Tiny garden

現実家と夢想家(3)

 営業先の巡回を全て終え、帰社したのが午後四時過ぎのこと。
 大体いつもこのくらいの時間になる。それから営業課オフィスで書類をまとめたり見積もりを出したり発注状況を確認したりする。全てが片付いて退勤出来るのは早くても六時過ぎ。時期が時期だと七時八時の残業は珍しくもないらしいし、繁忙期には日付が変わっても帰れない場合があると聞いている。
 今はまだ仕事の多くない私でも、既に定時上がりは夢か幻、残業をするのが普通になりつつあった。

 だからと言って、メールの文面を考える時間が皆無という訳じゃない。
 むしろ実家暮らしの身分で、帰宅したらお夕飯が出来ていて、時間次第では沸かしてあるお風呂にも入れて……なんて恵まれた生活をしているくせに時間がないなんて言えない。主任は一人暮らしで、しかも私より遅くまで仕事をされているのに私にメールを送ってくれる。それもごく自然な文章で。
 名刺を貰ってから、主任からは既に三度ほどメールを貰っていた。話題はごく他愛ないものばかりで、『今テレビに小坂そっくりの犬が映ってた』とか、『夕飯に惣菜の餃子を買ったら、小坂の食べっぷりを思い出した』とか、そんな感じ。話しかけるように自然なメールを送ってくれる。――私ってやっぱりそういう印象なんだなあとも、ちょっと思ったけど。
 私はそのメールに、普通に話している時と同じように返事をする。『他の人には言われたことなかったんですけど、私ってそんなに犬に似てますでしょうか』とか、『食べっぷりはそれほどでもないつもりですけど、でも餃子は美味しいですよね!』とか。そういう形でのメール交換は割と上手くいっていて、三往復くらいしてから挨拶をして終わる。内容がどうあれ、主任からメールをいただけるのはとてもうれしい。まるで気軽に話しかけてもらっているようですごくうれしい。
 だから私も、そういう風に話しかけられたらいい。
 でも自分からメールをするのはハードルが高い。どんな話題をどんな風に切り出したらいいのかまるでわからなかった。おかしな方向に話を振ってしまって、主任が返事に困ってしまってもいけないと思うし、畏まってもいけないのだと釘を刺されてもいる。考え出したらきりがなくって、私の方からメールをしたことは営業初日のあの夜、一度きりしかない。
 主任もきっと、私の思案の暮れようを見かけて、昼休みにああ言ってくれたのだと思う。パスケースに入れた名刺の、小さな写真をありがたがるよりも、その裏にあるメールアドレスと電話番号をありがたがる方が本当は正しい。そのことはちゃんとわかっているんだけど。
 今日こそはメール、しないと。毎日そう思うんだけど。


 今日の仕事が全て終わったのは、午後八時を過ぎた頃だった。
「お先に失礼します!」
 営業課オフィスの戸口に立って挨拶をする。まだデスクに向かっている主任が、それでも一旦手を止め、こちらに笑顔を向けてくれる。
「お疲れ。気をつけて帰れよ、小坂」
「はいっ、ありがとうございます!」
 お辞儀をしてから退出。そしてタイムカードをスキャンする。その間、何となくにやにやしたくなる。うれしくて。
 主任は優しい。気配りに溢れているし、頼りがいもあるし、上司としてはまさに尊敬に値する方だと思う。わざわざ仕事の手を止めてまで挨拶に応じてくれるんだから、気持ちが温かくなる。
 だからこそ是非、今日こそは私からメールを送らなければ、と思う。
 だからこそ、幻滅することなんてない、とも思う。
 今日の昼休み、安井課長は私に言った。主任の現実を見た方がいいって。課長が言うには、私は恋に恋してるように見えていて、一昔前の女学生みたいな恋をしていて、それで石田主任のことを現実的には見ていない、らしい。自分ではそんなつもりもなかったけど、主任をよくご存知の課長の言葉とあって、ぎくりとさせられた。実際私は、主任のことをいくらも知っている訳じゃない。安井課長や霧島さんみたいに付き合いの長い皆さんと比べたら全然知らない。出会ってからまだ半年弱しか経っていないんだから、当たり前なのかもしれない。
 でもこれだけは言える。この先、主任のどんな一面を知ったって、幻滅なんてするはずがない。考えられない。私が幻滅するような一面を、あの主任が持っているとは到底思えないもの。

