カメラマンとその恋人(6)
安井課長の歌は、本当にお上手だった。ステージは階段の一段分くらいの高さで、会場の端の方からはそのお姿が確認しづらかった。それでも歌なら、どこにいたって聴こえてくるからいい。
壇上に立った課長はすらりと姿勢が良くて、こうして見るとやはり生真面目そうな、それでいて堅苦しくはなさそうな落ち着いた雰囲気のある方だ。緊張している様子は全く見えず、控えめな笑みさえ浮かべてマイクを握っている。さぞかし皆に慕われておいでなのではと思っていたら、秘書課の皆さんが携帯電話を一斉に構えていたのでさもありなんというところだ。
私ももちろん、素敵だと思った。
「課長の歌、素敵ですね」
間奏の間、私は隣に座る主任にそっと告げた。
「確かに歌は上手い」
食事をしながら答えた主任。少しだけ笑って付け加えた。
「しかし何だかんだと言ってた割に、随分ポピュラーな歌に決めたもんだよな」
「結婚式らしくていいと思います」
ユア・ソングは贈り物の歌だ。
ポピュラーな選曲は大成功だった。披露宴の会場がまるごと甘いメロディに包まれて、皆がうっとり聴き入っている。私も、私にイメージし得る限りの幸せな日々を想像してみたくなった。結婚式の後に待つ、絶対の幸せを。
課長ご自身が言っていた。『可愛い後輩の結婚式だから』、とびきり結婚式らしい歌をこの曲に決めたのだと。
多分同じ理由で、主任も撮影係を引き受けたのだろう。
主任もいつしか食事の手を止め、ステージの方を注視していた。ほんの僅かに疲労の色が滲んだ横顔は、だけど素敵だと思う。安井課長も素敵だけど、主任だってちっとも負けてはいない。ということは、主任を慕っている人が私の他にもいるかもしれない。
いないといいなあ、とこっそり思っておく。
でも、そういう風に思うのって結局は惚気みたいなものかな。恋人のことをすごく素敵な人だと捉えているのって。本当に素敵なんだから、しょうがないのかもしれないけど。
ぼんやり見つめていたら、不意に主任がこっちを向いた。
「……あ」
恋人同士になってからだって、目が合えば普通にどきっとしてしまう。おまけに今はBGMが甘い歌声のユア・ソングと来ているから余計に困った。他の人たちは皆ステージを見ていて、私たちだけがお互いを見ている。そのことに気付いたか、ふっと真剣な表情を向けられたから、体温が急上昇しそうになる。
それで慌てて言った。
「主任、海老のフリッターが特に美味しかったです。是非召し上がってください。何でしたら私、お持ちしましょうかっ」
「は? 何だ急に」
「いえその、美味しかったメニューを覚えておいて、主任に教えて差し上げようと思っていたんです。それだけです」
唐突に切り出したせいか、主任はぱちぱち目を瞬かせる。それから何か思いついたようになって、にやっとしながら指先で、私の額を軽く弾いた。
「誤魔化すな。どぎまぎしてたくせに」
――ばれてる。
海老のフリッターが美味しかったのも、本当なんだけど。
披露宴は午後八時、めでたくお開きとなった。
その後も石田主任は、もう少しだけ撮影のお仕事があるらしい。
曰く、
「ご親族といるところもちょっと写してくれって頼まれててな。だから少し遅くなる」
とのことで、私はどこか寒くないところで待っていろと言い渡されていた。だから披露宴会場を出て、お見送りをしてくれた新郎新婦にご挨拶をした後は、あの天窓のあるロビーで主任を待つことにした。
新郎新婦へのご挨拶は、何度目になるかわからない『おめでとうございます』が精一杯だった。お二人ともきっとお疲れに違いないのに、私の拙い挨拶にも優しい笑顔とお礼をくださって、恐縮してしまった。
お二人の門出を祝えて、本当に良かった。
招待客はぽつりぽつりと帰り出し、私のいるロビーも次第に静かになっていく。営業課一同も挨拶を済ませた後はほとんど帰ってしまった。何組か、二次会に向かう為にか残っているグループがあったけど、ほとんどの人はすんなりと帰途についたようだ。
私はクロークでコートを受け取ると、それを着込んでロビーの長椅子に座る。
天窓を見上げようとしたら、視界を遮るように影が落ちた。
「隣、いい?」
同じくコートを着込んだ、安井課長だった。
まだお帰りになっていなかったんだ、少し驚きながらも問いには頷く。
「どうぞ。……課長は、一休みしてからお帰りになるんですか?」
「いや、ちょっと人恋しくなっただけだ」
そういう物言いをして、課長が隣に腰を下ろす。
いくらかはくたびれているらしい面持ち。私が視線を向けると、ちょっとだけ笑う。
「独り身なもので、帰っても誰もいないんだよ。あの幸せな二人を見てから一人の部屋に戻るのは寂しくてな」
わかるような気がする。
それでなくてもこの建物内の、潮の引いていくスピードは速い。さっきまではあんなに人が大勢いて、笑いさざめく声も方々から聞こえていたのに、今はしんと静かだ。ボリューム抑え目のBGMがちゃんと拾えるくらいだから、物寂しい気持ちにもなってしまう。
そういう時こそ楽しい話をすべきだと思う。せっかくいい式だったのだし、私はすかさず気を取り直し、口火を切った。
「課長の歌、すごく良かったです。本当にお上手なんですね」
「ありがとう」
衒いなく笑んだ課長が、言葉を継ぐ。
「気に入ってもらえたなら、君の結婚式にも歌おうかな。そう遠い日でもなさそうだし」
「え、う」
