その」
「高校時代の先輩とは手も繋がなかったのか。もったいないことする奴もいたもんだな」
 主任はわかっているらしい。私の答えを聞くまでもなく。
「あの時は、繋ぎませんでした。そもそもそういう空気じゃなかったんです」
 一応、私も答え直した。あの日のデートは本当にどうしようもない結果に終わっていて、あの日以来、私は朝尾さんとほとんど口を利かなかった。校舎内で偶然行き会った時、挨拶をしたくらいで――経緯を打ち明けた友達にはめちゃくちゃ笑われた。私も今でこそ笑い話に出来るものの、当時はへこんだ。ものすごく。
「その割には抵抗なく繋いだな。初めのうちは嫌がられるかと思った」
 呟くような主任の言葉。
 今も繋いでいる手に、お互いに視線を落とす。指を絡めている様子は、こうして眺めてみると妙にくすぐったい。くすぐられてもいないのに手のひらがむずむずする。
「少しは慣れたか」
 そう聞かれたけど、何回繋ごうと慣れる気がしないというのが本音だった。好きな人と、どきどきも緊張もせずに手を繋げるはずがない。これは絶対。
「いえ……でも、嫌じゃないです」
 付け加えた言葉もちゃんと、本音だ。顔を見ては言えなかったけど、嫌ではなかった。むしろ幸せだった。
「そりゃよかった」
 溜息みたいな短い声が聞こえて、繋いだ手に力が込められる。心臓も潰れた。私は息を呑んでいた。
 その時、車のエンジンが掛かった。
 ぎゅるぎゅると唸るような音の後で車が振動を始める。車内の静けさが吹き飛んだ。私は恐る恐る顔を上げ、主任の思案する横顔を見つける。
 次はどこへ行くか、もう決めたんだろうか。運転するなら邪魔になるからと手を離そうとしたら、どうしてか外れなかった。まだ強く握られていた。
 あれ、と思った途端、
「なあ、小坂」
 主任の次の声は、エンジン音の中でも明瞭に聞き取れた。
「ファーストキスの場所はどこがいい?」

 何を聞かれたのか、理解出来なかった。
 いや、多分わかる。ファーストキスと言うのはつまりそのままの意味だ。額面通りに受け取っていい単語だ。私だって意味くらいはわかる。どういうことをするのかも知っている。実地の経験はないけど、それはともかく。
 ここでの問題は、なぜ石田主任が私に、そういう問い方をしてきたのかということだ。
 場所、と言うのはキスをする場所のことじゃないかと思う。舞台と言うか、ステージと言うか、シチュエーションと言うべきか。
 そしてどこがいいかと、私に尋ねてきた。これは私に決定権を委ねるということなんだろう。場所の。キスをする場所の。

 そこまで考えて、
「……どういう意味ですか!?」
 ようやく声が出た。
 運転席の主任は、意外な真面目さで応じる。
「わからなかったのか? お前が抵抗なくキスしたくなるような場所を教えろって言ってんだよ」
「どうしてですか!」
「これから行くに決まってる。そのくらいの時間はあるしな」
 断言された。
 だけどまさか。ファーストキスってそんな。私と主任はまだ恋人同士でもないのにそういうことをするのはさすがにおかしい気がする。でも主任は普通にふるまっているようだし、私の感覚がおかしいんだろうか。もう何が何だかわからなくなってきた。
 ただ一つはっきりと言えるのは、
「……どこへ行っても、したくなると言うことはないと思います」
 震えながら私が告げると、主任は案の定という顔をした。
「じゃあ、場所から段取りから全て俺に任せるってことでいいな?」
「え!? あ、あのっ」
 そういうことじゃなくて。言い返そうとした私を遮るように、繋いでいた手はまた外された。
「出発するぞ、小坂」
 宣言した主任の顔が笑んでいたので、先の言葉が本気なのか冗談なのか、読み切れない。
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