教える人と教わる人(3)
公衆電話探しは思いのほか難航した。昔はどこにでもあったはずの電話ボックスが、今はなかなか見当たらなかった。大きな通りをしばらく流しても発見出来ず、気持ちばかりがじりじりと焦り始める。電話がないって、不便どころの話じゃない。働く上では必要不可欠な、重大な文明の利器となってしまっている。
それなのに電話を失くしてしまった私は、まるで救いようがない。
車通りの少ない、寂れた団地地帯の一角で、ようやく公衆電話とめぐり会えた。撤去し忘れられたみたいに古びた電話ボックスへ、軋むドアを力任せに開いて、飛び込む。九月の陽射しを一身に浴びているせいか、中はむっとする熱気が充満していた。
もたつく指先で硬貨を投入し、携帯電話の番号を打つ。繋がるまでの無音状態がやたら長く感じられる。やがてぷつっと音がして、コールが始まる。一回、二回、三回――社用の携帯電話は、八回目のコールで留守電サービスへ繋がるように設定されていた。
『留守番電話サービスに接続します』
無機質な声で告げられ、一旦受話器を置く。もう一度。
硬貨を入れる。番号を打つ。繋がるまで待つ。やがてぷつっと音がして、コール音が聞こえてくる。一回、二回、三回……――八回目。
『留守番電話サービスに接続します』
「……ふう」
熱っぽい溜息をつきながら受話器を置いた。どうやら私の電話は、誰かが代わりに出てくれるような環境にはないらしい。誰も気付けないようなところにあるのかもしれない。となると、一体どこだろう。紛失したなら回線を止めてもらう必要だってあるし、でもそうなると電話を掛けて捜す手段が取れなくなる。もう少し当たってからにしなくては。
今まで回ってきた営業先を一件一件確かめるしかないだろうか。でも、あるとは限らない。外で落としたかもしれない。むしろ問い合わせた先になかったらご迷惑をにもなる。ただでさえ営業時間中に話を聞いていただいてるのに、これ以上の手間を取らせるのはよくない。せめて、どこで最後に使ったか思い出せたら。
焦っているせいか、トルク低めの頭はいつも以上に回転しなかった。次に何をすべきか、それすら思い浮かばない。どうにか考えをまとめようとしても、路肩に停めた社用車のハザードランプにさえ掻き乱される。考えなくちゃいけないのに。胃がきりきりしてくる。
もう一回、携帯に掛けてみよう。それで駄目なら営業先に電話で確認をするより仕方ない。そう思い、私はスーツのポケットに手を突っ込む。お財布から硬貨を取り出す為に。
と、その時。
指先に硬い、紙の角が刺さった。
主任からいただいたポチ袋だ。中身はまだ知らない。知らないけど、それよりもむしろ――主任の顔を思い浮かべた時に、気がついた。
あの携帯電話には社名が書いてある。社名と所属の営業課の備品であることが、テープの上に印字されていた。もし、私の電話を見つけてくれた人が、その名前に気付いて、会社の方に連絡をしてくれていたら。
希望的観測にも程があるのかもしれない。でもそうだったらいい、と思って、私は電話ボックスを飛び出した。一旦車へと戻り、鞄から手帳を引き抜く。再び電話ボックスへと駆け込んで、手帳から電話番号を拾い、電話を掛けた。
営業課オフィスへ。
直通の番号へはすぐに繋がった。
電話に出たのは石田主任の声で、私は安堵よりも強く申し訳なさを覚える。
「あの、主任! 私、小坂です」
『……小坂か? ようやっと連絡寄越しやがったな』
溜息交じりの声が苛立っているのがわかった。まさか、と思った瞬間に告げられた。
『お前、今どこから掛けてる』
「公衆電話です、あの実は私――」
『さっき連絡があったぞ。お前が携帯忘れてったって、取引先からな』
息を呑んだ拍子、ひゅう、と渇いた喉が鳴る。
電話、あったんだ。紛失した訳じゃなかったんだ。ちゃんと見つけてくれた人がいた。そう思ったら、たちまち膝から力が抜けた。座り込みそうになって、電話ボックスのガラスに寄りかかった。