早くもぐっと声が詰まる。この間初めての恋人が出来たばかりの私に、結婚まで考える余裕はなかった。主任にはそういう話題を持ち出されたこともあったけど、まだ自分のこととしては捉えられない。なのに結婚式の話をされても。
答えに窮すこちらを見て、課長はもう一つ笑った。
「可愛いな、小坂さん」
「そ、そんなこと全然ないです!」
「あるよ。……可愛い子から他人の物になっていくんだなと、しみじみ実感してたところだ」
そこで課長が、視線を遠くへ放った。
ロビーの先、披露宴会場へと続く扉の前。その両開きのドアは今でこそ閉ざされているけど、つい二十分ほど前までは開け放たれていて、新郎新婦が傍らに立ち、招待客の一人ひとりと挨拶をしていた。そんな場所だった。
今は誰も立っていない。がらんとしている。
それでも、閉じたドアを真っ直ぐ見据えていた。
「あの可愛い人がもう人妻になってるんだからな。似合わないとは最早言わないけど、悪い男もいたものだ」
呟く声がロビーに溶ける。
以前にも聞いた台詞だと思った。課長ではなくて、主任が同じようなことを言っていた。
その時はもう少し冗談めかした調子で言われていたけど――今、安井課長は本当に寂しそうな横顔をしていた。眼差しは遠くを見ていた。訳もなく、無性にはっとさせられた。
私は以前思ったのと同じ気持ちを抱く。誰が何と言おうと、どう思おうと変わらない。私には今しか見えないから。
一瞬ためらいながらも、今度は声に出して伝えてみた。
「長谷さんは、きっと素敵できれいな奥さんになると思います」
隣に座る課長が、再びこちらを向く。
くたびれていた表情は、時間を掛けてゆっくりと綻ぶ。
「そうだろうな」
全て笑みに変わった後で、静かに言われた。
「でも、本当に思うよ。可愛い子ほどさっさと取られてしまうから、この世は無常だ」
そしてすっくと立ち上がり、
「じゃあまたな、小坂さん。二人きりの二次会、楽しんできて」
穏やかな挨拶を残して、安井課長は去っていく。
略礼服の背中を見送った後、私は改めて天窓を見上げた。
大きな窓には雪がうっすら積もっていて、晴れの夜よりも明るいくらいだった。照明を跳ね返して光る一面の白。私は足元に目をやって、隙だらけのパンプスに多少の不安を抱く。
それでも、人恋しい気持ちは私も同じだ。だからこのまま主任を待って、飲みに連れて行ってもらおうと思う。恋人同士になってから初めてのデートは、きっと優しい時間になる。
待つ間、私は結婚式と披露宴で見た光景に思いを馳せていた。今日一日で目の当たりにしてきたものは全てが幸せに満ちていて、温かだった。私は自分が結婚するなんて、想像ですらまだ出来ずにいるけど、霧島さんたちが結婚して、この先ずっとずっと幸せに暮らすだろうという想像ならいくらでも出来た。皆と一緒にお祝いも出来たし、はにかむお二人を見ているとこっちまでもじもじしたくなった。だけどすごくうれしい気分にもなれた。
いい結婚式だった。
結婚するってどういうことか、わかったような気がする。
皆に認めてもらうこと、それからお祝いしてもらうこと。神様にも周りの人たちにも結婚します、幸せになりますって誓うこと。好きな人と家族になって、同じ名字になって、名前で呼んでもらえるようになること。
私もいつかそういう結婚をするのかなあ。
現実味はちっともないけど、もし、もしもそういう機会があったとしたら。
その時の相手はやっぱり、石田主任がいいな、なんて――。
「――小坂」
天井の高いロビーに響く声が、私を呼んだ。
「は、はいっ」
とっさにばね仕掛けみたいな速さで立ち上がる。考え事をしていたせいか、主任が長椅子のすぐ脇に立っていたことにたった今気付いた。
「主任!? あの、その、今、いらっしゃったんですか?」
ものすごく慌ててしまう。だってこのタイミングと言ったらない。何を考えていたかなんて、声にも出していない限りわかるはずもないんだろうけど、主任にならばれてしまいそうな予感もひしひしする。
長椅子の脇に立つ石田主任は、既にコートを着た姿で苦笑していた。
「たった今来た。そんなに焦らなくたっていいだろ」
「すみません、ぼうっとしていたもので」
「何かいいことでも考えてたのか? やけに顔が緩んでた」
「……ひい」
悲鳴の出来損ないみたいな声を上げてしまう。ああこれはもう半分くらいばれてる。きっと。
現に、主任もにやっとしている。
「そんなにいい話があるなら、酒でも飲みながらじっくり聞かせてもらおうか。さ、行くぞ」
「あ、あの、黙秘権ってありますよね?」
「ない」
きっぱり言い切った後、小声で念を押された。
「恋人に隠し事はするなよ。結婚式の後だ、連中の仲睦まじさくらいは見習ってやろう」
私だって隠し事をしたい訳ではないんだけど、恥ずかしくて言えないことはたくさんある。恋人同士になったからと言って、そういうことにすぐさま慣れてしまえるはずがない。
だけど、雪のうっすら積もった道を、手を繋いで歩いていた。
結婚式場を後にしてすぐ、ごく自然に手を取ってもらって、頼りにするようにしっかり握っていた。
「少し歩くからな。転ぶなよ、小坂」
「気を付けます。でも私が転んだら、ちゃんと手を離してください」
「その時は一緒に転んでやるよ」
白い息の主任が笑う。
一緒に転ぶのは申し訳ないから、私は転ばないように頑張ってみることにする。手を離して歩くという選択肢はなかった。繋いでいられるうちは、ずっと繋いでいたかった。