 考え事をしながらロッカールームへ戻り、ロッカーから通勤鞄を取り出す。普段は化粧も直さず、このまま帰宅してしまう。今日もそのつもりで鞄だけ抱えていた。どうせ人に会う用事がある訳でなし、電車に乗るくらいなら問題なしだと思っている。
 ロッカールームも外の廊下も、八時過ぎともなれば人気がなかった。しんと静かな廊下を歩いていれば、電気は点いていても不気味な感じがして、つい足音を忍ばせたくなる。自分の靴の立てる音でもびくびくしたくなる。蛍光灯の立てるぶうんという音も、廊下の窓に映り込む自分の影も、不気味さを増幅させるのに一役買っていた。窓の外はもう暗い。
 そっと歩いていたせいか、知らず知らずのうちに息まで潜めていたせいか。
 廊下の先で話し声がするのに、気づいた。
「――せっかく待っていてくれたのに、すみません」
 しかも聞き覚えのある声だった。曲がり角を曲がった先から、ごくひっそりと聞こえてくる。そこにあるのはエレベーターホールで、エレベーターか階段を使わなければ会社の外には出られない。ここは三階、階段を使うのはちょっと億劫なくらいには疲れていた。
 それでも反射的に足を止めたのは、声の主が誰か、すぐに気づけたからかもしれない。
「本当は一緒に帰りたかったんですけど……仕事がもう少し掛かりそうなんです」
 霧島さんの声だった。
 そしてすぐに、その言葉へ応じる、別の人の声もした。
「いいえ、気にしないでください。晩ご飯の支度はしておきますから」
 受付でたまに耳にする、長谷さんの声、だ。
 つまるところエレベーターホールにいるのは霧島さんと長谷さんだった。お二人で何事か話をしているようだった。そのこと自体に問題はない。お二人ともうちの社に勤務されているのだし、その上きちんとした恋人同士でいらっしゃるとのことだし、社内で二人きりで話をしていたからと言って何の問題もあるはずがない。
 ただ、思う。私が出て行くのは、もしかするとまずいかもしれない。
 その、余計な気遣いかもしれないけど、割り込んでいくタイミングは見計らった方がいいかもしれない。
 私は曲がり角から覗き込むようにして、エレベーターホールの様子をうかがった。閉じたエレベーターのドアを背にして、長谷さんが立っている。向かい合わせの位置に霧島さんがいて、長谷さんのことを見下ろしている。長谷さんも霧島さんを見上げている。お二人の間の距離は三十センチあるかないかというくらいで、お二人とも、相手を見つめる表情がとても優しかった。

 とっさに目を逸らした。
 むしろ首ごと引っ込めて、曲がり角の手前でうろたえる羽目になった。
 どうしよう。薄々そんな予感はしてたけど、やっぱりまずい。到底割り込めそうにない。
 いやもちろん割り込みたい訳ではないんだけど。むしろお二人の邪魔にならないように足音を忍ばせてエレベーターに乗り込めたらそれでいいくらいなんだけど。ご挨拶をしないで素通りしたら失礼だとわかっているけど、いっそしないでいる方がこの場合は礼儀に適うかもしれないとすら思えてくる。
 どぎどきした。
 ものすごく、どきどきしていた。

「お仕事、頑張ってくださいね」
 長谷さんが、囁くような声で言う。いつも受付のお仕事の時に出しているような、はきはきした声とは違っていた。温かで、柔らかな声だった。
「頑張ります。なるべく早く帰れるように」
 霧島さんの声も優しかった。
 ――ううん、優しいのはいつもだ。霧島さんは普段からおっとりしていて、私に対しても優しい物言いをしてくれる。でも今は違った。特別な感じがしていた。初心だと言われてしまうような私でも、そのくらいの差ははっきりとわかった。
「明日のこともありますし、長谷さんだけに負担を掛ける訳にはいきませんから」
 いつもと違う声の霧島さんがそう告げると、長谷さんがふふっと笑うのが聞こえた。
「負担だなんて思ってないですよ。私、明日は楽しみにしているんです」
「本当ですか? 無理しなくてもいいんですよ、先輩がたが騒がしくするのは火を見るより明らかですし」
「ちっとも無理してません。石田さんや安井さんといるのも結構楽しいですから」
 長谷さんのその言葉で、そういえばと思い当たる。明日は主任と課長が、霧島さんの部屋でお食事会をする予定だったはず。昼休みに聞いていた。私はそれを『三人で』するものだと思っていたけど、もしかすると、もしかしなくても『四人で』するものなのかもしれない。
 もう一つ、思い当たった。主任が以前言っていた、霧島さんと長谷さんは、半同棲をしているとのことだ。同棲と半同棲の違いはいまいちよくわからない私だけど、どちらにしてもその単語の意味するところをこうして目の前で認識した時、眩暈がした。
 何だかすごく、大人っぽい感じがする。
 霧島さんと長谷さんは恋人同士なんだ、そのことをやけに強く意識して、頬っぺたが熱くなった。
「無理をしないでと言うなら、霧島さんだってそうです」
 恋人同士の会話は続く。
「お仕事大変でしょうけど、無理だけはしないでくださいね。霧島さんが倒れたりしたら私、困ります」
「大丈夫ですよ。長谷さんの作ったご飯を食べたら、疲れなんて吹き飛んでしまいますから」
 立ち聞きしているのが申し訳なくなるくらいの、甘い会話だった。
 ――そうだ、申し訳ない。と言うかこれは立ち聞きというより盗み聞きに該当するふるまいだと思う。私のすべきことは速やかにこの場を立ち去り、エレベーターの使用は諦めて一階まで階段で降りる。それだけだ。
 覚束ない足取りで踵を返す。足音も靴音も忍ばせて、とにかくお二人に私の存在を悟られないように歩き出す。この場を離れる。

 普段の姿は知っていた人の、恋愛している時の顔と声。
 それを目の当たりにしたら、すごく、どきどきした。
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