「よかった……」
思わず呟けば、すかさず主任が呻くような声を立てる。
『よくない。あんな大事なものを忘れてくるなんて、何してるんだ』
低く、鋭い言葉だった。
『たまたまよその会社に置いてきたからまだましだったものの、これが外に落としてたらえらいことになってたぞ。いくら初日で緊張してたからって、不注意にも程がある。しっかりしろ、小坂』
そして至極もっともなお言葉でもあった。私は慌てて背筋を伸ばす。
「すみません、今すぐ引き取りに伺ってきます」
『当たり前だ』
怒りの色がありありとうかがえる口調で、主任は続ける。
『行ったらきっちり頭下げて来い。先方だって就業時間中なのに、お前の忘れてった電話の面倒まで見てくれてるんだからな』
全くもってその通りだ。
どこもお仕事中で、出向いていった営業の話を聞いてくれるだけでもそもそもありがたいって言うのに、その上忘れ物をしてご迷惑までお掛けしているのは、とんでもない失態だと思う。すごく情けない気持ちになり、私は項垂れた。
「本当にすみません、主任」
すぐに、主任には言われた。
『俺に謝ってどうする』
「……はい」
それも、もっともだった。でも主任にだってご迷惑もお掛けしているし、お仕事中に面倒なことを引き起こしてしまったのも事実だ。こう考えると私の罪は重い。非常に重い。
電話越しに、また溜息が聞こえる。
『こっちも言いたいことは山ほどあるけどな、とりあえず電話を引き取って来い』
「はい」
『詫びも忘れるなよ。お仕事中にご迷惑をお掛けしましたってちゃんと言えよ』
「はい」
『得意先に手間取らせるなんて、営業の人間として一番やっちゃいけないことだ。それ念頭に置いてしっかり謝れ』
「はい」
情けない。
私は落ち込みたくなる気持ちをどうにか追いやり、主任から遺失物拾得先の詳細を聞いた。そして挨拶もそこそこに公衆電話の受話器を置く。
行かなきゃ。行って、ちゃんとお詫びしなくちゃいけない。
一度行った営業先へと舞い戻る。
先方は私の顔を覚えていてくださったらしく、受付ですぐに話が通じた。所属先が印字された社用の携帯電話は、ようやく私の手元へ戻ってきた。震える手で受け取る。間違いなく、私の電話だった。
やはりほっとするよりも強く、申し訳なさと後悔とを覚えた。
「お忙しい中、本当に申し訳ありません。ありがとうございます」
お礼とお詫びを告げて頭を下げると、先だって話を聞いていただいた担当の方に、愉快そうに笑われてしまった
「いやあ、うちにもいろんな営業さんが来るし、名刺やらカタログやらを置いてってくれるけどね。携帯電話を置いてってくれたのは小坂さんくらいのものだよ。お蔭ですっかり名前も覚えてしまった」
「あの、ご迷惑をお掛けしました。申し訳ありませんでした」
何度下げても下げたりないような気がして、私は謝罪を繰り返す。初日からお詫びの為に現れるルーキーなんて、きっと私くらいのものだろう。あまりにも情けない。
「そんなに謝らなくてもいいよ」
とは言っていただいたものの、謝らない訳にもいかなかった。石田主任のお言葉通り、多大なご迷惑をお掛けしたのは事実。
「さっきそちらの会社に電話した時、主任さんからも謝っていただいたんだよ」
私の電話を預かっていてくださった方は、そういう風に笑っておっしゃった。
ぎくりとしていれば、更に続けて、
「こっちが恐縮するくらいに謝っていただいてね、だからお詫びならもう十分。迷惑なんて掛かってないから気にしなくていいよ、小坂さん」
――主任。
空腹の胃に、穴の開くような熱さを覚えた。
石田主任はそういう方だと思う。
何かあったら俺の責任だ、今朝、私の前でもそう言っていた。だから本当に責任を感じて、私の代わりに謝ってくれたんだ。今朝はずっと私の心配もしてくれて、とても気に掛けてくれて、出発前にはわざわざ駐車場まで見送りに来てくれたのに。
私は、主任のそのお気持ちさえ裏切ってしまった。